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ゼレンスキー国会演説を前に今こそ日本国憲法を読み返し、権力者を縛る「立憲主義」の原点に立ち返ろう!

ゼレンスキー大統領を英雄視して国会演説を熱烈に歓迎する全体主義的な風潮について、きょうは立憲主義の視点から考えていきたい。

個人より国家を重視する安倍晋三元首相のような国家主義・復古主義を支持する人々が、「ロシア=悪、ウクライナ=正義」の善悪二元論を掲げ、国民総動員令を発して男性の出国を禁止し、武器を持ってロシア軍と戦うことを強要するゼレンスキー大統領を全面支持する思考回路は理解できなくはない。

けれども、権力私物化が横行する安倍政権下で「憲法は権力者を縛るためにある」として立憲主義の重要性を声高に叫び、安倍氏が目指す緊急事態条項を新設する憲法改正に強く反対するリベラル派の人々が、国民総動員令を発して愛国心を煽り、「戦いたくはない人々」にも戦闘を迫るゼレンスキー大統領を全面支持するのは、私には理解できない。

これらの人々は善悪二元論に陥っている点において、安倍氏ら国家主義者と大して違いはないのではないか。党派を超えた感情的で短絡的な善悪二元論の高まりが、大日本帝国を破滅に導いた大政翼賛会的な全体主義を呼び戻し、現代日本を再び破滅に向かわせるのではないか。

人類の苦難の歴史が物語る「権力者は間違える」という性悪説に立ち、国家権力の暴走から国民の基本的人権を守るために権力者の手足を縛る憲法が不可欠であるという「立憲主義」の原点に、今こそ立ち返る時だ。国家権力によって国民の基本的人権が脅かされる戦時下こそ「立憲主義」の真価がますます問われる時である。

国民の基本的人権を最も尊重する立憲主義の立場からすれば、ウクライナ国民から「戦いたくない自由」を剥奪して武器を持たせて戦わせるゼレンスキー大統領の国民総動員令は、大日本帝国が日中戦争を遂行することを目指して国家のあらゆる人的・物的資源を統制するために制定した国家総動員法と同様に、そして、現代日本において安倍氏が憲法の縛りを振りほどくために改憲して新設しようとしている緊急事態条項と同様に、看過できるものではない。

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国民総動員令はウクライナ憲法に基づくものだから賛成であると主張する人は、大日本帝国憲法の国家総動員法も明治憲法に基づくものであり、さらには安倍氏がめざす緊急事態条項も憲法改正が実現した以上は賛成するという立場といえるだろう。

私はその立場に立たない。国家権力が「戦わない自由」を奪う行為は、たとえその国の憲法に違反していないとしても、人類が苦難の歴史の上に獲得した普遍的価値である「立憲主義」に違反していると考える。

国家の最大の責務は、国民の基本的人権を守ることだ。国民の基本的人権を奪ってまで守るべき国益とはいったい何なのか。何のために武器を持って戦うのか。

戦争を遂行する者たちが掲げる「正義」(それは彼らの「私利私欲」を隠す巧妙な大義名分かもしれない)によって、「戦いたくない人々」から「戦争から逃げる自由」を剥奪していいはずがない。他人と殺し合う戦争への参加を拒否する権利は、何人にも保障されるべきである。

ロシアのウクライナ侵攻は強く非難すべき暴挙だ。一方で、欧米から武器を輸入してロシアとの軍事的緊張を高め、外交によってロシアの侵攻を防ぐことができなかったゼレンスキー政権を、人道的に非難するかどうかはさておき、対ロシア外交に失敗して自国民の生命を危険にさらしたという意味において、これは明らかな「失政」である。ゼレンスキー大統領の政治責任は重大だ。彼はウクライナの最高権力者として戦争を回避することにもっと政治的エネルギーをそそぐべきだったのだ。

戦争回避こそ政治の最大の責任である。いかなる理由があろうとも、為政者は戦争を招いたという結果責任を免れない。為政者が自らの失政を挽回するために国民を戦争に総動員することが許されていいのか。最後は女性や子どもにまで竹槍を持たせて本土決戦に備えた大日本帝国とどこが違うのか?

国民総動員令を発し自国民を戦争に投入するゼレンスキー大統領への支持を表明する野党は、今夏の参院選で緊急事態条項を盛り込む憲法改正を訴える与党に、はたして対抗できるのだろうか。私には同じ穴の狢にしかみえない。

とりわけ理解に苦しむのは、安倍氏が軽んじた「立憲主義」の回復を党是に掲げて誕生した立憲民主党が、ゼレンスキー大統領の国会演説に賛成したことだ。この人たちに「立憲主義」を語る資格はあるのだろうか。立憲民主党を旗揚げした枝野幸男氏はどんな顔でゼレンスキー大統領の演説を聴くのだろうか。枝野氏の見解を聞いてみたい。

大日本帝国のアジア侵略は「アジアの解放」という「正義」を掲げて進められた。米国のイラク戦争は「大量破壊兵器の使用阻止」という「正義」の下に実行された。それらの「正義」は戦争が集結した後に「正義ではなかった」と否定されたのは周知の通りである。

ロシアはウクライナ侵攻について、ドンバス地方の二つの共和国を独立国家として承認したうえで、両国をウクライナ軍からの攻撃から守るために集団的自衛権を行使するという「正義」を掲げている。ロシアが主張する「正義」は、大日本帝国が掲げた「アジアの解放」や米国が掲げた「大量破壊兵器の使用阻止」と同様、自己を正当化するための後付けの理屈でしかないと私は考えている。

つまるところ、戦争当事国が掲げる「正義」ほど当てにならないものはない。双方はメディアを巻き込んだ「正義」のプロパガンダ合戦を繰り広げる。戦時下ではいかなる「正義」も疑わなければならない。所詮は国益と国益のぶつかりあいだ。

私は現実の国際政治において、国益と国益のぶつかりあいを否定するつもりはない。国益を追求するのは政府の仕事である。ウクライナは「欧米vsロシア」の国益がぶつかる主戦場と化した。そのような国際情勢を生み出してしまったこと自体がゼレンスキー政権の外交の失敗だった。

問題はウクライナから遠く離れた日本がウクライナを主戦場とする「欧米vsロシア」の衝突にどう対応するかである。どちらか一方の「正義」に肩入れするのは、究極の平和ボケだ。

いざ戦争が勃発した時、どちらか一方の国家権力に全面的に加担し、軍事的支援に踏み切るのは極めて危険であり、自国民の基本的人権を守るという最大の「国益」を損なう恐れが極めて高いことをまずは自覚しなければならない。

戦時下においてもっとも重視すべきは、戦争に巻き込まれた民衆の命をいかに救うかという人道主義に立脚して、即時停戦を促す外交努力である。どちらか一方の「正義」に感情的に肩入れし、軍事的な関与を深めていけば、戦地に生きる民衆の犠牲はどんどん拡大し、さらには私たち自身も戦争へ巻き込まれていく。

れいわ新選組をのぞく全会一致で「ウクライナと共にある」という国会決議を採択してロシアを軍事的に「敵国」と認定する姿勢を鮮明にし、ウクライナのゼレンスキー政権へ防衛装備品の支援に踏み切り、世界各国に向かって軍事支援を要請するゼレンスキー大統領に国会演説の舞台を与える日本の現状は、「戦争に巻き込まれていく」ステップを着実に踏んでいるようにみえる。

なんと愚かなことか。これはいつか来た道であろう。大日本帝国もアジアに侵略した当初は米国と太平洋戦争をするつもりなどなかったのだ。

今回の「敵国」は日本列島の北に広がる強大な軍事大国であり、核兵器を保有するロシアである。プーチン大統領はすでに欧米や日本が「宣戦布告」したとみなし、核兵器の使用まで示唆しているのである。私たちの基本的人権はいま、私たちの政府が思う以上に危険にさらされている。私たちはもっとリアリティーを持って冷静にウクライナ戦争と向き合わなければならない。戦争に巻き込まれてからでは手遅れなのだ。

ロシア軍のウクライナ侵攻は非難する(これに対する経済制裁は国際動向を見極めつつ慎重に判断して行う)。しかし交戦中の国家権力とはどちらとも与せず、即時停戦を実現する外交努力を尽くす。特に防衛装備品を含む軍事支援は禁じ手だ。あくまでも戦争に巻き込まれたウクライナの人々に寄り添い、人道的立場から避難民支援に全力をあげる。それが日本国民が戦争に巻き込まれることを防ぐもっとも賢明な立ち回りだ。

国家が掲げる正義と正義がぶつかりあい、世界中に戦闘が広がり、卑劣な大量虐殺が相次ぎ、ついには原子爆弾まで炸裂したのが第二次世界大戦だった。

このような愚かな戦争は二度と起こしてはならない。全世界の痛烈な反省が投影されたのが日本国憲法である。

日本国憲法は米軍占領下で「押し付けられた」という批判がある。押し付けた者がいるとすれば、それは米軍ではなく当時の国際世論だ。戦勝国も敗戦国も、資本主義国家も社会主義国家も、第二次世界大戦が終わった時は「二度と戦争は御免だ」という思いを共有していた。

当時は世界中の人々が多大な犠牲を目の当たりにして、もうこんな戦争は懲り懲りだ、二度と愚かな戦争は起こさないという強い決意を共有しており、その思いが占領軍を通じて日本国憲法の平和主義に投影されたのだ。

第二次大戦は人類史上最大の事件だったといえる。世界が再出発するにあたり大戦の反省を凝縮して制定されたのが日本国憲法だった。まさに世界の叡智を結集した人類的財産だと私は思っている。

日本国憲法は崇高な理想主義で貫かれている。私はそれが単なる理想主義とは思わない。第二次世界大戦のリアルな現実を直視し、最大の悲劇をもたらす戦争を避けるためのリアルな知恵がそこに込められていると思う。

改めて日本国憲法を見てみよう。まずは前文だ。(太字は筆者による)

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす 恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(中略)

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配 する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他 国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、 普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

日本国憲法の特筆すべきところは「日本政府」ではなく「日本国民」の視点で描かれていることである。「政府の行為によって(国民の基本的人権を奪う)戦争の惨禍が起きた」という反省から、権力者を性悪説の立場から徹底的に疑い、「国民主権」を高らかに宣言している。

それにつづく「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」というくだりは、日本国憲法の理想主義を映し出すものと指摘される。これに対して「理想主義すぎて国際政治のリアリティーを欠く」という反論も強い。

私は日本国憲法の理想主義がリアリティーを欠くとは考えていない。なぜなら「諸国民の公正と信義を信頼」せず、「これが国際政治の現実だ」と言いながら軍拡競争を繰り広げてきた第二次大戦後の世界は「平和を維持」するどころか戦争を繰り返し、専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖・欠乏からまったく解放されていないではないか。

軍事力を重視した第二次大戦後の世界は、平和の維持に失敗したのである。

そもそも「軍事力には軍事力で対抗する」という発想自体に誤りがあるのではないか。第二次大戦を引き起こした根本的な思考回路を世界はなお引きずっているのではないか。

日本国憲法はその誤った思考回路を断ち切り、軍事力には軍事力で対抗するよりも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」したほうが平和を維持することができるという、第二次大戦直後の世界の人々の確信に基づいて作られている。

これを「非現実的な理想主義」と片付けられるのか? 「軍事力には軍事力で対抗」のほうが非現実的ではないのか? その発想を続けてきた結果、今もなお戦争はなくなっていないのだから。

旧ソ連とも米国とも戦争をしたアフガニスタンには世界中から兵器や兵士が集まり、大国が撤退した後も内戦が続く。大国が軍事介入した地域は大国が撤退した後も大量の兵器が残り、社会は分断され、戦闘が泥沼化し、人々の基本的人権は傷つけられている。

欧米vsロシアの主戦場と化し、世界中から兵器と兵士が投入されたウクライナも、同様の末路をたどる危険は極めて高い。ロシア軍が撤退しても国内には大量の兵器が残る。常に内戦勃発の危機と隣り合わせなのだ。日本が米軍機に委ねて送り届けた防衛装備品も、その泥沼化の戦闘に費やされるであろう。一刻も早く停戦を実現しなければならない。「軍事力には軍事力で対抗」している限り、同じことの繰り返しだ。

第二次大戦の反省を踏まえ、「軍事力には軍事力で対抗する」という従来の発想を超えた新しい時代のリアリティーを追求する当時の国際世論が、日本国憲法の平和主義には込められている。

その平和主義を支える根幹は、国家権力を縛る「立憲主義」である。その「立憲主義」の最たるものが、国家権力が戦争を遂行できないように手足を縛る憲法9条なのだ。

そう思って、いまいちど憲法9条を読んでみよう。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

私はこの9条が「平和の構築」への道として非現実的でリアリティーを欠くとはまったく思わない。むしろ「軍事力には軍事力で対抗する」ほうが戦争を拡大再生産するだけで「平和の構築」へのリアリティーを欠くと思う。ベトナムもアフガニスタンもイラクもシリアもウクライナもそれを身を持って示しているではないか。それで潤ったのは軍需産業だけだ。

私は京都大学法学部で憲法学の大家である佐藤幸治先生のゼミに学んだ。私の立憲主義に対する考え方は、司法試験を目指す学生なら一度は手にするであろう佐藤先生の名著「憲法」(青林書院)を読み込んで培ったものである。

京大法学部に入学した1990年、佐藤先生の「憲法」を購入して最初に開けた時、法律の世界をまったく理解していなかった私は拍子抜けした。憲法1条から詳しい解説が始まるかと思ったら、冒頭から「憲法」という言葉の由来に始まり、それにつづいて、私たち人類において「立憲主義」という考え方がどのように生まれてきたかという歴史が延々と綴られていたのだ。

私は「法律」というよりは「歴史」の教科書に近いと思った。そして、ここに「法学」の本質があると理解した。法学の真髄は、ひとつひとつの条文ではなく、その条文が生み出されるに至る人類の歴史にあるのだ。

すべての法律を丸暗記しても決して法学は理解できない(司法試験にも合格しない)。立憲主義をはじめとする法学を築き上げてきた人類の歴史から学ぶ真摯な態度がなければ、法学は決して理解できない。

この立場に立てば、権力者が「違法ではない」と言い繕って権力私物化を正当化する行為がいかに立憲主義に反する暴挙であるか、そして安倍氏ら自民党が日本国憲法をこねくり回して改憲を参院選の争点にするという行為がいかに軽薄かもおわかりいただけると思う。

その佐藤先生が最も好きな憲法の条文として掲げたのが、憲法97条だった。私は前回記事でこの憲法97条を紹介したが、ここで改めて引用したい。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、 これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

自民党は政権復帰目前の2012年に作成した憲法改正草案で、この97条を削除した。そのあと安倍首相のもとで集団的自衛権の行使を認める解釈改憲に踏み切った。佐藤先生は極めて強い危機感を抱き、2015年6月、東大で講演し、解釈改憲に強く反発した。政府の要職を歴任した憲法学の大家としては異例の政府批判だった。

私はこの佐藤先生の講演について、昨年5月3日の憲法記念日にサメタイで紹介した。ゼレンスキー大統領の国会演説を目前に控える今こそ読んでいただきたい記事である。最後にここに再掲したい。

新聞記者やめます。あと29日!【憲法97条を最後に読み上げた佐藤幸治先生の歴史的講演】

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