タレントの東国原英夫氏(64)が8月17日、宮崎県知事への返り咲きを目指し、今年12月の知事選に出馬する意向を表明した。弟弟子の水道橋博士が今夏の参院選でれいわ新選組から当選したことも政界復帰への意欲をかき立てたに違いない。
宮崎知事選には現職で4期目を目指す河野俊嗣氏(57)がすでに出馬表明している。
河野知事は自治省(現総務省)出身で、宮崎県庁に総務部長として出向中に東国原氏が知事に就任。そこで副知事に起用された。東国原氏は「元上司」である。
東国原氏が2010年12月の知事選に不出馬を表明した後、自民、公明、民主各党が相乗りする事実上の後継者として担がれ、東国原氏の支援も受けて当選。その後、事実上の無風選挙で再選、再々選を果たし、県政基盤を固めてきた。
県内では絶大な権力を握る知事職を3期12年続け、4期目を目指す現職は一般的には極めて強い。河野知事もさらに当選を重ねて全国知事会の実力者となる大物知事への階段を駆け上るつもりだろう。そこへかつての「上司」である東国原氏の「挑戦」を思わず受けることになり、戸惑っているに違いない。
テレビ宮崎(UMK)の報道によると、東国原氏は宮崎市での記者会見で、政治行政には雇用創出や子育て環境の充実、インフラ整備などに加えて「希望、ワクワク感」が必要だと強調。「県民の皆さんも、県外の方も宮崎を選ぶ。それが存在感だ」と自らの全国的な知名度を誇示し、宮崎を「4年後は見違える景色にしてみたい」と語った。自治官僚出身の地味な河野知事では宮崎を全国にアピールするには力不足だといいたいようだ。
これに対し、河野知事は「出馬表明されたということで驚きをもって受け止めています。12年も経った今、なぜ今なのか。ここで時計の針を巻き戻すようなことがあってはならない」と受けて立つ姿勢を強調した。
宮崎は保守王国だ。保守分裂の熾烈な選挙が繰り広げられることも少なくない。今回も河野県政に不満を持つ保守系議員が東国原氏の支援に回る可能性はあろう。東国原氏も県政界への人脈を使って十分にリサーチしたうえ出馬表明したはずである。すでに双方が自民党に推薦願を提出した。激しい知事選になると思われる。
私は河野知事を25年前から知っている。朝日新聞入社4年目の1997年、浦和支局(現さいたま支局)に赴任して埼玉県庁を担当した際、30代前半の自治官僚だった河野氏は埼玉県まちづくり支援課長として出向していた。それ以来、宮崎県知事就任後も彼から家族写真入りの年賀状が届いていた。
自治官僚出身の政治家といえば、私と香川県立高松高校の同級生である立憲民主党の小川淳也氏が思い浮かぶ。しかし地方自治を所管する自治省の出身者で圧倒的に多いのは知事だ。各省庁の官僚の多くは事務方トップの事務次官を目指すが、自治省は最初から知事職を志向して入省した官僚が少なくない。
その意味では小川氏や高井氏よりも河野氏のほうが典型的な自治官僚といえるだろう。今回は河野氏を舞台回しに「自治官僚」の人生について考えてみよう。
河野氏は広島県呉市出身。広島大学附属高校から東大法学部に進学し、1988年に自治省に入った。地方の進学校から東大へ進んで自治官僚になったという経歴は小川氏と同じである。
小川氏も入省時は野党の国会議員というよりも香川県知事になる将来像を描いていたかもしれない(本人とこの点について突っ込んで話したことはないけれど、私はなんとなくそんな気がしている)。
河野氏はその後、宮城県庁や愛知県春日井市、埼玉県などの地方自治体へ出向を重ねた。このうち春日井市では企画調整部長を務めた(興味深いことに小川氏も春日井市に出向し同じポストを務めている。自治省の指定席だったのだろう)。埼玉県ではまちづくり支援課長の後、財政課長も務めた。キャリア自治官僚は若くして自治体の要職を渡り歩き、キャリアを重ねていくのである。
そして2005年に宮崎県庁へ総務部長として出向し、東国原氏と出会って副知事に起用され、東国原氏の知事選不出馬を受けて後継知事の座を射止めた。現職知事が勇退したり、国政に転じたりした後、県政界の権力構造を維持するために自治官僚が担がれるという典型的なケースだ。
私が埼玉県庁で取材した30代前半の河野氏は、極めて常識人で優等生タイプだった。感情をむき出しにすることは決してなく、いつも温和で朗らかで飄々と私の取材に接していた。仕事をぐいぐい進める剛腕さや政策実現に執念を燃やす熱情のようなものはまったく感じなかった。
県議ら政治家たちとの関係もあっさりしたもので、政界工作にたけた官僚のイメージはみじんもなかった。自治官僚だから将来は知事になる希望は持っているだろうとは推察していたが、エリート官僚にありがちな権力欲を感じたことはなく、少なくとも自ら権力を掴み取るタイプには見えなかった。長年届いた年賀状の家族写真をみても、政治家というよりは「幸せな家庭のパパ」だった。
地方出向中の若手キャリア官僚(自治や警察など旧内務省系が多いが、財務、経産、厚労、国交、検察なども少なくない)と地方に赴任する新聞記者は、世代も近く親密になることが多い。お互いに東京勤務になった後も情報交換の相手として交流は続く。
私は大学を卒業して朝日新聞に入社した後、茨城と埼玉の勤務を経て27歳で東京本社政治部へ着任したが、この両県で出会ったキャリア官僚たちには東京でもずいぶんお世話になった(私はその後一度も東京から転勤していない。27年の新聞社勤務で関東からまったく外へ出たことがないという稀有な新聞記者人生だった。それだけに茨城と埼玉には思い入れがある)。
そのなかでも河野氏にはギラギラとした上昇志向は感じなかった。私が永田町でたくさん取材してきた政治家たちのような匂いもまったく漂っていない。オーソドックスな官僚だった。
東国原氏の後継として宮崎県知事選に出馬したときは正直驚いたが、もしかしたらこのようなタイプのほうが自治官僚としては知事に担がれやすいのかもしれない。
自治官僚が知事を目指すパターンはふたつある。故郷の知事選に出馬する「出身地型」と、出向先(あるいは出向した経験のある)都道府県で知事選に出馬する「出向地型」だ。
鳥取県知事を1999年から2期8年務め、改革派知事として高く評価された片山善博氏は、岡山県出身で東大卒業後に自治省に入り、鳥取県庁に二度も出向して財政課長や総務部長を歴任した。4期16年務めた前任知事の勇退に伴い、当時は自治省に戻って府県税課長を務めていた片山氏が後継者として地元政界から担がれた。
実はこの時、もうひとり有力候補がいた。片山氏にとっては自治省の先輩にあたる中川浩明氏(当時は国土庁地方振興局長)だ。中川氏は鳥取市出身だが、鳥取での勤務経験はなかった。この二人の自治官僚が地元政界を二分して後継争いを繰り広げたのである。
勝利したのは「出身地型」の中川氏ではなく「出向先型」の片山氏だった。やはり県庁の要職に出向したほうが地元政界との密接な関係を築きやすいのであろう。後継争いで敗れた中川氏は知事選出馬を断念して自治省に残り、最後は消防庁長官として自治官僚人生を終え、全国知事会事務総長に収まった。
広島県出身ながら宮崎県知事となった河野氏は典型的な「出向先型」である。河野氏が埼玉県庁に出向していた時(つまり私が埼玉県庁を担当していた時)、副知事として埼玉県庁に出向していたのが中川氏だった。自治官僚の世界は実に狭い。
当時の埼玉県庁にはもうひとり自治官僚が出向していた。青木信之・総合政策部長である。河野氏にすれば、課長だった自らの上に部長の青木氏がいて、さらにその上に副知事の中川氏がいた。お目付役が二人もいて、当時の河野氏は窮屈そうに見えた。
青木氏はその後、埼玉県副知事を経て、最後は消防庁長官となる。中川氏と同じコースをたどったのだ。私が埼玉県で取材した3人の自治官僚のうち、中川氏も青木氏も結局は知事になる機会に恵まれず、末席にいた河野氏が宮崎県で知事になった。
3人の実力差というよりも、運命の巡り合わせであろう。知事職を熱望して自治省に入ったキャリア官僚たちはそのような世界に生きている。
その運命に恵まれて宮崎県知事の座が転がり込んできた河野氏。12年後に東国原氏に挑まれるとは夢にも思っていなかっただろう。若き日の埼玉県庁時代はオーソドックスな官僚に見えたが、実は波乱万丈の運勢を背負っているのかもしれない。