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学校を撮り続けて(3)入学式の親子が映し出す「教育格差」〜飯塚尚子

今年も卒業式から入学式を見てきたが、コロナ禍でさらにブースト感のある教育格差や地域格差にはうんざりだし、国の身勝手さにも辟易だし、花の咲かなくなった畑の住人に「お~い!ヤヴァイぞ!」と叫ぶのも疲れました。

が、コロナ禍の教育現場など一生に一度もない事であろうから、伝え残さねばなるまいという焦燥感のようなものが、漬物石の如く重たい我が尻に火をつけ、書けよ伝えよ、と追い立てる。

なので、一応お伝えしておきますが、ワシはかような心境なので文章が非常に乱暴でどこか投げやりになることはいかんともしがたく、これをお読みになる場合、そのタイミングは是非、腹一杯食べた後や、風呂に入ってゆったりした気分になった時でお願いしたいと思います。

今年は保育園から大学までの現場を見ていると、日本の様々な問題が例年よりも更にギュギュっと濃縮されていたように思う。それは教育格差であったり貧困であったりだ。
入学式ともなると希望と夢に満ち溢れながら厳粛も漂うものだと相場は決まっている。その相場であるが、親でも子どもでも式服や持ち物を見るとその地域の「生活様式」が概ね見えてくる。

<上流階級編>
私立校の入学式では、子どもたちは制服であるし、親たちはほぼ紺や黒のあくまでも正統派スーツである。なので変化は認めにくい、が、それでも中の人たちの情報によると親たちに変化は表れ始めているように見える。

「面接室に犬を連れてきた家族がいて…、犬も家族ですから、って言われちゃったんですよ。その時はこちらも思ってもみなかったから固まってしまってダメとは言えなかったのですが、次からは人数で対抗するようにしました。最近は何というかマナーが無くなってきたと言いますか…」。
「普段の言葉遣いが親の面接では良く判りますよ。どんなにその時取り繕ってもバレます。以前はあまりいらっしゃらなかったタイプですね」とか。
常識の崩壊と下克上なのであろうか?

これらについては親のいない空間における校外宿泊学習で一緒に過ごすと様々な事が次々に見えてくる。
一緒にバスに乗っていると子どもたちは実にいろいろな事を話してくれる。どことどこに別荘があるとか年に二回は海外旅行に家族で行くとか、パパの会社の別荘が外国の何たらいう場所にあるとかだ。また親の仕事の事もよく話してくれる。誰でも知っている大企業の重役だったり、病院の院長だったり、大学の教授だったりだ。
ところが、ここ数年はそのような親を持つ子供たちの割合は減っているように思う。減った分何が増えたかは定かではない。
ただ見ているテレビ番組などの話をすると、テレビは見ない、とか見るアニメはディズニーだけである、とかそういう流行り?は少なくなったように思う。

といった具合に、かつてより「そこしかない」という微妙なところで保たれていた何かが変わりつつあると思う。

<国公立付属編>
国公立の付属小学校の入学式で、一流私立校の制服を着こなした児童とその親たち、と同じような香りがそこはかとなくしてきたのは10年程前までだろうか。
ただ、コロナ禍では母親たちに何故か着物が多いのだ。
一時は親子ともに一見地味目ではあるが実は大人の式服よりもお値段の張るブランドものが目立っていたが、コロナ禍の入学式ではそれらはあまり見かけなくなった。
着物は洋装と違いサイズの限定感がそれほど強くなく、横幅であれば自由度が高い。もしかしたら七五三以来タンスの肥やしと化していたものか?コロナ禍で優に5㎏は太ったワシでも着物なら流用できるな、等と余計な事に気を取られて撮影が疎かになっていたりする。

<市区立小学校:公営団地住まい編>
一方、公営団地群の中にある市立小学校に入学してくる親たちが入学式に臨む際の式服は紺や黒と言った堅苦しいものではなく、幼稚園等の先生たちが着用する柔らかな春色に包まれたスーツが多い。先の国公立付属校の親たちと一見それほど違いはない。ただ、国公立に比べると、子どもたちの様子が異なる。女児たちの髪は母親が巻いたであろうクルクルのお姫様スタイルが多く、花やリボンで更にドレスアップしている。男児のヘアスタイルも父親のワックスでツンツンと尖らせてカッチョよく決めていたり、中には父親とおそろいの金髪に染めていたりする。稲妻のデザインを地肌ギリギリカットしていたりする。非常に自由な印象がする。

<市区立小学校:公営団地群と戸建て住まい群合流編>
地域的に三世代以上前から戸建てに住んでいる地付き住宅群と公営団地群に住む子どもたちが共に通ってくる小学校では上記の個性が鮮明な対比をつくる。方や硬めの正統派、方やお祝い色の強い春色派。
カメラマンとしては当然子どもは常に目で追っているが、付き添う親たちの持つ空気も観察対象となる。何故ならば、式典という厳格に決められた時間の中でより良い瞬間を作り出すために、最適なフィット感・距離感を測る必要があると思っているからだ。(そうはいっても失敗は星の数ほどある。)

入学式ではほぼ同じ幼稚園や保育園を卒業してきた子どもの親たち同士で集まることになり、それは各々の集団として同じ雰囲気に包まれる。

昨年こんな事があった。
ワシの目に明らかに違う二つの親グループが見えていた。一つは髪の色からヘアスタイル、鼻ピアスまで自由奔放なグループと、正統な式服で地味目にきっかり決めてくるグループ。

父兄が合流する集合写真を撮る際に赤ちゃんを抱っこしている親たちがいる。危険を回避するために声をかける。大きくなると100人超の大集合写真になるのでどうしても教室の椅子や机を使いつつ学校の体育館のステージと合体させた仮設の段をこしらえることになる。

「小さなお子さんや赤ちゃんをお持ちの親御さんたちは危険のないようなるべく低い場所にお立ち下さい。」
すると、一角から聞こえよがしに声が上がった。
「えぇ?『持つ』ですって。モノじゃないのにちょっと…失礼じゃない?非常識よね」
「え?ほんとよね…」
「非常識よね」
「失礼だわ!」
とザワザワしている。

何時から、持つと言わなくなったのだ??『常識』が変わったのだろうか??
もちろん常識など時と場所でいくらでも変わるものではあるが、こちらも心がザワザワするのである。

あるいは入学式当日に右手拳でグーパンを受けたかのような青あざを作ってくる子どももいる。ショッキングな事であるがここ10年余りでこうした様子の子どもは急激に確実に増えたと思う。子どもの両親を見ると親間や着ている服にも何とも言えないちぐはぐしたものがある。

この場合でも、つとめて冷静に親子での晴れがましい姿を映しとるように努力をする。するのだが、そこには何が切り取られているのか甚だ不安になってくる。
貰った笑顔は歪んでいないだろうか、目のあざは修正するべきか聞いた方が親切かそれとも黙ってほんの少し修正した方が良いのだろうか。このまま関係者全員が見るネット販売をしていいのだろうか…
やっぱり心がザワザワする。

<区立市立中学校編>
区立や市立中では所謂土地柄で芸能人を有しているような地域であるとおおらかさがある。また、どこでも常識の尺度の落ち込むポイントが一定している印象がある。コロナ禍では常識の尺度の落としどころが肝心になってくる。

集合写真撮影時にこう問いかける。
「マスクをしたままカメラのチェックと同時に笑顔の練習で数回シャッターを切ります。そのあと短時間ですがマスク外しバージョンもお撮りします。その際はお話は控えて下さい。また、外したくない方はそのままでもOKです」。

昨年集合写真を撮る段になって後段の多くの親たちからワシに向かって顔のマスクを指さしたまま「外しませんか?」ゼスチャーがあり、あぁ、先生が言われていたのはこの事だな、と気が付いた。式担当教諭からこの地域の親たちについて事前情報を受け、恐らくマスクについて何かを言ってくること、マスクを外すことについて教委はあまり良い顔をしていないこと、学校はそれを統制できず流れに任せている事。つまり、ワシに何とか上手くやってくれ、と。
「え?ワシがドライブしろって、何かあったらワシの責任???ウォォォ!」
心は波立ってザワザワした。

全国民の命に関わる判断でさえ、要請という名の自由裁量に任されてしまった結果なのだ。同じ区域の親たち同士でも、一つの学校の教師の間でも、立場によって意見は統一されず、答えが見つからず、その結果は本人たちが背負う事になる。これは政治による体のいい責任放棄ではないのか。
そして、幾度も繰り返されるメディアのアンケートでは国民の政治への反発は大きな力として見える事もなく、何故か今も自己責任論は継続されたまま三回目の緊急事態宣言の発出となっている。

さて、中学の入業式になると小学校低学年の頃からアルバム用の撮影をしていて顔なじみになった子どもたちから声を掛けられる。
学校の正門にデカデカと書かれた「入学式」の看板の前で、子どもたちを待っていると2週間ほど前まで小学生の姿だった子どもたちが仲良し同士で初登校してくる。
遠くから「イーカメさ~ん!」と言いながら手を振ってくれる。
ヒトは嬉しさでも何故か心がザワザワする。腕にも鳥肌が立つ。こういうザワザワは実にウエルカムで心に温かいものが流れ込んでくる。

来年の卒業式や入学式はいったいどうなる事であろう。
コロナ禍の五輪後の日本はいったいどうなっているのか。
国の無為無策はコロナに連続敗戦し、挙句医療崩壊を招き、衰退し続けたまま日本は東西冷戦の最前線に立たされているのではないか。そんな中であれば子どもたちの未来はいったいどうなっていくのか。

来年こそは嬉しいザワザワに包まれていたい、と心から願うコロナ禍のカメラマンなのであった。

飯塚尚子(いいづか・たかこ)
東京都大田区大森の江戸前産。子供の頃から父親の一眼レフを借り、中学の卒業アルバムのクラス写真は自ら手を挙げて撮影している。広告スタジオ勤務を経て現在フリーランスの教育現場専門カメラマン。フィールドは関東圏の保育園から大学まで。教育現場を通じて、社会の階層化・貧困化、発達障害やLGBTを取り巻く日常、また、議員よりも忙しいと思われる現場教員たちに集中していく社会の歪みを見続けている。教育現場は社会の鏡であり、必然的に行政や政治にもフォーカス。夫は高機能広汎性発達障害であり障害者手帳を持っている。教育現場から要請があれば、発達障がい児への対応などについて大人になった発達障がい者と直接質疑応答を交わす懇談会や講演も開催。基本、ドキュメンタリーが得意であるが、時折舞い込む入社式や冠婚葬祭ブツ撮り等も。人様にはごった煮カメラマンや幕の内弁当カメラマン、子供たちには人間界を卒業した妖怪学校1年のカメラマンと称している。

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