ギリシャ神話に登場する英雄の中に、オイディプス(エディプス)という者がいる。オイディプスは、旅の途中で、ライオンの胴体、上半身は人間の女性、背には鷲の翼を備えて高い知性を持つスフィンクスに謎を出される。スフィンクスは謎解きを好み、旅人に謎を出して答えられないと食べてしまうという蛮行を働いていた。
スフィンクスは「朝に四つ足、昼間は二本足、夜に三本足で歩くものは何か?」という謎をオイディプスに投げかけた。
オイディプスは「それは人間である」と答えた。「朝、昼、夜を人間の一生に例えれば、赤ん坊は四つ足で這い回る。その後成長して二本足で立つ。老いては杖が三本目の足となる」そう答えたオイディプスにスフィンクスは屈辱を感じて自死したという。
私にとってこの話の興味深い点は、三本目の足は「杖である」としているところだ。
杖は「老いの象徴」と解釈するのが妥当であろう。しかし杖を使う人が必ずしも老いているとは限らない。怪我をした人、障害のある人も使う。今回は杖についてあれこれと考えてみたい。

杖は足である
交通事故に遭遇して以来、「杖」は、私の人生においてとても身近なものとなった。
人生と言ってしまうと大袈裟に聞こえるが、右半身不随だった父は生涯に亘り杖を使い、足に怪我を負った私も、退院後、一定期間は杖がなければ歩くことができず、杖は「足」の代わりになると実感したのだ。
歩道を歩いているときに、杖の側ぎりぎりに通る自転車や歩行者に激怒した父の気持ちがよくわかった。そんなとき、父は「危ないじゃないか!」と怒鳴った。それも言語障害のある大声で。歩行者からは、奇異の目で見られた。一緒に歩いていた私はそれが恥ずかしくて、そこまで大声で怒鳴らなくてもいいのにと思ったものだ。
ところが、杖を頼りに歩くようになった私は、気づくと父と同じ事をしていた。歩道で私の横をすり抜けた学生の体が杖に触った。その際によろけた私は「危ないじゃないの!」と怒鳴ってしまった。
杖を前に出したとき、そこに他者の体や自転車が急に現れるとヒヤッとする。歩行者や自転車を運転している人は、杖を利用している人を見かけたとき、少し距離をとって横を通り過ぎて欲しいものだ。

松葉杖
松葉杖を初めて間近で見たのは、中学生のときだった。
同級生が脚の骨を折った。しばらくしてから登校してきたが、母親に付き添われ、松葉杖を突きながら歩く姿が痛々しかった。
その後、松葉杖を利用する人は何人も見たが、まさか自分が使うようになるとは露ほども思わず、入院中にリハビリテーション室で松葉杖を練習する自分を鏡に写しては、人生、何が起きるかわからないと思った。
松葉杖の名前の由来は、二股に分かれる松の葉に形状が似ているからと言われている。実際に使うとわかるが、この二股に分かれる構造が安定した歩行を支えてくれる。
それには身長に合わせたサイズ選びが重要だ。松葉杖は、脇の下で押さえて使うので、脇当てが脇の下を圧迫し過ぎてもいけないし、隙間が空き過ぎてもいけない。グリップの位置も身体に合わせる。
私も身体に合わせた松葉杖を選んでもらったが、それでも脇の下が痛くなった。

杖は健側に持つ
ある日、松葉杖一本を使い(片松葉という)歩いている高校生を見かけた。母親と一緒に歩いていたが、怪我をしている足と同じ側の手に松葉杖を持ち、痛みを堪えながら歩いているのがすぐにわかった。
私は見ていられず「杖は、怪我をした側とは反対の手で持つと歩きやすいですよ」と教えてあげた。高校生が杖を持ち替えて歩いてみると「うわぁ、本当だ。痛くないし、歩きやすい」と喜んだ。
上述の高校生のように、杖を悪い足/患側の手に持ってしまう人がいる。私も理学療法士に言われなければ、杖は悪い足/患側に持つものと勘違いしていた。

支持基底面
上記の図を見て欲しい。これは「杖は、なぜ怪我をした足とは反対側の、良い足/健側の手で持つのか?」をひと目で判るように描いた図だ。
注目して欲しいのは、ピンク色の部分だ。この部分を「支持基底面」という。支持基底面とは、体重を支える面のことだ。この面が広いほど、歩行は安定し、悪い足/患側への負担は軽減される。
(1)と(2)の杖の位置を見比べると、(1)の悪い足/患側の反対側に杖をついた場合は、三点歩行の安定性を確保できる。片や(2)の悪い足/患側の側に杖をついた場合は、支持基底面が狭くて偏っていて見るからに不安定な印象を受ける。それだけでなく悪い足に体重や歩行運動の負担がかかり痛み出すおそれもある。
(註 障害のある足の側を患側(かんそく)、障害のない足の側を健側(けんそく)という。看護や介護において、介助する際に、患側と健側を意識することはとても重要になる)
実際に杖を利用した私は、杖が、悪い方の足を支えてくれると実感した。正にスフィンクスの謎かけにオイディプスが答えたように「杖が三本目の足」となったのだ。
後編では、「転ばぬ先の杖」という言葉を介護の世界に当てはめて考えてみる。
写真撮影・作図: 橘 世理

橘 世理(たちばなせり)
神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。