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避難先にも招集令状「まさか自分の元に」ウクライナ国内「戦争への関わり方」で分断も〜見落としていた読売新聞・笹子美奈子記者の現地ルポ

ウクライナ戦争をめぐる日本のマスコミ報道は、米国防総省や欧米メディアが発信する情報で溢れかえっている。

私たちは戦争当事国であるロシアやウクライナの人々の立場からではなく、ゼレンスキー政権へミサイルなどの武器を渡してウクライナを盾にロシアの東方進出を食い止めようとする欧米の視線でこの戦争を眺めている。

ウクライナの歴史は複雑だ。キエフ大公国という強力な国家が誕生した後、モンゴル帝国を手始めに、リトアニア、ポーランド、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン・トルコ、ロシア帝国など多くの国に支配され、分割された。

このような歴史を踏まえ、ウクライナはさまざまな人々が暮らす国だ。ウクライナ語を話す人もロシア語を話す人もいる。「国民の民意」は決して単一ではない。

東西冷戦崩壊後から親露派、親欧米派、極右過激派(ネオナチ)などの諸勢力が主導権争いを繰り広げ、内戦・騒乱・弾圧などが続いた。それら諸勢力を米国やロシアが軍事的・財政的に後方支援して国内対立に介入し、混迷に拍車をかけた。ウクライナは欧米vsロシアの国益がぶつかりあう主戦場と化し、国外へ逃亡する人が続出して人口は激減していた。

ロシア軍のウクライナ侵攻はこのような歴史的経緯の中で勃発している。「欧米vsロシアの長年にわたる戦争」にウクライナの人々が巻き込まれたとみるのが、歴史を俯瞰した立場からの視座ではないだろうか。

私たちは欧米の目線ではなく、ウクライナの人々の目線でこの戦争をみるべきである。なぜ日本のマスコミにはウクライナから脱出してきた人々の肉声を伝える記事が見当たらないのか。

私はそんな疑念を抱いていたが、とてもいい記事を見落としていた。読売新聞の笹子美奈子記者がウクライナ国境に近いポーランドの街から伝えた「検問所の兵士「女は行け、男は残れ」避難民が殺到…殺気立つポーランド国境」(3月2日配信)や「避難先にも招集令状「まさか自分の元に」…ウクライナは総動員体制、家族離散も」(3月20日配信)である。

笹子記者はロシア軍がウクライナに侵攻した後、ウクライナ西部リビウの街を男性カメラマンとともに出発し、渋滞のため途中から車を降りて避難民に交じって26キロを歩いて、2月28日早朝にウクライナ側国境へたどり着いた。

検問所の前は群衆で身動きが取れず、3時間並んでも行列はほとんど進まない。ウクライナ軍の警備兵が近づいてきて「女は行け。男は残れ」と告げ、カメラマンだけが止められそうになった。ゼレンスキー政権が国民総動員令を出して18〜60歳の男性の出国を禁じていたからだ。

ウクライナ軍の兵士は男性を一人一人厳重に審査していた。笹子記者たちは報道目的でウクライナ国内に滞在していたことを説明し、何とか検問所を突破できたという。

ウクライナの出国ゲートを抜けると、今度はポーランドの入国審査を待つ行列ができていた。避難民たちは殺気立ち、鉄柵越しにポーランド軍の警備兵に向かって叫び声を上げていた。警備兵に殴られたのか、顔にあざができている人もいた。抵抗を続ける人、少しでも先に進もうと前の人に体当たりする人、気力を失ってしゃがみ込む人。必死の形相が笹子記者の目に焼き付いたという。

笹子記者が伝えるルポは迫真の内容だ。ゼレンスキー政権からはウクライナの一般市民へ国民総動員令に基づいて軍への招集令状が届き、国外脱出を図る男性の拘束も相次いでいる。ゼレンスキー政権が遂行する戦争との関わり方をめぐり「ウクライナ国内で分断が起きている」と笹子記者は伝えている。

笹子記者が取材したITプログラマーのロマさん(35)の証言は生々しい。

彼は妻イリーナさん(32)と生後3か月の息子とともに首都キエフで暮らしていたが、ロシア軍の侵攻が始まる直前の2月中旬、西部リビウ近郊のアパートに居を移した。そこへ3月中旬、徴兵事務所の職員が現れ、軍への招集令状を直接手渡されたのだという。

「まさか自分の元に来るとは思っていなかった。たった2週間の訓練で戦闘術を学べるとは思えない。自分は実際の戦場では役に立たないだろう。サイバー攻撃などの情報戦で戦いたいと考えていた」とロマさん。イリーナさんは「自分は国を愛しているし、国を支えたいと思っている」と語る一方、招集により夫が軍へ招集されて離れ離れになると思うと逃げ出したい衝動に駆られると打ち明けたのだった。

国外脱出の拠点となっているリビウでは、キエフや東部からの避難者を「非国民」だと敵視する住民もおり、避難者の居場所を徴兵事務所に通報するケースもある。国境付近では国外脱出を図る男性の拘束が相次ぎ、国境警備隊は、女装したり、荷物に身を潜めたりして国境を越えようとして拘束された男性の事例を、見せしめのようにホームページに掲載しているーー笹子記者は現地の殺伐とした空気を克明に伝えている。

これが戦争の実態だ。

笹子記者のルポを読みながら、私はかつて日本軍に赤紙で招集された人々から取材で聞いた話の数々を思い出した。

彼らの多くは、「鬼畜米英」といわれた敵国の軍隊よりも、「天皇陛下」や「大日本帝国」への忠誠を振りかざして部下に暴力をふるう日本軍の上官のほうが恐ろしかったと振り返っていた。上官の命令にすこしでも逆らうと外部から閉ざされた軍隊組織のなかでリンチを受けて命を落とすかもしれないという恐怖と常に隣り合わせだったと打ち明けていた。

私が聞いた戦争体験のひとつを紹介したい。それは取材活動ではなく、休日のハイキングでたまたま出会った老紳士が山道を歩きながら訥々と打ち明けた話である。20数年前、私が駆け出しの政治記者だった時だ。昨年の8月15日にサメタイに執筆した内容をここで再掲したいと思う。

老紳士は千葉県の裕福な有力者の家に生まれた。周囲の若者が次々に戦地へ送り込まれていくなかで、彼のもとには召集令状(赤紙)は一向に届かなかった。本土空襲が始まり、敗戦色がにじみ始めた頃、有力者の子息であった彼もようやく召集されることになった。

とはいえ、南方戦線などの最前線に送り込まれた周囲の若者たちと異なり、彼が最初に配属されたのは皇居などを守る近衛師団だった。何かの口添えがあるのは間違いなかった。さらに戦局が悪化し、いよいよ敗戦濃厚となったところで、彼は兵士たちが戦地に送られる前に一時的に待機する部隊へようやく配属替えになったという。

その部隊は十人一組の数多くの班で構成されていた。それぞれの班長は、南方戦線などへ派遣する新たな部隊を編成するお達しが下りるたびに、自らの配下にある班のメンバーのうち誰を新たな部隊に差し出すかを指名する絶対的な「人事権」を握っていた。

当時はすでに兵士のなかで日本の敗戦を疑う者はいなかった。誰もが「南方への派遣」は死を意味することを理解し、次は自分が指名されるのではないかとびくびくしていた。古い者から順番に指名されるわけではなかった。誰を送り込むかはその時々の班長の一存で決まったのである。一人が戦地へ抜けると新しい者が一人加わってきた。

兵士たちは何とかして指名を免れようと、絶対的な「人事権」を握る班長のご機嫌をうかがった。そして他の兵士の悪口を吹き込んだ。実家を通じて上層部につけ届けをし、戦地への派遣を回避する裏工作に動く者もいた。誰もがあらゆる手を尽くして自らが生き残ることに必死だった。戦争に勝つことなど誰一人考えていなかった。上層部に有力なコネがある者はいつまでも部隊にとどまった。そして、班長に取り入ることが不得手な者から順番に戦地へ送られていった。

「多くの者が無駄に死んでいきました。私より後から来た者が次々に戦地へ向かっていきました。そうです。私も生き残るためにあらゆる手段を使ったのです。私は最後まで戦地に派遣されることなく、その部隊にとどまり、終戦を迎えました。私はそれをずっと背負って生きてきた。私の代わりに戦地へ向かった多くの者の犠牲の上に、今日の私はあるのです。戦争とはそういうものなんですよ」

老紳士はそれ以上語らなかった。山道での突然の独白に、私もそれ以上聞くことができなかった。しかし、戦争というものは、単に命を奪うだけにとどまらず、どれほど人間の尊厳を踏みにじるものであるかを、深く理解した。

国家がどんな「正義」を掲げようとも、戦争で犠牲になるのは、為政者ではなく、一般の人々だ。そして戦闘の現場では、国家が掲げる「正義」とはかけ離れた「殺伐」とした光景が繰り広げられる。生命だけではなく人間の尊厳を蹂躙する卑劣な蛮行の数々。それが戦争のリアルな現実だ。

国家に命じられて戦地に送り込まれた人は、戦争を遂行する権力者が唱える「正義」など絶対に信用しない。どんな戦争であっても現場は悲惨だ。二度と戦地に送り込まれたくはないーー日本国憲法は第二次大戦後、そのような世界中の人々の思いを踏まえて「戦争の放棄」を掲げ、戦地に送り込まれる人々の基本的人権を守るために、戦争を遂行しようとする権力者の手足を縛ったのである。戦後77年を迎え、私たちの社会はそれを忘れてしまった。