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勝手に生きる(1)ぼくが犬に噛まれて、コーヒー屋をはじめるまで(其の一)〜小田光康

ぼくはこれまで、しっちゃかめっちゃかに散らかしっぱなしのような人生を送ってきた。大学では畜産学、大学院では遺伝子工学(これは中退)、経営学、社会情報学、そして教育学(これは満期退学)を学んだ。まったく脈絡が無い。好きに任せた結果だ。いまはゼミの学生と一緒に、オンラインで統計学を勉強している。

仕事ではふつうの会社員をしたり、記者をしたり、カメラマンをしたり、ぷーたろーをしたり(これは仕事じゃ無いか)、起業家をしたり、活動家をしたり、そして大学教員をしたりと。ホントはまだある。これらもまったく脈絡が無い。どれも深く考えて始めたことでは無い。気になってうずうずし、気付いたらそうなっていた。そして今、コーヒー屋とヒツジ追いになろうとしている。

わがSAMEJIMA TIMESの主筆、鮫島さんはぼくのことを「徹底した自由人」と褒めてくれた。ちょっと照れくさい。だが、ぼくの愛すべきゼミの学生からはいつも「好き勝手に生きている」と、白い目で見られている。反面教師を地で行ってる。こっちのほうが、ぼくにとってもしっくりくる。

だからこの不定期連載のタイトルを『勝手に生きる』とさせてもらった。なのでこれから、勝手に不定期で連載させてもらいます。よろしくお願いします。

ひょんなことから、ぼくはコーヒー屋をはじめることになった。たぶん、SAMEJIMA TIMES読者のみなさんはマスコミ関係者が多いのだろう。その中にコーヒー好きも結構いるようだ。ジャーナリズムとコーヒーは切っても切れない関係にある。

英国市民革命時、ロンドン市内に約2000件のコーヒー・ハウスが軒を並べた。まだ身分制度が色濃い時代だったが、コーヒー・ハウスではそれが無かった。貴族でも、一般市民でも、自由に出入りできた。そのなかで世の中の情報が集まる一軒があった。

この公共圏というべき空間で、当時珍しかった舶来品のコーヒーを片手に、多事争論が毎日繰り返された。コーヒー屋には暇人がたまるのは昔からの法則だ。その店の主が、それらをまとめて冊子にしたのが新聞の始まりだ。コーヒーが無かったら、ジャーナリズムは生まれなかったかもしれない。

そうそう、コーヒー・ハウスが大繁盛した17世紀中庸はペストによる黒死病が欧州全域で大流行し、英国の首都機能をロンドンからオックスフォードに移したほどだ。そのおかげで、この町にもコーヒー・ハウスがあちこちで開店し、超名門オックスフォード大学の学生の成績がガッツリと下がってしまったとか。

危機に陥るとき、ジャーナリズムが発展する。人々が情報を一層求めるためだ。ただ、今の日本のコロナ禍を見ていると、この法則は当てはまらないようだ。

ぼくはコーヒー屋といっても、残念ながら小洒落たカフェを始めるのではない。それこそ、ぼくのような暇な変人がたむろしたらたいへんだ。海外の生産地からコーヒーを輸入して国内でフェアトレードさせる。そこで得た利益の一部を現地の子供たちのための奨学金にして活用したいと考えている。

話せば長くなる。だけれど、今回はぼくが犬に噛まれて、コーヒー屋になるまでの経緯についてお付き合い願いたい。鮫島さんの熱のこもったジャーナリズム論からちょっと離れて、一息つくコーヒー・ブレイクだと思ってほしい。

ぼくは明治大学が拾ってくれるまで約25年間、主に記者の仕事をしてきた。いや、いまでもちょっとだが、オリンピック関連の記者をしている。いまから8年前のいま頃。ぼくは取材がてらオートバイにまたがり、タイとミャンマーの国境付近の山の中を走り回っていた。

タイと国境を接するミャンマーの町、タチレイ。かつて世界最大の麻薬市場だった。

ここはいわゆる「ゴールデン・トライアングル」。かつての世界最大の麻薬密造地帯だ。実際、このあたりはいまでも、麻薬の原料となるケシを栽培している。もし、それを目撃したら取材してルポを書こうと決めていた。オフロードのタイヤを履かせた110ccのホンダのスーパーカブでつづら折りの土道を辿りながら、山岳少数民族の村々を訪ね歩いていた。日本が世界に誇るここのオートバイはホントに素晴らしい。この一台でどんなところにも行ける。

ゴールデン・トライアングルというと高野秀行さんの『アヘン王国潜入記』に詳しい。マスコミ界にその名を轟かせる早稲田大学探検部の出身で、ぼくがもっとも敬愛するルポライターだ。筆致が素晴らしい。おちゃらけたような表現の中に、知性がみなぎっている。

高野さんはそこでアヘン中毒になるほどディープな取材をして、この本にまとめた。こういう人こそが、エドワード・サイードが問うた知識人というのだろう。ぼくもこんなジャーナリストになりたい。

ミャンマー領域内のゴールデン・トライアングルの中国人集落

この地帯は1980年代まで、中国国民党の残党や共産ゲリラが占拠するタイ政府の施政が及ばない無法地帯だった。中でも有名なのが麻薬王クンサーだ。居城があったあった村にはその銅像が建ち、今でも英雄視されている。

麻薬密造地帯という恐ろしい名前がついているが、実際に訪ねるとのどかな山村風景が広がっていた。拍子抜けした。蒸し暑い熱帯というイメージのタイだが、この地帯は標高が1000メートル以上もあり、空気が乾いていて涼しい。一年中、日本の五月の連休中のような清々しい気候だ。遠く山々を見渡せ、まさに桃源郷という趣だった。

かつて中国国民党の残党が占拠していたタイ・メーサローン

こんな楽園のような景色を楽しみながらゆるりとオートバイを流していると、後ろから一匹の犬が狂ったようにワンワンと吠えながら追いかけてきた。「なんだろう?」と思ってオートバイを止めて振り返ると、いきなり足首のあたりをがぶっと噛まれた。「いてて」と叫んで、その犬を蹴とばすやいなや、オートバイを急発進させた。傷口からちょっと血が流れていた。

将来の夢が軍人の山岳少数民族の子供たち。

帰国してから3カ月くらいたったある日のことだ。天気もいいし、油でも売りに行こうと東京の府中市にある「国立大学法人東京農工大学農学部付属国際家畜感染症防疫研究教育センター」まで足を伸ばした。そこの水谷哲也教授と大松勉准教授を訪ねた。

都会的なセンスがまぶしい明治大と、研究一筋を売りにする農工大とは校風がまるで違う。実態を実直に反映させようとしたのは分かる。だが、センターの名前を読み上げるだけで日が暮れそうだ。なんと30文字も漢字が続いている。中国の研究所かと勘違いする。新聞記事ならベダ記事程度の長さだ。水谷先生はなんでこんなまどろっこしい名前を付けたのだろう。

もう一つ、農工大にはなぞがある。このセンターは府中キャンパスの「新4号館」に入っている。でも、外見はボロボロだし、中もくたびれた感じが漂う。どうみても新しくない。なのに「新」とはどういうことだ? 理系の大学なのに科学的な命名法に従っていない。ぼくはこのセンターの参与研究員でもある。

ちなみに水谷先生はいま流行のコロナ・ウィルスの著名な研究者で、しかも、折り紙で精緻な動物を折るのも大の得意だ。少し前まで、なぜか研究室でバカでかいリクガメを飼っていた。このカメはほとんど動かない。なんにもしない。表情すら変えない。ぼくはこのカメをじっくりと取材した。新たな事実関係は、人にシッポを振ってエサをねだることも無く、愛想笑いなどとんでもないことだ(まったく、鮫島さんみたいだ)。

なのに、なんと1日数キロものエサを食べる。水谷先生は自分のランチ代を削ってまで、このカメにエサを与え続けていた。ならば石で彫ったカメでも置いておけば良かろう。ぼくは、そう考えてしまう。水谷先生の未知への探究心は瞠目すべきだし、動物愛護の精神には畏敬の念に駆られる。ぼくには到底まねが出来ない。

このどうぶつワンダーランドのような研究室で二人が「狂犬病」とやらの話をしていた。二人はウイルス学を専門とする獣医さん。小難しい話だったが、どうやらものすごく恐ろしい病気のようだった。発症したら100%の確率で死に至る。狂犬病を発症した犬が人間に噛みつくと人間にも感染する。

「いや実は、ぼくもタイとミャンマーの国境付近をほっつき歩いていたとき、変な犬に噛まれたんですよ。足首のへんを」と打ち明けた。すると、二人は顔を見合わせて、「それって、もしかすると、もしかしますよ」と。

それからが大変だった。水谷先生が狂犬病ワクチンを打ってくれる病院を紹介してくれた。都内にただ一箇所、ワクチン外来のある都立駒込病院がそれだ。「急いだほうがいい」といわれ、農工大から駒込病院までバイク便の兄ちゃん並みに、いやそれ以上に、ぼくはオートバイを飛ばした。

診察室に入ると、処置をしてくれた女医さんにこっぴどく叱られた。とにかく、早急にワクチンを打たなければ手遅れになるかもしれない。

「なんでワクチンも打たないで、そんなところうろうろしてたんですか!日本でも狂犬病に海外で感染して、年間数十人も亡くなっているんですよ!」

「すみません、知りませんでした」。無知を恥じて、うなだれるしかなかった。

狂犬病は日本国内でも戦前から戦後にかけて猛威をふるったが、ここ約60年間は発症が確認されていない。ただ、アジアやアフリカを中心に今でも毎年5万人から10万人がこの感染症で命を落としている。その被害者のほとんどが15歳以下の子どもだ。いや、ほんとうの数は分からない。死因が原因不明の風土病とされることもある。また、被害が僻地にも拡がっており、統計上には表れない。

狂犬病ウイルスは咬まれた場所からリンパ腺を辿って脳にまでたどり着く。そこで爆発的に増殖して発症に至る。そうなったら完全にアウト。治療の施しようが無い。新型コロナなんかよりも何百倍も恐ろしい。ワクチンは予防のほか、ウイルスの脳内爆発に至る前までに、食い止めるための治療にも使われる。

そうして、1週間ごとに合計5回、ワクチンを打った。刺傷部が脳から遠かったことが幸いした。結果、発症はせず、あの世行きをかろうじて逃れることができた。ぼくのゴールデン・トライアングルでの敵はアヘンでなく、狂犬病だった。(つづく)


小田光康(おだ・みつやす)1964年、東京生まれ。麻布大学獣医学部環境畜産学科卒、及び東京大学運動会スキー山岳部卒。パブリック・ジャーナリスト兼社会起業家、明治大学准教授。専門はジャーナリズム教育論・メディア経営論。現在、東南アジアの山岳少数民族に向けた感染症予防メディア教育開発プロジェクトに携わる一方、長野県白馬村でコーヒーのフェアトレードとヒツジ牧場の経営を軸とした地域振興策に関わる。将来の夢は白馬村でコーヒー屋とヒツジ追いを経験したのち、タイ・ラオス・ミャンマーを転々とするオートバイの修理工とゾウと水牛の獣医師になること。写真はタイの屋台で焼き鳥にかぶりつく筆者。

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