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コロナ後遺症のポンコツカメラマンが行く被災地能登「誰かこの状況を説明してくれないか?」(2)〜飯塚尚子

連載第一回から続く


2月24日
金沢を出て羽咋市から珠洲市への道のりは険しかった。
谷側の対向車線がゴッソリなくなっていたり、対向車線の真ん中で段差が出来ていたり、少し走っては幾度となく工事現場に出くわすが、とにかく段差と凸凹だらけだった。
上手く進路をとらなければ車高の低い車は腹を簡単に擦るだろう。
決して未舗装なわけではない。
アスファルトがあちらこちらで歪み、へこみ、盛り上がり、あるいは亀裂が開き、深そうなものには危険を示す旗がそこここに立っていた。

今、私の車はバリバリのカメラマン当時と違って、乗り降りの楽な比較的車高が低い四輪駆動車だ。正直、車高をあげた四駆はコロナ後遺症で乗り降りするのがきつくなったからだ。

走行中、スタッドレスタイヤの接地面からゴツゴツとした凸凹感が伝わってくる。
コロナ後遺症では多くの人がPPPDと言われる独特な浮遊感のある眩暈に悩まされる。
地震でやられた道路を長時間走っている間、久しぶりにPPPD復活かと思われたが、降車後に感じなかったので道路が原因のようだった。
体調についてはホッとしたが同時に、嫌な不安がよぎる。

「メインの道路でさえこの状況では、いったいいつになったら電気や上下水道が隅々まで行渡るのだろう?」

さて、先の記事で説明した通り、発災時が過ぎると物流や社会基盤を整備するために何よりも道路工事が最優先にされる。

朝日が雲間から差し始めるころ、反対車線が崖下に崩落したであろう現場を歩行者並みの速度で何度となくのろのろと通り過ぎる。
水も飲めないまま、握りっぱなしのハンドルは手脂でベトベトで、後で気づいたらジーンズの太もも部分だけが脂っぽく光っていた。
気持ちが悪くて何度も無意識にこすりつけていたに違いない。

それでも、やっと向こう側が見通せる場所まで降りてきたときにはホッとした。

谷の中ほどを幅の広い農道が一本通り、右手には田んぼが並んでいる。左手には集落が山を背に一列に佇んでいた。暖かな朝日を正面から受けた家々の風景は一見どこにでもあるのどかな里山の風景だった。
でもよく見るとそこここに地震の爪痕が。

撮影する事をためらわせるものがある。特に誰の家かと判明してしまうような場合だ。

私はこの震災で初めて知った言葉がある。
それは「落階」といわれるもので、検索してもすぐには出てこない。それだけ非日常的な用語であることが伝わる。読んで字のごとし、上階が下階部分を押しつぶして座屈したものだ。

おそらく納屋だったものだろう。元は二階部分と思われる瓦礫に農耕器具やトラクターなどが埋もれていた。
何かの作業所だったのか・・・、すすけた白いカーテンが、割れたガラス窓から手を振るようにヒラヒラしていた。

あるいは座屈した一階に二階が尻もちをつくように覆いかぶさりながら、回転するように歩道にはみ出して散らばったままの家もあった。

珠洲市への道すがらそんな家屋の連なりを沢山目にした。途中何度かカメラを持って車外に出たものの、それでもシャッターは切れなかった。
そこには長い時をかけて築き上げたものがあっただろう。繋ぎ続けてきたものがあっただろうと思うと、冷静な目にはまだなれなかった。

スゴスゴと車内に戻り、大きなため息をついた。
朝から何も口にしていない事に気付き、明け方金沢を出る時にコンビニで買ったおにぎりをもそもそと食べたが、味がしなかった。

9か月ぶりに珠洲市へと入った。

その変わりはてた街の様子に全身の力が抜けた。

昨年寄らせてもらった地元のうまい魚と酒を出す居酒屋は、もうどこにあったかさえも分からなくなっていた。
観光物産センターは急遽災害支援拠点となり、赤十字などが緊急医療を展開していた。


蛸島漁港はコンクリの地面を割って黄色の噴砂があちこちに広がっており、船着き場の段差は深い所では50㎝程にもなっていた。
電信柱も揺れの振幅のせいだろうか、あえなく途中で折れていた。

目を転じると晴れてきたせいで遠くの山並みの残雪が痛いほど眩しかった。

SNSやニュース報道で何度も見たであろう珠洲市の小さな漁村は無残な姿をさらしている。
そこには人工的な水平も垂直も無かった。


ただ一つ、地域のコミュニティーで海の男たちによる勇壮な奉燈キリコが行われるが、高さ10mにもなる奉燈を収める格納庫だけが傷一つなく凛と立っていた。
幾多の家々が倒れる中、この格納庫がどれだけ人々にとって大切にされていたのか、偲ばれる。

古くから地域を見守って来たであろう寺もあっけなく座屈していた。
寺の大屋根は、全てを隠すように何もかもを覆っていた。
道向こうには瓦礫となった家の大黒柱だったのだろうか。
横倒しになった柱の底部に誰かに宛てたものだろう名前が看て取れた。


この地域には家屋を建て替える時に柱を贈る文化があるのかもしれない。

珠洲市の海岸べりをそのまま北上し、そろそろ行政や自衛隊も入っていないであろう避難場所を目指した。
地方に行くと廃校となった元小学校などは車載ナビの地図上にその姿を現す事は無い。
名前を変えて地域の寄り合い所のような形になっているからだ。

私が最初に訪れた一次避難所は奥能登の最北東端に位置する三崎地区旧小泊小学校だった。
幸い自衛隊車両が給水作業をしていたのが見えてほっとした。


地方から派遣されている行政職員と話をし、物資を渡して使い方も伝えた。
そこには子供の声はなく、人がいるのかどうかも分からない程しんと静まり返っていた。

体育館は物資置き場になっているようだった。ありとあらゆる大きさの段ボール箱が積まれていた。
行政職員は二日もするとその場を離れて他の避難所へ行くという。
被災者たちにとって行政の職員がいてくれることは心強いものだと思っていたが、二日ほどで毎回人が移動してしまうのであれば、心理的に頼れるものは無いだろう。
たまたま私の住む千葉県から派遣された職員だったが疲れている様子だった。

本来は上がり込んで被災者たちから話を聞くべきだろうと思う。
でも、それが出来ない。どうしてもできなかった。給水車に水を取りに来たお年寄りに小さな会釈を返すのがやっとだった。

避難してきた人たちは二階の元教室にいるという。
自衛隊の給水車がいるという事は上水道が来ていない事を物語る。
三崎地区は奥能登でも最奥に当たるだろう。ここまで上下水道が通るのはいったい、いつのことになるのか。
この原稿を書いている時点での最新情報では、地図を見る限り海岸線を通る県道28号線に沿ったほんの髪の毛のように細いエリアだけだ。

人が住んでいるのは海岸線ばかりではない。海岸から数百メートルも上がるとそこは穏やかな田畑が広がる里山だ。つまり丘の上にも人々の家があるのだ。
あと二カ月もすれば蒸し暑くなってくるだろう。電気が来て上水道が来ても下水道が整備されなければそれらは使えないのだ。
冷房はどうするのだろう??傾いた家では網戸も満足に役目を果たせないだろう。空いた隙間から雨や虫や小動物は自由に侵入しているだろう。
最果ての被災地の未来を思うとどうしても気分も重くなる。

少し北上すれば観光名所として有名な青の洞窟がある。
昨年能登を訪れた際に洞窟にも寄ったが、私にはもう激しい揺れと津波で破壊されたであろう観光名所を見るだけの精神的ゆとりは無かった。

お昼をとうに過ぎていたので、一旦金沢まで戻ることにした。
私は今回の能登入りについて夫と約束をしていた。
「夜間は基本的に金沢に戻る事。」

金沢までの道すがら、車を降りたのは昨年5月1日に一泊だけお世話になった珠洲市内の鉢ヶ崎オートキャンプ場だ。


本来は広大でのんびりしたツー好みのキャンプ場だ今では各地からのボランティアの為にテントが設営されているという。
隣接する鉢ヶ崎りふれっしゅ村の駐車場には大型の自衛隊車両が列車の車両基地のように並んでいた。
地域のランドマークとなっていた珠洲ビーチホテル前の交差点にあったマンホールは液状化で70㎝余り、「抜けあがり」と呼ばれる状態で道路から頭を突き出していた。

逃げるように珠洲市を後にした。

あちらこちら道路が通れないので金沢までの道のりは迂回に次ぐ迂回だ。どうやら行きとは異なる道路を走っているようだった。どこをどう通って来たのか定かではない。
昨年訪れた「のと里山海道」は非常に快適で渋滞に合う事も無かったのに。
ほんの9か月後の能登半島は、随所で道路の応急工事が行われていて、工事現場の職員が握る赤い棒が振られる方向に誘われるままに行く事しかできなかった。

そんな中、途中通過した高架から見下ろした村の様子は少し奇妙で目を引いた。どこの家も屋根瓦の頂点、三角形の冠瓦と言われる部分に水色のシートが被せられていたのだ。
家は何処も比較的新しく見え、頑強に作られている様子で屋根瓦が黒光りしていた。


何故、棟が合わさる部分だけが集中的に破損しているのかが分からなかった。
冠瓦は大抵の家々でまるで空中に放り出されたかのように屋根瓦の中ほどに散らばっていた。
地震の揺れ方に特徴があったのかもしれない。

さて、カメラには撮影した場所の緯度経度を記録しておくことができるので安心していたが、衛星通信の環境がよろしくなかったらしいので、ここの場所がどこなのかはわからない。
もしご存じの方がいたら教えて頂きたい。

この日のロケハンと撮影はここ迄とした。珠洲からどのぐらいの時間で金沢まで戻れるのか、輪島へのルートはあるのかなどまだまだ不確定要素が多すぎたからだ。

夕刻の早い時間に金沢市街に戻り、ガソリンを再度満タンにした。
3時間ほどだっただろうか。
職人大学校の駐車場に戻ると暫くぼーっとしていた。
敷地内にはかつて紡績工場だった古い赤レンガ倉庫が再利用されているが、大きな損傷は見えなかった。活断層による直下型地震の性格がそのまま出ていると言っていいだろう。

夕方になると様々な楽器を持った人々が三々五々集まってくる。
車の暗がりから照明の入った駐車場はヒトの動きが良く判る。
管弦楽のリハーサルでもやっているようだった。

そういえば今日一日トイレにも行ってない事に気が付いた。
トイレは赤レンガ倉庫の中のホールに面した場所にある。

若者や社会人らしき人々の楽しそうな会話が聞こえてくる。その声を耳にしながら薄暗がりのトイレの鏡に映った私には、例によって陰陰滅滅とした妖気が漂っていた。

両側の三つ編みからは束ね損ねたワラ束のように髪がはみ出しまくっていた。
毛糸の帽子を脱ぐと、ペタンこになった髪の毛が鳴門のように渦を巻き、静電気で髪が妖気のごとく伸びあがっていた。
どう見てもイケてない妖怪だった。「これではいけない」と感じ、今夜は久しぶりにまともに食事をしようと思い立った。
赤レンガ倉庫の一角にレストランがあったのを思い出した。

「ヨシッ!今日はきちんと夕ご飯だ!」
気分を変えて数歩踏み出したところで段差が見えず、つまずいてそのまま雨でぬれた芝生の中にバッタリ倒れ込んだ。
公園の照明で逆光になっていて段差が全く見えていなかったのだ。
芝生だったからよかったものの後遺症になって以降、極度に光への認知や解析、反射速度も遅くなっていた。
ため息を深くつきながら掌やひざについた芝生と泥をパンパンと払う。
雨のせいで膝が濡れた。

「泣きっ面に蜂とはこういうことを言うのであろうな…」
泣きたいのをぐっとこらえながら苦笑いしていたので多分変な顔になっていたと思う。

正直夕食の事を考えて気分をごまかすしかなかった。

車に戻り、久しぶりに着替えをした。
考えてみたら、2月22日夕方に千葉を出発してから三日間着たきりスズメだった。
被災地の方々は着替えもままないだろうと想像して切なくなった。
私にはまだ着替えがこうしてある。

レストランに入ると客は私一人だった。
お勧めを頼んだものの、後遺症になってからまともに量が食べられないのだ。
あまりにも残したものだから途中で「あの…お客様、お味がお口に合いませんでしたか?」と聞かれた。
残した理由を告げるとお土産でサンドイッチにしてくれた。ありがたかった。

夕食を済ませて車に戻った。
金沢の中心部は今日見てきた被災地の状況とは天と地ほども差があり、その事を共有する相手がいないのは辛かった。
ビルの谷間には街灯が煌々と光り、酔客の大笑いがどこからともなくこだまする。

何事も無かったかのような金沢の街中で一人寝泊まりしていると、なにか自分だけが異質なもののような気がしてくる。

明日は天気が悪いらしいので金沢市街にある内灘町に行ってこようと考えていた。

この続きは、第3回で報告しようと思う。


飯塚尚子(いいづか・たかこ)
東京都大田区大森の江戸前産。子供の頃から父親の一眼レフを借り、中学の卒業アルバムのクラス写真は自ら手を挙げて撮影している。広告スタジオ勤務を経て現在フリーランスの教育現場専門カメラマン。フィールドは関東圏の保育園から大学まで。教育現場を通じて、社会の階層化・貧困化、発達障害やLGBTを取り巻く日常、また、議員よりも忙しいと思われる現場教員たちに集中していく社会の歪みを見続けている。教育現場は社会の鏡であり、必然的に行政や政治にもフォーカス。夫は高機能広汎性発達障害であり障害者手帳を持っている。教育現場から要請があれば、発達障がい児への対応などについて大人になった発達障がい者と直接質疑応答を交わす懇談会や講演も開催。基本、ドキュメンタリーが得意であるが、時折舞い込む入社式や冠婚葬祭ブツ撮り等も。人様にはごった煮カメラマンや幕の内弁当カメラマン、子供たちには人間界を卒業した妖怪学校1年のカメラマンと称している。

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