参院選まであと3ヶ月。読売新聞の4月世論調査によると、政党支持率は自民党が41%、立憲民主党が5%、日本維新の会が5%。他社の世論調査もおおむね似たような傾向である。このままいくと、自民党の一人勝ちだ。
参院選で与党を過半数割れに追い込み、衆参ねじれ国会をつくって政権を追い込み、次期衆院選で政権交代をめざすーー2009年の民主党への政権交代はこのような流れで実現した。だが、野党の支持率がこれほど低いようでは「与党の過半数割れ」の現実味はまったく感じられない。
しかも維新は立憲民主党から野党第一党の座を奪うことを参院選の目標に掲げ、国民民主は当初予算案に賛成した。維新と国民民主は先を競って「与党入り」を目指しているかのようだ。両党はもはや「野党」とは言えないだろう。
そのなかで「与党の過半数割れ」を参院選に掲げたところで、どれほど意味があるかわからない。仮に自公が過半数割れしたとしても、維新や国民民主の与党入りを後押しするだけで、衆参ねじれ国会が実現する可能性はほぼゼロだ。
野党が一致結束して政権与党と激突するという構図が選挙戦に入る前からすでに崩壊している時点で、野党第一党の立憲民主党は参院選に「不戦敗」していると言える。いったい何のための参院選なのか。
野党議員が自分の議席を守るためだけの参院選なら、投票率が上がるはずがない。ますます悪循環である。またもや低投票率で自公圧勝なのか。
そこで野党支持層からは、非現実的な「与党過半数割れ」ではなく、現実的な「改憲勢力の3分の2阻止」を掲げることで参院選への関心を高めようという声も出ている。合理的な戦術だ。
ところが、この掛け声もいまや苦しくなってきた。維新も国民民主も改憲に前のめりなのだ。さらには立憲民主も断固反対という姿勢ではなくなってきた。ウクライナ戦争に伴う安全保障論の高まりがそれに拍車をかけている。
「ウクライナと共にある」として戦争当事国の一方に全面加担する国会決議にれいわ新選組をのぞく与野党が全会一致で賛成し、国民総動員令を出して戦争を遂行するゼレンスキー大統領がロシア制裁強化を訴える国会演説をれいわを除く与野党議員がスタンディングオベーションで称賛する姿を目の当たりにすると、この国には大日本帝国憲法下の大政翼賛会のような全体主義が復活しつつあるという恐怖を感じてしまう。
もはや「改憲勢力の3分の2阻止」を訴えても「改憲阻止勢力」はどこにいるのか。「野党」を名乗っていても本当にその候補者は「改憲阻止勢力」なのか。日本周辺の安全保障上の危機が高まったので国防を強化するという「大義」を突きつけられれば、すぐに改憲勢力に転じるのではないか。実に怪しくなってきた。
私は先日、そのような分析を以下の記事で示した。
参院選の野党共闘は絶望的に。「改憲勢力の3分の2阻止」の旗印も怪しくなってきた
これに対して、元ラジオアナウンサーとして3年前の参院選宮城選挙区で初当選した立憲民主党の石垣のりこ参院議員から以下の反論をいただいた。彼女は「日本国憲法の崇高な理念を守るためにこそ」ロシアを一方的に糾弾しているというのである。
石垣氏の3年前の参院選の戦いぶりは見事だった。「消費税廃止」を掲げるれいわ新選組に対し、立憲民主の枝野幸男代表ら執行部が否定的な立場を維持する中、石垣氏は「消費税廃止」を鮮明に掲げ、大激戦を制したのである。肝っ玉の座った新人議員が誕生したと頼もしく思ったものだ。
その石垣氏が「日本国憲法の崇高な理念」を守るため、ロシア「だけ」を一方的に糾弾しているという。彼女らしい攻撃的な言葉だと思った。
石垣氏のいう「日本国憲法の崇高な理念」とは「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と強調する憲法前文などを念頭に置いたものだろう。
ロシア軍のウクライナ侵攻という暴挙を許さず、それに対抗して自衛戦争を遂行するゼレンスキー政権を全面的に支援し、ロシアを徹底的に糾弾することこそ、平和を維持するという「崇高な理念」を追求して「国際社会における名誉ある地位」を獲得する行為であるという考え方といえる。
私はゼレンスキー政権という「国家」がロシアという「国家」に対して自衛権を発動することは否定しない。だが、ゼレンスキー政権という「国家」が野党の活動を停止させ、国民総動員令を発令して「ウクライナ国民」から戦わない自由を剥奪し、ウクライナ軍への招集礼状を出して戦地に送り込むことには断固反対だ(ゼレンスキー政権が国民に戦争参加を強要していること、ウクライナ国内で戦争に協力しない人々を「非国民」と呼ぶ同調圧力が高まっていること、その様子は大日本帝国下の太平洋戦争と酷似していることは、以下の記事を参照してほしい)。
避難先にも招集令状「まさか自分の元に」ウクライナ国内「戦争への関わり方」で分断も〜見落としていた読売新聞・笹子美奈子記者の現地ルポ
立憲主義の本質は、国家権力から国民の基本的人権を守ること、そのために権力者の手足を縛ることにある。日本国憲法が最も価値を置いているのは、基本的人権の尊重なのだ。国家権力が国民の基本的人権を侵害しないように、国民主権や平和主義を掲げているのである。
国家権力による戦争や大量虐殺といった苦難の歴史を二度と繰り返さないようにという反省に立って人類がたどり着いたのが立憲主義である。その核心は「国家権力から国民の基本的人権を守る」ことにあるという歴史的経緯をまずは確認しておきたい。
そして、第二次世界大戦の敗戦を反省し、二度と国家権力による基本的人権の侵害を許さないと決意し、立憲主義を徹底的に追求してつくられたのが、「戦争放棄」を掲げる日本国憲法なのである。権力者が戦争を遂行することができないように手足を縛っているのだ。国民が戦争に巻き込まれないように守っているのである。
その日本国憲法の立場からすれば、国家が掲げる「正義」の名の下に、国民の「戦いたくない自由」を剥奪し、殺したり殺されたりする戦争への参加を強要するという基本的人権の侵害は、絶対に許されるものではない。国民に戦争を強要しているゼレンスキー大統領を称賛して全面的に支援することは、基本的人権の尊重を何よりも重んじる日本国憲法の理念に反していると言わざるを得ない。
私が石垣氏の反論をみて懸念したのは、仮にロシアが日本に侵攻してきた時、彼女が最高権力者ならばゼレンスキー大統領と同様に、「日本の国土を守る」という「崇高な理念」に基づいて、日本国民から「戦わない自由」を剥奪し、私たちに戦争参加を強要するのではないかということだった。もし、自国民に戦争参加を強要することを断じて許さないという政治信条を持っているのなら、国民総動員令を発して男性の出国を禁じ軍隊への招集礼状を送りつけるゼレンスキー政権に一方的に加担することは憚られるのではないかと思ったのである。
正義や理念を実現するために国家が遂行する戦争をいったん肯定してしまえば、それら正義や理念が危機に直面した時に憲法を改正してでも国民に戦争参加を強要して国家が信じる正義や理念を守ろうとするのではないか。個人よりも国家を優先する政治信条をそこに感じたのだった。
これは石垣氏に限ったことではない。立憲民主党内に石垣氏と同様に「個人より国家」を重視する視点が広がっていることを、私はこのウクライナ戦争への反応をみて痛感している。そのような人々が国家の危機に直面した時に「改憲阻止勢力」の立場を貫くとはとても思えないのである。
他の野党議員についてもみてみよう。
以下は立憲民主党・無所属会派に属する米山隆一衆院議員のツイートである。米山氏は極めて理知的で論理性を重視した発信をしかも率直で明快な語り口で重ねており、私も常日頃から学ぶところが多い。医師でも弁護士でもあるうえ、知事も経験しており、与野党を含む日本政界全体でも屈指の理論派といえるだろう。
その米山氏がウクライナ戦争に際して以下のツイートをした。「もし仮に自分が総理の時に他国の侵略を受けたら」という仮定の話について、率直な見解を述べたものである。
私は米山氏とはある勉強会で顔をあわせたことがある。このツイートをみて、米山氏が「もし仮に自分が総理の時に他国の侵略を受けたら」という究極の場面をあえて想定し、真面目に真剣に思考を突き詰め、悩み抜いた上で「全力で防衛戦を指揮し、専門家を集めて勝機を探り、国民を鼓舞し、被害を最小限に抑えつつ見極め、勝てる限り戦い、勝機が潰えたと判断したら自ら幕を引く」という結論を絞り出したことは想像できた。
だが、何があっても人を殺したり殺されたりする戦争には参加したくないと思っている一人の日本国民として、私はこの衆院議員のツイートに対して、正直、違和感を抱くしかなかった。
仮に理知的で聡明な米山氏が総理であったとしても、私は戦争に向けて「鼓舞」されたくはないし、国民を「鼓舞」してほしくもない。総理が戦争を「鼓舞」したら、日本社会には同調圧力が蔓延し、私のように戦争参加を拒む人は「非国民」というバッシングの嵐を浴びるだろう。武器を持った極右過激派から罵詈雑言を浴びせられるだけではなく襲撃されるかもしれないという恐怖もある。
国家が戦争の旗を振ると社会は戦争に染まり、多くの人々の基本的人権が失われるのだ。大日本帝国や現在のウクライナがそうであるように。だからこそ日本国憲法は「戦争放棄」を掲げているのではないか。
米山氏は国会議員として「仮に自分が総理だったら」と想定したのだろうが、同時に「仮に自分のもとへ、主義主張がまったく異なる安倍総理から赤紙を送られてきたら」という一人の国民の立場も想像してみてほしい。戦争を遂行する司令官の目線ではなく、戦争に駆り出されて命を落とす国民の目線を重視して考えてほしいのだ。
米山氏は「民主的に選出された安倍政権が民主的に決定した事項なら、自分自身の思想信条と反していても赤紙に応じて戦う」というのかどうか。もしそうだとしても、私にように「絶対に人を殺したり殺されたりする戦争には参加したくはない」という人の基本的人権をどう考えているのか。さらには国家権力が国民を鼓舞して戦争を遂行することで戦争参加を拒みにくい同調圧力が高まることについてどう考えるのか。
私は他国に侵略されるという事態を招いた時点でその政権の外交・安全保障政策は失敗しており、国民の命を危険にさらした政治責任は免れず、即座にリーダーを交代させ、ただちに停戦協議に入り、国民の命を戦争で失わせないことを第一とすべきだと考える。
それにより領土の一部を失うことがあっても、それは侵略を招いた為政者たちの外交・安全保障政策の失敗の帰結であり、その失敗を国民の命を犠牲にして挽回することには反対だ(ウクライナ政府は米軍から軍事支援を受けて国防を増強し、NATO加盟を目指し、白人至上主義を掲げる極右勢力に武器を与えて後押しし、国内外の軍事的緊張を高めた結果、ロシア軍の侵攻を招いてウクライナ国民の命を犠牲にしたという意味で、安全保障政策上の重大な失敗をおかしており、ウクライナ国民に対する政治責任を免れない)。
他国の軍事侵攻を未然に食い止められなかった以上、国民総動員令を出して出国を禁じ、武器を持たせて徹底交戦するよりも、一刻も早い停戦合意をめざし、一人でも多くの国民の犠牲を回避することに全力をあげるべきである。そのほうが戦後復興もはやい。それが太平洋戦争の敗戦が残した教訓ではないのか。
いったん徹底抗戦を掲げると、引くに引けなくなり、国民の犠牲が増大していくのが戦争だ。ゼレンスキー政権はその悪循環に入っているとしか思えない。このままではロシア軍が撤退したとしても、国土は荒れ果て、国内に武器が氾濫し、白人史上主義を掲げる極右過激派が跋扈し、ロシア系の国民との内戦は終息せず、復興への道のりは険しくなる一方ではないか。
米山氏のように「総理」の視点で戦争を突き詰めて考えると、「国益」を守るために「徹底抗戦」という答えに辿り着くのかもしれない。しかし、「国民」の視点で戦争を突き詰めて考えると、答えは変わってくる。領土を占領されようが、政権が倒れようが、私たちが存在している限り、日本という国家が滅びることはない。何よりも一人でも多くの国民の命を残すことを最優先に考えるのが、国民目線に立った政治の究極の目標なのではないか。それが戦争放棄を掲げる日本国憲法の理念に即した立場であろう。
日本国憲法は「国家」よりも「国民」の目線に徹底的に立っている。国家権力から国民の基本的人権を守るという思想で貫かれている。それに対し、立憲民主党を含む野党議員の大半からは「支配者の目線」を感じてしまう。彼らは状況次第では「改憲勢力」に転じ、国家のために個人に犠牲を強いるのではないかと、私はウクライナ戦争への対応をみて強く危惧している。
以上のような立場をもとに、立憲民主党を率いる泉健太代表の立場を分析してみよう。4月2日に奈良市での街頭演説に、彼の憲法観は凝縮されている。以下、朝日新聞デジタルの記事を引用したい。
■立憲民主党・泉健太・代表(発言録) 「憲法改正に賛成ですか。反対ですか」という質問が来たら「その質問、アホじゃないですか」と言ってあげてください。 「法律の改正に賛成ですか、反対ですか」と聞かれたら、みなさんどう答えます。「そんなもん、中身を教えてもらわなければ、賛成も反対もないじゃないの」と言うに決まっていますよね。なのになんで憲法は中身も聞いていない、中身も決まってないのに、賛成か反対か聞かれて、賛成だとか反対だとか言うんですか。こんなおかしな議論にだまされちゃいけない。 「憲法改正に賛成」って単に言っているとしたら、これはおかしな話です。中身がわからないのに賛成。これは賛成のための賛成、改正のための改正。こんなことはみなさんの生活を考えていることにはなりません。 政治家の手柄とりです。大きいことをやりたい。戦後一回も行われたことのないことだからやってみたいとか。そんなことよりも生活を守ることのほうがどれだけ大事か。生活課題に一生懸命取り組むことの方が大事です。(奈良市での街頭演説で)
今夏の参院選にむけて、自民党は安倍氏が強く主張する「自衛隊の明記」や、危機時には国会議員の任期を延長する「緊急事態条項」など具体的な改憲項目を掲げている。それに対し、泉代表の「中身を教えてもらわなければ、賛成も反対もない」というのは、自民党が推し進める改憲への賛否をあいまいにしていると受け止められても仕方がない発言だ。
自民党が改憲項目を掲げて参院選に臨む以上、それに対して断固反対する意思を固めているのなら、このような発言にはならないだろう。もっと明確に「反対」の意思を発信しなければ、維新や国民民主と同様に、いずれは「改憲勢力」に転じるのではないかという疑念を招く。
ましてウクライナ戦争にあたり、国民総動員令を出して戦争を遂行するゼレンスキー大統領の国会演説を称賛したのである。日本が他国から侵略された場合、泉氏が総理なら、やはり米山氏と同様に、国民を鼓舞して徹底抗戦するのではないか。そのために日本国憲法9条が邪魔になると判断したら、あらかじめ改憲して危機に備えようとするのではないか。
ウクライナ戦争を受けて「ロシア=悪、ウクライナ=正義」の善悪二元論に染まる今の日本政界のなかで泉代表や彼が率いる立憲民主党を「改憲阻止勢力」と判断することは難しい。ゼレンスキー政権の「正義を守るための戦争」を肯定している共産党も含め、いざという局面になった時に、彼らが信じる「正義」のために、私たち国民に武器を持って戦うことを強要してくるのではないかという恐怖を私はリアルなものとして感じている。
その意味で、世論からバッシングされることを覚悟の上で「ウクライナと共にある」という国会決議に唯一反対し、ゼレンスキー演説へのスタンディングオベーションに唯一参加しなかったれいわ新選組だけは、どんな時であっても私たち国民に武器を持たせて人を殺したり殺されたりする戦争への参加を強要することはないだろうと思った次第である。