JAXA(宇宙航空研究開発機構)が種子島宇宙センターから新型ロケット「H3」を打ち上げようとしたものの、主エンジン着火後に異常を検知して発射できなかった問題の記者会見で、JAXAが「打ち上げ中止」と説明したのに対し、共同通信記者が「打ち上げ失敗ではないか」と食い下がったことがネットで炎上している。
『女性自身』の報道によると、H3プロジェクトチームプロダクトマネージャの岡田匡史氏が記者会見し、2月17日午前10時37分の打ち上げ予定時刻の直前に機体システムが異常を検知し、補助ロケットへの着火信号が送信されずに発射中止となったーーという経緯を説明した後、質疑に移った。
岡田氏と共同記者のやりとりは以下の具合だ。
共同記者「中止と失敗という問題についてもう一度確認したいです。ちょっともやもやするものですから。意図的なものじゃなくて止まっちゃたよということは、一般に言う失敗じゃないかと思うのですが、どうですか?」
岡田氏「こういった事象が時々ロケットにはあるのですが、その時に自分たちは失敗と言ったことがありません」
共同記者「みなさんの中では失敗と捉えてないけれども、失敗と呼ばれてしまうことも甘受せざるを得ないという状況ではないですか?」
岡田氏「どのような解釈をされるのかは、受け止められ方はもちろんあると思いますので、そうではないですとは言い難いんですけれども、ロケットというものは基本安全に止まる状態でいつも設計しているので、その設計の範囲の中で止まっている、つまり意図しないというのはそういう設計の範囲を超えて、そうじゃない状態になることは大変なことになると思いますが、ある種想定している中の話なので、そこに照らし合わせますと失敗とは言い難い」
共同記者「確認ですが、つまりシステムで対応できる範囲の異常だったけれども、考えていなかった異常が起きて打ち上げが止まった。こういうことですね」
岡田氏「ある種の異常を検知したら止まるようなシステムの中で、安全、健全に止まっているのが今の状況です」
共同記者「わかりました、それは一般に失敗といいます。ありがとうございます」
記事はこのやりとりを伝えたうえで、共同記者に対して批判的なトーンで以下のように締めくくっている。
やり取りの中で“失敗”という言葉にこだわり、失敗ではないと否定したJAXAに対して、「それは失敗といいます」と締めくくった記者。この“指摘”にネット上では、批判が殺到した。
《JAXA会見、共同の記者の質問聞いてるけど何なん腹立つ》
《JAXAの担当者の方が丁寧に説明してるのに「失敗」ありきで人の話も聞かず最後に言い捨ててく共同の記者マジで酷いな》
《共同の人の質問、ひどいね。「一般にそれは失敗という」って、「一般」を自分で勝手に定義するなよ》
客観報道とは、当局の公式見解を垂れ流すことではない。それを客観的・批判的な目で検証し、最終的には自らの判断で事実関係を認定・評価して伝えることであるーーというジャーナリズムへの基本的な理解が日本社会では広く共有されていないことを浮き彫りにする報道である。
その責任は日本のマスコミにある。国家権力の公式見解をただ伝えるのではなく、各報道機関が真偽や評価を自らの責任で判定し、その背景解説を含めて実像をわかりやすく伝えることがジャーナリズムの責務であることを読者や視聴者に丁寧に説明せず、逆に国家権力からの批判・反撃を恐れ、当局の公式見解を垂れ流す「無難で差し障りのない記事」を「客観報道」と履き違えているのだ。
きょうはこの問題を深掘りしたい。
まずは新型ロケットの打ち上げ「中止」あるいは「失敗」問題を主要メディアがどう報じたかをみよう。
NHKは『「H3」初号機は打ち上がらず 補助ロケットに着火せず』、朝日新聞デジタルは『次世代の日本の大型ロケット「H3」打ち上がらず 主エンジン点火も』、読売新聞オンラインは『「H3」ロケット打ち上げ中止』。いずれもJAXAの説明に従って「打ち上げ失敗」と認定することを一様に避けたのだ。
記者クラブ所属の主要メディアが横並びで当局の言い分を無批判に垂れ流す「日本マスコミ業界の病理」の典型的事例である。政治部の官邸記者クラブや社会部の司法記者クラブと同様、医療や原発、宇宙開発などを担当する科学部の世界でもこのような各社横並び意識は極めて強い。
読売の「打ち上げ中止」はさておき、NHKと朝日の「打ち上がらず」には笑ってしまった。悪いのは「打ち上げる人間」ではなく「打ち上がるロケット」だといわんばかりの表現である。
このように主語をぼやかす記事の裏には大概、何かを誤魔化す意図がある。今回は「打ち上げ失敗」への責任追及からJAXAを守る「取材先への忖度」がにじんでいる。
この表現の一点をもって真実を追及すべきジャーナリストとして失格だ。「打ち上がらず」というタイトルを了承したデスクら編集幹部は恥ずかしくないのだろうか。
この様子だと、政治家や官僚、専門家の責任をあいまいにするため「ワクチンが健康被害を引き起こした」「原発が放射能をまき散らした」と平然と報じそうである。
JAXAは日本の宇宙開発政策を担う国立研究開発法人で、内閣府、総務省、文部科学省、経済産業省が共同所管している。巨額の国家予算が投入されている事業の成否を厳しく監視・追及するのはジャーナリズムの基本である。JAXAの「中止」という説明を「失敗ではないか」と追及し、納得できなければ報道機関の責任で「失敗」と認定して報じるのは、報道機関の責務であるといってよい。
ところが近年の主要メディアは当局からの反論を恐れ、当局自身が「失敗」と認めない限り、報道機関の責任で「失敗」と認定することを避け、当局の言い分を垂れ流すばかりだ。すべては報じる側の自己保身である。
これでは読者や視聴者の多くは巨額の国家予算を投じた事業について「成功だったのか、失敗だったのか」を判断することができず、結果として当局の責任を問う声は広がらない。主要メディアは「当局者の責任逃れ」に加担しているといってよい。
さらにやっかいなのは、当局者たちが主要メディアの垂れ流し報道に味をしめ、「自分たちが失敗と認めない限り、失敗とは報道されず、責任追及も回避できる」とたかをくくり、ますます「失敗と認めなければセーフ」というモラル崩壊を助長してしまったことだ。
国会でも記者会見でも政治家や官僚が失敗を認めて謝罪する場面が極端に減ったのは、主要メディアの追及が甘く、横一線で「大本営発表」を垂れ流してばかりいるからだ。
本来は各メディアが自らの責任で中止なのか失敗なのかを判断し、報じるべきだ。各メディアの評価が割れて当然なのである。読者や視聴者はそれを見比べて自らの頭で判断し、そして各メディアの報道ぶりを評価して選別していけばよい。報じ方の「正解」は一つではない。各メディアの報道判断に対する相互批判を通じてさらに論争を深めていけばよい。それが重層的で深みのある世論形成につながるのである。
テレビや新聞は自己保身から、発生した事案を自らの責任で「評価」することを避け、当局発表をそのまま伝える。これを「客観報道」というのは大いなる勘違いだ。発生した事案について、客観的なデータと論理に基づいて自らの責任で「評価」することまで含めて初めて「客観報道」は成立するのである。
この大原則を理解していないトンチンカンな素人記者が日本のマスコミ業界にあふれかえっていることが、テレビ・新聞報道を無味乾燥でつまらないものにしている最大の原因である。
今回の記者会見でJAXAの「中止」という説明に「失敗ではないのか」と食い下がった共同通信記者は、当局発表を金太郎飴のように同列に垂れ流す腐り切ったマスコミ業界のなかでは気骨のある記者といえるだろう。
仮に記者個人の態度に問題があったとしても、巨額の国家予算を投じたロケット事業の成否を当局者に問う意義のほうが民主社会では遥かに大きい。コトの軽重を判断するバランス感覚を失っている現代日本を象徴する事案である。
その前提で指摘すると、共同記者の失敗は、最後の言葉「わかりました、それは一般に失敗といいます。ありがとうございます」に凝縮しているのではないかと私は思う。
記者会見で「中止」というJAXAの見解の論拠をただして「失敗ではないのか」と食い下がるのはジャーナリストとして当然の行為だ。JAXAの見解をそのまま垂れ流した他社の記者のほうが失格なのだ。
だが、共同記者は「失敗」と認定する根拠として「一般」の人々の感覚をあげる必要はなかった。だから「人それぞれ受け止め方は違うのに、勝手に『一般』を決めるな」と逆襲を喰らった。
共同記者は自らの見解として「失敗ではないか」と記者会見で問い、そう考えた根拠を客観的なデータと論理で記事中で示せば良かった。会見場で「一般」を持ち出して岡田氏に「失敗」と認めさせる必要はなかった。もちろん客観的なデータと論理で「失敗ではないか」と会見で迫るのはよい。ただし「失敗とは認めない」という岡田氏の頑なな姿勢をカメラの前でさらせば十分だったのだ。
なぜ共同記者は記者会見で「失敗」と認めさせることにこだわったのか?
おそらく、記者会見でJAXAが「失敗」と認めない限り、自らの判断で「失敗」と認定して原稿を書いたところで、本社のデスクが「当局が認めていないのに、失敗と断定していいのか」と主張することを恐れたのではないか。それほどまでにマスコミ各社では「当局の公式見解に反した報道」への自己抑制が広がっていることは、私の朝日新聞での経験からして断言できる。デスクも記者も当局からの抗議に怯え切っているのだ。
共同通信がこの問題を報じた記事のタイトルは『H3ロケット1号機発射「失敗」 固体ブースター着火せず』だった。タイトルは『失敗』とカギカッコつき。記事中では『現地のJAXA広報担当者は「発射する前に中止した可能性もあり、失敗かどうか判断できない」としている』と当局の見解を伝えつつ、『新型ロケットの失敗は、日本の宇宙戦略に打撃となる』と断じている。記者とデスクら上層部の押し合いへし合いをへて、このような形で決着したのだろう。「失敗」という認定を明確に示した点で、NHKや朝日新聞よりはるかに上出来だ。
マスコミ各社が自らジャッジすることに怯えるようになった大きなきっかけは、2014年に朝日新聞社が原発事故をめぐって政府が非公開としてきた「吉田調書」を独自入手し、それを自らの責任で読み解いて『所長命令に違反 原発撤退』と判定したスクープ報道を安倍政権の反発に屈して取り消し・謝罪した事件である。
この事件の詳細については、「吉田調書」報道のデスクを務めた私が、その責任を社内で追及されて失脚した経緯を赤裸々に記した拙著『朝日新聞政治部』でご覧ください。
新刊『朝日新聞政治部』5.27発売! 保身、裏切り、隠蔽、巨大メディアの闇〜独立から1年、渾身の単行本