石原慎太郎氏が亡くなった。ツイッターでは石原氏の過去の差別的発言に対する激しい批判と、亡くなった人を激しく批判することへの反発が入り乱れた。
政治家が他界した際に過去の言動を批判することが間違っているとは私は思わない。むしろその政治家が残した「負の遺産」が間違った形で後世に引き継がれないように、他界した時点で「負の遺産」として的確に総括しておくことは必要であろう。
一方で、亡くなった時点で激しい表現で批判を展開することへの違和感も理解できる。批判の表現やタイミングには十分な配慮があってしかるべきだし、そのほうが「負の遺産」として総括することへの共感も広がるに違いない。
その意味で「世代もだいぶ違っていて、ご一緒したこともほとんどない。私たちと立場の違いはもちろんあったわけだが、今日言うのは控えたい」という共産党の志位和夫委員長のコメントは政治家の発言としては秀逸だった。
もちろんジャーナリストをはじめ言論人が「今日言うのは控えたい」とかわすのが適切かどうかはまた別の話である。政治家が他界するタイミングに何をどのように表現するかはプロの物書きとして高度な力量が問われる局面といえるかもしれない。
私は朝日新聞記者として石原氏を一度だけインタビューしたことがある。東京都知事時代のことだった。インタビューの成果はさしたるものではなく、その内容はあまり覚えていない。
記憶に鮮烈に残っているのは、インタビューが終了してカメラマンが照明機材を片付けている間に石原氏が雑談として切り出した話の内容である。彼は「これは私が生きているうちは表には出せないんだけどね」と暗にオフレコを指定しながら口を開いたのだった。
「中曽根さんと渡辺さんと私で会食しているでしょ。そのとき毎回話題になるのは昭和天皇の戦争責任のことなんですよ。昭和天皇は少なくとも退位すべきだった。この意見で毎回、三人は一致するんですよ」
中曽根さんとは中曽根康弘元首相である。渡辺さんとは渡邉恒雄・読売新聞社主筆だ。この二人と石原氏は当時、定例的に会食を重ねていた。三人は毎回、「昭和天皇は終戦後、戦争責任をとって少なくとも退位すべきだった」という意見で一致していたというのである。
三人が会うたびに、昭和天皇には戦争責任があり、少なくとも終戦後に退位すべきであったと語り合っていたという事実自体に私は驚いたが、それにも増して興味深かったのは、石原氏が何の脈略もなく、この秘話を、インタビュー終了後の雑談として、朝日新聞記者の私に、わざわざ切り出したことだった。
石原氏の意図はどこにあるのかーー。
ややはにかみながら秘話を明かす石原氏の表情をみながら、私の頭はぐるぐる回転した。その話はウソとはとても思えなかった。石原氏は朝日新聞記者である私にどうしてもこの秘話を伝えたかったのだ。インタビューの内容よりも伝えたかったのはこの秘話なのだろう。いったい、なぜ?
私は石原氏と初対面だった。あえて私にそんな秘話を打ち明ける必要はない。これは私が「朝日新聞記者」だからこそ伝えたかったことなのだろう。私でなくても「朝日新聞記者」であれば誰でもよかったのかもしれない。
安倍晋三氏ら「現代の右派・タカ派」と違って石原氏の世代の「一昔前の右派・タカ派」は、「リベラル派・ハト派」を代表する朝日新聞への対抗心を燃やしながらも、どこかでそこへの敬意や憧憬を抱いているーーそのような解釈を私は先輩記者から聞いたことがある。
戦後日本において「右派・タカ派」は非主流派だった。自民党の権力中枢を支えてきたのはリベラルで経済重視の経世会や宏池会であって、清和会に代表される「右派・タカ派」は冷や飯を食わされてきた。それを一気にひっくり返したのが2001年に誕生した小泉純一郎政権だった。ここから清和会時代が到来し、「右派・タカ派」は全盛を迎える。安倍氏はそのなかで頭角を表してきた政治家の筆頭だ。
一方、石原氏は自民党政治家としては非主流派に甘んじてきた。一度は政界を去った彼を東京都知事に押し上げたのは、リベラルから右派へ政界の軸が移行する時代の流れであったろう。しかし石原氏には安倍氏とはまったく違う政治感覚ーー非主流派としてリベラル勢力に敗れ続けたルサンチマンが色濃く漂っていた。
自分たちの主張は非論理的な空論ではなく精緻な考えに基づくものであるーーそのような思いを、自らが敵視するリベラル派(とりわけその代表格である朝日新聞)には理解してもらいたいという、倒錯した強い欲求を、私は石原氏が明かす「秘話」から感じたのだった。石原氏が政治信条を正反対とするノーベル賞作家・大江健三郎との文学的交流を深めたのもそのような思いがあったのかもしれない。少なくとも東京都知事になった当初の頃まで、石原氏はそのような気配を漂わせていた。都知事に当選を重ね、日本社会全体がどんどん右傾化するなかで、石原氏のルサンチマンは徐々に氷解し、それに伴って差別的な言動が剥き出しになってきたように私は感じている。
石原氏と「昭和天皇の戦争責任」について語らいあった中曽根氏や渡辺氏もリベラルへの複雑な思いを抱えていた。
私は中曽根氏の晩年にインタビューする機会を得た。彼がもっとも声を昂らせて語ったのは、同じ1918年生まれの田中角栄のことだった。小派閥を率いるタカ派の中曽根氏は最大派閥・田中派に担がれて悲願の首相の座を手に入れ、当初は「田中曽根内閣」と揶揄された。その後、自らの権力基盤を徐々に整え、長期政権を築く。インタビューでは中曽根氏が90歳を過ぎてもなお、とっくにこの世を去った田中角栄に対する強烈なライバル心と敬意を抱いていることを私は実感した。
読売新聞の渡辺氏が朝日新聞に抱く思いも似ている。渡辺氏は「私は朝日が嫌いだ」と書き出す論考を朝日新聞に寄稿したことがある。読売新聞にいる私の知人によると、渡辺氏はかつて社内の幹部を集めた新年の挨拶の大半を「朝日批判」に費やしていたそうだ。この知人は「主筆は朝日のことが気になって仕方がないんですよ」と解説してくれた。渡辺氏は朝日新聞主筆でジャーナリズム界を代表するリベラル派論客だった若宮啓文氏と親密だったが、若宮氏が2016年に急死したあたりから「最近の朝日は誰と話していいかわからない」と漏らすようになったという。
中曽根氏、渡辺氏、石原氏に相通じるリベラルへの複雑な眼差し。そのような感性は、安倍世代の右派・タカ派には微塵も感じられない。そこにあるのはリベラルに対する「敵視」と「侮蔑」の感情だけである。石原世代から安倍世代に移行する過程で朝日新聞をはじめリベラル派の影響力が大きく低下し、入れ替わって国家権力や言論界の中枢を占めるようになった右派・タカ派の政治信条の単純化も進んだのではないだろうか。どちらも薄っぺらくなったのだ。
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