東京都調布市で先日おこなった講演会で、れいわ新選組の熱心な支持者から「私は『新選組』という党名には違和感がある」として、私の意見を聞きたいとのご質問をいただいた。
党名についてはさまざまな意見があるだろうが、私は①新しい党名を全国津々浦々の人々に覚えてもらうには長い歳月を要する②ひとたび定着した党名を変更して党名をいちから広めるのにかかる労力はかなり大きい③党名変更で党のイメージを変えるよりも党の中身を刷新していくことで党名のイメージを変えていくほうがよいーーとお答えした。
山本太郎代表は2019年参院選でれいわ新選組を旗揚げした際、投票用紙に「れいわ」と書いてもらうことの難しさを繰り返し語っていた。山本代表はこの参院選で比例区から出馬したため投票用紙に「山本太郎」と書いてもらえればよかったのだが、21年衆院選や22年参院選ではそうはいかなかった。3回の国政選挙を経てようやく「れいわ」の名が浸透しつつあるというのが現状だろう。
そこで党名変更していちから名前を浸透させるのは、かなり険しい道のりである。それほど新しい党名を周知させるのは大変だ。そのエネルギーはもっと別の方向〜候補者発掘や組織づくり〜へ注いだ方がよいだろう。
党名変更で思い出すのは、民主党から民進党への変更である。
民主党は3年余で終焉した民主党政権の悪評判に苦しみ、野党に転落してほどなく党名を「民主党」から「民進党」に変えた。当時の安倍晋三首相は「民主党政権の悪夢」という言葉を繰り返して攻撃し、自民党への支持を広げていた。
当時野党の一角を占めていた「維新の党」を合流させるという事情はあったにせよ、それにも増して、民主党の国会議員たちが「民主党」という名前に染み付いたマイナスイメージから一刻も早く逃げ出したいという空気に覆われていたことが、党名変更に踏み切った最大の理由だったと私はみている。
私はこの決断をとても愚かだと思った。
鳩山由紀夫氏と菅直人氏が1996年に民主党を旗揚げして以来、この政党の名前を全国に周知させるのがどれほど大変だったことか。この数年の野党再編で誕生した「立憲民主党」や「国民民主党」の名前もいまだに全国に浸透しているとはいいがたい。
私は2001年にはじめて民主党を担当したが、何年経っても「民社党」(若い人は知らないかもしれないが、1990年代の政界再編まで存在した政党)と間違えて呼ばれることが少なくなかった。その苦労を肌で知っている当時の岡田克也代表や枝野幸男幹事長のもとで党名変更が進んだことに呆れ返った。彼らは世論の批判に耐えかねて名前を捨ててしまったのだ。
党名が定着するには時間がかかる。栄光も挫折も背負いながら歴史を積み重ねてはじめて、その政党の名前に重みが増していく。
せっかく全国に浸透して政権まで獲得した「民主党」のブランドをいとも簡単に捨てたのは愚の骨頂だった。立憲民主党と国民民主党が今、ともに「民主党」の略称を譲らず、国政選挙のたびに「民主党」と書かれた大量の投票が両党に按分されているのは、あまりに情けない笑い話である。
共産党に対しても「党名変更すればアレルギーが減る」という声をよく聞くが、私は変更しないほうがよいと思っている。
共産党は創立100年、日本最古の政党である。戦前は国家権力に弾圧された歴史を持つ。そんな歴史を持つ政党は日本には現存しない。戦後はソ連共産党や中国共産党と一線を画し、独自の道を歩んできた。「日本共産党」という名は「共産主義」という言葉を離れたブランドといっていい。
もちろん、この党名が「共産主義」を彷彿とさせ、日本社会に根強いアレルギーを刺激し、党勢拡大の障壁になっている点は否めない。
とはいえ、共産党は自民党や公明党と並び、支持者(好き)・非支持者(嫌い)を超えて広く知られた名前であることは厳然たる事実だ。これこそ「ブランド力」である。
党名変更した場合、新しい名前を浸透させるにはかなりの労力が必要だろう。かりにアレルギーを薄めることができたとしても、新しい名前が浸透せず存在感が薄れていくデメリットのほうがはるかに大きいのではないか。
冒頭に述べたとおり、党名を変えるよりも党の中身を変えることで党名のイメージを良くしていくほうがよい。共産党でいえば、党執行部が決めたことに党員が異論を言うことを封じる「民主集中制」を見直し、党員が党首を直接選ぶ党首選挙を透明な形で実施するなどの党改革を大胆に実施するべきだ。そうした試みを通じて「共産党」というイメージを改善していけばよい。
だが、志位和夫委員長ら現執行部はそのような党改革に踏み切る気配がない。志位氏が共産党委員長に就任して22年。これは長すぎる。
田村智子氏や山添拓氏ら次世代は他党よりも育っている。世代交代を進めると同時に党改革を断行し、「共産党は変わった」というイメージ転換に成功すれば、100年の歴史を持つ党名はむしろ「党の重み」を示す有力な武器になるのではないか。
中央省庁も同じだ。名前が変わって凋落した代表は、財務省(旧・大蔵省)である。
1990年代、日本を代表するエリートである大蔵官僚がノーパンしゃぶしゃぶなどで繰り返し接待を受けていたというスキャンダルは、戦後日本で信じられてきた「官僚は優秀だ」という神話を打ち砕いた。大蔵省は世論の猛烈な批判を浴び、政治主導で進んだ中央省庁改革で名前を「財務省」に変更されてしまったのだ。
私の新刊『朝日新聞政治部』に実名で登場する財務省の細川興一氏(私と出会った時は小渕首相秘書官、のちに財務事務次官)はこの時、新聞記者の私に激しい怒りをぶつけた。「大蔵省が財務省になるのなら、朝日新聞は夕日新聞になってしまえ」と何度も怒鳴られた。
細川氏は「大蔵省」の名前に誇りを持っていたし、省名変更は大蔵官僚の誇りを傷つけ、官僚という仕事への矜持を奪い、モラルが大幅に低下していくだろうと予測していた。20年近い時を経て、財務官僚が安倍首相を守るために公文書改竄に手を染めたことをみると、彼の予言は的中したといえるかもしれない。
朝日新聞は夕日新聞になってしまえーーという言葉は、朝日新聞が権力監視の矜持を失った今、心にストンと落ちるものがある。
ただし、夕日新聞に社名変更したとたん、朝日バッシングは収まるかわりに、朝日新聞の存在自体がますます世間から忘れられていくに違いない。名前に染み込んだ長い歴史と重みとはそういうものだ。
私は朝日新聞の政治部や特別報道部でデスクを務めた時分、かなり大胆な組織改革や紙面改革を実行した(詳しくは『朝日新聞政治部』で)。そのなかで逆に紙面改革に反対したのは、朝刊2面で連日展開してきた「時時刻刻」という大型企画コーナーの名称を変えるという提案だった。
提案の趣旨はまっとうだった。「時時刻刻」というのは、その日の政治や経済の動きを時々刻々と伝えるという狙いでつけられたコーナー名だが、テレビやネットでその日のニュースを知る読者が増えた以上、新聞はニュースの裏側を深掘りして解説する必要があり、朝刊2面の大型企画もそれに見合った名前に変更すべきだーーというのである。
私は、その見立てはまったく正しいと応じたうえで「長年親しまれてきたコーナー名を捨ててしまうのはもったいない。『時時刻刻』という名前は残したうえで、記事の内容を『ニュースを時々刻々と伝える』ものから『ニュースの裏側を深掘りして解説する』ものへ変えたらいい。コーナー名と記事内容が矛盾していると問題視する読者なんていませんよ」と主張した。名称を変えることには極めて保守的だったのである。
名前を覚えてもらうというのは、とてもとても大変である。大きな組織に依存することなく、独力でそれに挑んだ経験のある人ほど、その大変さがわかるだろう。
いまある名前、いま知られている名前を最大限活用し、中身の改善に全力を尽くす方が王道だ。その積み重ねが濃密な歴史を育み、名前の重みを増していくのである。