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官僚の鑑だった元内閣官房副長官の古川貞二郎さんが逝去直前まで連載していた山形の『ブナの森新聞』から私に舞い込んだ執筆依頼

この冬、山形市の調剤薬局が発行する『ブナの森新聞』の令和4年冬号に寄稿した。小さな地域新聞に執筆するのは初めてのこと。

毎日のSAMEJIMA TIMESの原稿執筆・編集や週2〜3回のYouTube動画の企画・制作に加え、週刊誌やネットメディア等から執筆依頼や講演依頼もあって、私は書いたり話したり、新聞記者時代をはるかに上回るせわしない日々を送っている。とりわけ年末は多忙だった。

そこへ舞い込んだ『ブナの森新聞』の編集責任者である鈴木康久さんからのメール。

私はこの地域新聞のことも鈴木さんのことも存じ上げなかった。誠実で力のこもった執筆依頼文に心が動いたものの、これ以上の仕事を引き受けるのはさすがに無理だと思った。お断りのメールを送ろうとした矢先、添付されていた『ブナの森新聞 令和4年秋号』のPDFに気づいてクリックした。

私は目を見張った。

巻頭記事を執筆していたのは、元内閣官房副長官の古川貞二郎さんだったのである。古川さんはこの地域新聞に『未来の日本にのこしたいこと』と題する連載を寄稿していたのだ。

古川さんは9月に87歳で亡くなったばかりだった(こちら参照)。おそらくその直前に入稿していたのだろう。

記事の末尾には以下の「おことわり」が添えられていた。

古川貞二郎さんは9月5日、都内の病院でご逝去されました。87歳でした。 この夏も出張が続いて奥様の理津子さんが心配されるほどでした。生涯現役を実践されました。7月末には理津子さんと一緒に故郷の佐賀に行かれる予定でしたが、コロナの影響で延期したところでした。亡くなる前は「オオタ ニだけが明るい話題」と野球中継を楽しみにされていたそうです。 心からご冥福をお祈りいたします。 ブナの森新聞は令和4年冬号の中で追悼記事を掲載いたします。

古川さんは、村山、橋本、小渕、森、小泉の5内閣で官僚トップである官房副長官を務めた。在任期間は歴代2位の8年7か月に及ぶ。

しかしそれ以上に古川さんが特別な官僚だったのは、その経歴だった。東大法学部卒のエリートがひしめく中央官界において、古川さんは九州大学を卒業した後、長崎県庁に入り、厚生省に転じたという異色の官僚だった。そこから厚労事務次官を経て、官僚トップの官房副長官に上り詰めたのだ。

古川さんは政治家や官僚から絶大な尊敬と信頼を集めていた。どこまでも徹底してフェアなのである。決して嘘をつかない。詭弁も弄しない。首相や官房長官を立てつつ、ゴマをすることはない。官僚の立場で言わねばならないことは臆することなく直言する。絵に描いたような「官僚の鑑」だった。いつも背筋がピンと伸びていた。

自社さ政権から自公政権へ政界が激しく動き、権力者が目まぐるしく代わる時代に官僚トップとして不動の立場を得ていたのは、私的な利益や縁故、政略的思惑に流されることなく公正な行政官としての立場に徹していたからだろう。歴代最長の官房副長官である警察庁出身の杉田和博氏が安倍晋三首相への忠誠を徹底して官界トップに君臨したのとは対照的だった。

古川さんが事務方トップに就いていた時代の日本政府は、国家権力として絶対に踏み外してはいけない一線をギリギリのところで守っていたように思う。私は国家権力を常に批判的にみてきたが、当時の政府は今と違って「100%理不尽」と言い切れることはあまりなかった。

私が1999年に朝日新聞政治部に着任して最初に担当したのが、古川官房副長官だった。

古川さんは報道各社の番記者15〜20人を毎晩、年季の入った公務員宿舎に集め、わけへだてることなく政府の考え方を懇切丁寧に説明した。私たち記者の政権批判も笑顔で受け止め、理路整然と反論した。

官僚トップの官房副長官は政府内のありとあらゆる情報を知りうる立場にある。古川邸で毎晩行われる「記者懇談会」の話題は、外交・防衛から経済・財政、社会保障、国会対応、人事、スキャンダル対応まで森羅万象に及び、古川さんのその場の発言は「政府高官」のコメントとして記事に引用することが許されていた。その説明に全面的に賛同できない場合でも、一定の理は通っていると感じたものだ。決して広いとは言えない公務員宿舎の居間には番記者がひしめき、古川夫人もいつも話に耳を傾けていた。

全体取材が終わると、古川さんは記者全員をいったん退室させ、一人ずつ呼び戻して「サシ取材」の時間も用意してくれた。私たちはそこで自社の同僚記者たちが独自に入手した情報を他社に知られないように古川さんにあててウラ取りした。全社の取材が終わるころには時計の針は11時を回ることも珍しくなかった。古川さんはこの生活を8年7ヶ月、平日は毎晩続けたのである。

古川さんは決して自ら機密情報を漏らすことはなかった(番記者を使って世論操作する昨今の政治家や官僚とはまるで違った)。一方で、私たちがぶつけた情報が間違っている時は明確に否定した。いま振り返ってみても古川さんが私たち政治記者をミスリードすることは決してなかった。古川さんが強く否定しない場合は「その情報は間違いではない。記事にしても大丈夫」というゴーサインだった。政府に不都合な情報でも嘘をついて隠蔽することはなかった。私たち政治部記者は古川さんをどんな政治家や官僚よりも信頼していた。

私はその後の政治記者人生で、古川さんのような公正で誠実な官僚と出会ったことがない。とりわけ安倍政権以降は官僚のモラルが著しく崩壊し、国会で平然と虚偽答弁を繰り返し、公文書の改ざんや廃棄にまで手を染めるようになった。古川さんは晩年、地に落ちた官僚機構をどのような思いで眺めていたのだろうか。

古川さんは佐賀出身である。なぜ山形の地域新聞で連載を引き受けたのだろう。鈴木さんの誠実で力のこもった執筆依頼に心を動かされたのだろうかーー。

古川さんは国家権力の中枢に身を置いた為政者である。しかし強い者よりも弱い者、東京よりも地方への温かい眼差しを忘れない人だった。私は『ブナの森新聞』への執筆をお断りするメールを送ろうとした自分を恥じた。

年が明けて1月2日、自宅のポストに『ブナの森新聞 令和4年冬号』が届いた。巻頭特集は『古川貞二郎さんをしのぶ』だ。

古川さんにゆかりのある人々の寄稿が続く中で、最初の記事を執筆していたのは、元宮内庁長官の羽毛田信吾さんだった。古川さんが寵愛した厚労省の後輩である。『かけがえのない先輩であり師であった』と題する追悼文の書き出しに、私は胸が熱くなった。

いつ頃のことだったろうか。古川さんと車に乗り合わせた折、「今、山形の地域新聞に出す原稿を書いているんだよ。いくつになっても書くという作業は楽しいものだね。書くことで自分の考えも整理されるしね」と嬉しそうに話された。元気いっぱいで知的好奇心旺盛な先輩に羨ましい気がしたものである…

新聞をめくると4ページに古川さんが東京佐賀県人会誌『東京と佐賀』令和4年盛夏号に寄稿したコラム『二年半ぶりの帰郷に思う』が転載されている。古川さんが4月に帰郷した時のエピソードを綴ったものだ。その隣の5ページに私が寄稿した『SAMEJIMA TIMES ドラマのように面白い 鮫島さんの政治・政局解説 強力な野党勢力結集を!!』が掲載されている。鈴木さんがチャーミングなタイトルをつけてくださった。何より古川さんのコラムと隣り合わせなのがうれしい。

原稿を送ってよかった。これからも時間の許す限り『ブナの森新聞』に執筆していこうと思っている。

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