私は無党派で、どの党や政治家も是々非々です。パーフェクトな人や自分と100%同じ政党や政治家はいない。まずは「国民みんなの命・生活・自由」を望む人々が横に広がり繋がって、今の政治が変わってほしいという思いです。
さて、今回は「陰謀」について。オーストラリアでは「陰謀」について、報道やプロテスト·抗議などの様子から、注意深い人が多いのでは、という印象があります。
事実が明らかになるまで、判断を保留したり、予想や仮定を立てたりするものですが、はっきりしない事を「事実だ」と主張したり、それを否定すると「陰謀論だ」と言われたり、とがめられたり、という過剰な反応が強くなる理不尽な風潮を感じる人は多いと思います。日本でも、おかしい?と思う人々は増えているのではないでしょうか。
例えば、世界では数々の戦争やパンデミックは、不可思議なものだと、今も様々に議論されています。このコラムでも何回か取り上げました。
原点は?
その流れから、世界各国で住民たちが、やむにやまない思いから過激なデモやプロテストが勃発している問題を取り上げます。
豪州では、これらは頻繁に報道されます。でも、なぜか日本では、それほど取り上げられず、問題視されていないようです。なぜなのか…?日本にとっても、先延ばしできないと思いました。
以前に、豪州のジャーナリストたちは、切り取った一つの事を取り上げるのではなく、その歴史や経緯をストーリーとして報道することを紹介しました。また、日常では豪州の人々の会話で、どの国の出身で、どの国は、「どうのこうの」という、歴史からの話をよく耳にします。
この問題は、特に人々の心の中に、その歴史や経緯が、深く関わっている、私も豪州での経験が無ければ、何も思うことなく過ごしていたと思います。
私は、音楽·スポーツ·テレビドラマが好き、海外には興味のない内向きな、ごく一般的な日本人だったと思います。きっかけは、たまたま勧められたオーストラリア·ツアーに参加したことでした。豪州ツアー最初の目的地は、ウルルUluruでした。最大の都市シドニーや首都キャンベラではないのか?ベテラン通訳兼ガイドのYさんに「なぜ、最初にウルルなの?」と訪ねると「オーストラリアの原点だから、見ておかなくてはいけないよ」とだけ、答えが返ってきました。
3億年以上前に誕生したという、東京タワーより高い世界最大級の一枚岩で有名なウルルは、先住民アボリジナルの人々の聖地として有名で、ご存じの方も多いと思います。ウルルは、豪州大陸の中心にある、アウトバックOutbackと呼ばれる乾燥した赤土と散在する岩が、地平線の向こうまで広がるだけの荒野です。荒涼とした土地にも、ウルルの岩の周辺は地下水が溜まり、泉が湧いていて、低木や固有の植物が生え、突然飛び跳ねるカンガルーたちが横切ったり、小型恐竜のようなトカゲに遭遇したり、カラフルな鳥が鳴き声と共に飛び交い、小さなオアシスのようで、驚きもありました。
夏の昼間から、冬の夜に変わると、冷んやりと流れる空気の層の上に、暗黒星雲や数えられないほどの大中小の星が空にちりばめられ、どれが南十字星なのか説明されても、見分けることができないほどでした。ただ、そこに、そうしているだけで、浄化されていくようでした。
オーストラリアは、ジブリ映画のモデルとなった場所が多くありますが、アウトバックは、「風の谷のナウシカ」の風の谷のモデルとなった場所だともききました。
ウルル周辺には、約3万年以上前からアナング族(アボリジナル)の人々が、自然や環境と一体となり調和し、生きる知識や儀式を何世代にもわたって受け継いでいました。(こちら参照Uluru culture)しかし、イギリスからの入植開始後、アナング族の人々は、ウルルから開発のために撤去させられました。
ウルルからバスで7時間ほど行くと、アウトバックの中核の町、アリス·スプリングスAlice Springsがあり、アボリジナルの人々からその文化を直接触れることができます。
ツアー後、ホームステイしたホスト·マザーもアウトバック好きで、ウルルから南西にあるクバ·ペティーCobber Pedyというオパールの産地で有名な町に、彼女の母親に合うために向かいました。オパールを目的に世界中から人が集まったり、有名な映画のロケ地となったりする所です。太陽の強い日差しを浴びるこの地域では、人々はダグアウトDugoutと呼ばれる、地下住宅に住んでいました。壁はそのままの土壁で、中は外の灼熱の熱さが、信じられないほど冷んやりとしていました。二人で夜行バスに乗った時、彼女は私の腕をつつき、近くに座っていたアボリジナルの女性と子どもたちに目線を送り、優しく微笑んでいました。アウトバックを駆け抜ける、同じ空間で眠った時間は、先住民の人々をより近くに感じさせました。これらは、初めての豪州経験で一番、心に残るものになりました。
以下は、アウトバックやアボリジナルの人々の様子です。
沈黙の陰謀
1788年イギリスから入植が始まり、1794年から約150年以上、アボリジナルの人々が迫害され多くが命を落としたことを知るのは、数年後再び豪州に行き、その歴史を知った時でした。
オーストラリア博物館によると、1788 年のヨーロッパ人の侵略以前に、オーストラリア大陸には約 75 万人の先住民 (約 700 の言語グループ) が住んでいたと推定され、1901年時点で、先住民の人口は約11万7千人にまで減少していたそうです。今のパレスチナや他国の様子と重なるものを感じます。
ダレイ(Daley)さんとガーディアン紙をもとに「沈黙の陰謀」について書きたいと思います。
1960年代までは、アボリジナルの人々の命を奪った幾つもの虐殺の話や辺境での暴力について真実は、ほとんど語られるどころか、「温和で平和的な入植と『原住民』の不可解な『消滅』または『絶滅』という歴史学上の作り話(プロパガンダ」が流されていました。これは「オーストラリアの大きな沈黙」と呼ばれ、アボリジナルの人々への残虐な行為を語る提唱者は、孤独な声であり、しばしば軽蔑されたり、疎外されたりしていたそうです。これは、前回紹介した、公に認められたにも関わらず、その後も、攻撃を受けるワクチン被害者の方々の状況と似ているように感じます。
語られなかった悲惨な陰謀の歴史を、歴史家ボトムズ(Bottoms)さんは、その著書で「沈黙の陰謀」、歴史学者リチャードズ(Richards)さんは「秘密の戦争」、人類学者スタナー( Stanner)さんは、国民の「カルトの健忘」と表現しました。
この「カルト・Cult」という言葉は、現在の世界問題を議論する中で、英語圏で目にする言葉です。カルトという意味は日本では、宗教的な印象がありますが、政治など幅広く適用されるようです。実用日本語表現辞典によると「カルト(cult)とは、特定の信念、思想、リーダーに対して過度な信奉を示す集団。リーダーの絶対的な権威、閉鎖性、排他性、そして信者の強い献身性によって特徴づけられる。…しばしば社会的な規範や法律に反する行動を伴うことがある。これらの集団は、信者に対して強い影響力を持ち、時に社会問題を引き起こすこともある。カルトの例としては…特定の政治的理念を絶対視する政治的なカルト…などが挙げられる。」と政治的組織や集団にも当てはめられているようです。
語ることがタブー視されて、隠された豪州の「陰謀の歴史」は、1960年代以降、移住者の中からも、帝国中心主義的でない、より探究心があり、新しい歴史家や作家の集団の出現で状況は変わり、先住民への慈悲という真実を紙面に書き始めました。これらの歴史は、映画でも次々と制作され、広められるようになりました。
植民地時代の弁護士でジャーナリストのウィンダイヤー(Windeyer)さんは、この活動を「心の底からのささやき」と呼びました。
前述のスタンナー(Stanner)さんは、「これは構造上の問題であり、風景の四分の一を完全に遮断するように、注意深く配置され窓からの眺めしか見えない仕組みだ。おそらく、他の眺めを単に忘れることから始まったのかもしれない。そして、習慣と時間とともに、国家規模で実践される『カルトの健忘』のようなものに変わった」と指摘します。
このスタナーさんの言葉は、国家とその歴史家たちにとって、挑戦ではないにしても、ある種の推進力として作用したと言われます。
「私たちが今の自分たちになった歴史(経緯)の真実を知る権利がある。」「私たちは自分たちの歴史を自分のものとして受け止める必要がある」「そうすれば、私たちは社会として、オーストラリア人として、どのような存在になりたいかについて、本当の選択をすることができるようになる。」と思う人々が多という印象があります。
生き残った先住民の子孫のケリーさんは「多くの白人は、私たちの土地に対して貪欲すぎて、私たちを完全な人間として見ていなかったのです。すべての人が、私たちの愛する人たちに何が起こったのか、そしてなぜ起こったのかを知り、彼らが決して忘れ去られないようにしてこそ、私たちはひとつの集団として団結できるのです。今こそ、政府や人々が真実を伝え、私たちが共に前進できるよう、それぞれの役割を果たす時です」と訴えました。
「自由な民主主義」と共存する「差別や排除」という矛盾した世界
オーストラリアの「民主主義」はイギリスからの入植→「先住民の武力での排除」→ヨーロッパからの移民の増加→1901年に初めての国政選挙、という流れでつくられてきました。豪州で生まれた人々には、選挙権は与えられましたが、先住民には1962年まで与えられず、国民としても認められず、1985年ころまで、先住民に投票をすすめることも罪でした。
イギリスからの入植前は、100%が先住民の社会でした。武力で排除され、ヨーロッパからの移民を増やし、誕生したのが多数決で決める「自由な民主主義」と呼ばれものです。排除の理論により成立した制度とも見えます。
現在の先住民の人口は約1~2%の超少数派となり、移民の大多数によって、その生活が決定される立場に、ずっと置かれるようになりました。
1月26日は、オーストラリアの日(初めてイギリス人が豪州に入植した建国記念日)で祝日です。多くの国民が、その発展を祝います。イギリスからの入植は、オーストラリアに発展をもたらしたものだと全肯定し、アボリジニの人々が迫害されてきた歴史を反省しない国会議員も存在し、賛同する人々がいるのも事実です。
一方で、多くのアボリジナルの人々にとっては、哀悼の日だと捉えられます。豪州に侵入した白人によって元々の先住民に課された 悲惨と屈辱を記念するものであり、毎年建国記念日を変えるように声が上がります。しかし、与野党2大政党共に変えようとはしません。
同じようにイギリスを起源とする新しい国々、アメリカ·カナダ·ニュージーランドも先住民の人々を迫害したにも関わらず、「寛容と多様性」「民主主義と自由」として、移民を受け入れてできた新しい国々です。
共通点は、これらの「自由な民主主義」と「多様な社会」は、先住民の人々排除と「命·生活·自由·権利」を奪って、犠牲の上に成り立ったという経緯です。オーストラリアの日は、この不公平で理不尽な先住民の人々の扱いに対しての抗議と疑問を投げかける日でもあり、毎年抗議やデモも行われ、報道されます。
自然と一体となった生活を何万年と継承していた、アボリジナルの人々は、現代社会の進出で、本来の生き方も失われたようで、精神的健康·アルコールや薬物の乱用·刑務所内での高い死亡率·短い寿命(一般より約10年短い)などの問題が未だに解決されず、議論だけが繰り返えされます。
今も続く「秘密の策略」との闘い
奪った側が「自由な民主主義」と呼ぶ社会で、先住民アボリジナルの人々は、今もなお奪われた側の「自由と民主主義」を求めて闘っています。
「Always was, Always will be」という言葉によく触れます。1980年代ニュー·サウス·ウエールズ州の先住民の人々が、故郷の土地の所有権利を求めて闘う中、ウィリアムさんが父に「お父さん、ここはもうあなたの土地じゃない、白人の所有物だよ」とあきらめた時、父のジムさんが「いや違う、彼らは借りただけだ。ここは昔からアボリジナルの土地だった。これからもずっとアボリジナルの土地だ」と興奮して話したことから、広がったと言われています。その後、アボリジナルの人々の故郷が返還されるようになりました。
「Always was, Always will be」「ここは昔からアボリジナルの土地だった。これからもずっとアボリジナルの土地だ」という言葉は、先住民が自分たちの土地と権利のために闘ってきたこと、これからも闘い続けることを表すようになりました。様々な集会や抗議活動で、頻繁に唱えられ、町の中でも目にすることがあります。
この言葉は、国の構造的な不平等と疎外の多くの根底にある先住民の主権の認識不足を非難し続ける、合言葉のようにもなっています。
第32回でアサンジさんの釈放をお伝えした時のように、「Always was, Always will be」は、少数派でも、少数派同士が団結して多数派となり、諦めず声を上げ続け抗議することで、変えることができるという、パワーのある言葉です。
オーストラリアでの、陰謀·歴史·民主主義から、豪州の人々の様々な思いについて書きました。
次回は、続きとして「『陰謀の沈黙』は、今も続いているのか?」を世界各地や日本を結びつけながら、書きたいと思います。
下は「Always was, Always will be」のポスターです。
冒頭の写真は以前発行された、アボリジナルの人のオーストラリア紙幣です。
今滝 美紀(Miki Imataki) オーストラリア在住。 シドニー大学教育学修士、シドニー工科大学外国語教授過程終了。中学校保健体育教員、小学校教員、日本語教師等を経て早期退職。ジェネレーションX. 誰もがもっと楽しく生きやすい社会になるはず。オーストラリアから政治やあれこれを雑多にお届けします。写真は、ホームステイ先のグレート オーストラリアン湾の沖合で釣りをした思い出です。