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家父長制的資本制の家族収奪のカラクリ 一人一人を大事にしない政治は、家族のことも大事にしない〜ゆっくり考える

※本稿は筆者同盟に参画しているハンドルネーム「ゆっくり考える」さんが執筆したものです。


今回は、ツイッター上で批判を受けた2022年5月19日の『週刊経団連タイムス』の記事「日本の少子化対策はなぜ失敗したのか」を手がかりに、家父長制的資本制(patriarchal capitalism)の問題について考えてみることにしました。

「日本の少子化対策はなぜ失敗したのか」は、経団連の人口問題委員会(4月12日開催)で、家族社会学を専門とする山田昌弘先生がおこなった報告の概要を伝えるものです。記事の名義は経団連経済政策本部であり、山田先生の発言がそのままの形で掲載されたものではないとみられます。

『経団連タイムス』の記事は、8月9日に「T.Katsumi」さんが次のようにツイートしたことで注目され、批判されることになりました。

また「T.Katsumi」さんは、後日次のような補足もしています。

ツイッターの反応をみるかぎり、「T.Katsumi」さんのパートナーの方と同じく、記事に違和感や怒りをおぼえた人(女性が多そうです)は少なくなかったようです。

ところがこの記事をよく読むと、「男女共同参画のさらなる推進、多様な家族を認めること、社会保障による下支えの3点が重要」とも書かれています。また山田先生の著書『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』(光文社新書)には、結婚率・出産率の低下を経済問題と関連づけたがらない人々への批判(48-50ページ)、日本政府が低コストで少子化対策をしようとしていることへの批判もあり(51-52ページ)、結論部分には、親世代ほどの裕福な生活はできずとも「世間並みの生活」は確保できると若者が期待できる対策が必要だと書かれています(183-185ページ)。

個人的には、富と権力の偏りを理論的に批判するよりも、アジアの家族観と欧米のそれとの違いを示す作業に比重を置き、「欧米式の少子化対策」(注1)はうまくいかないとする山田先生の議論には、本当の問題から目をそらして現状維持に逃げ込みたい人たちから利用されやすいところはあると思います(この点は自戒を込めて書いています)。とはいえ、親世代ほどの裕福な生活は無理でも「世間並みの生活」は確保できると若者に期待させる政策(安心させる政策、と言い換えたいところです)が必要、という主張はまっとうだと思います。『経団連タイムス』の記事においてもこの主張が前面に出ていたなら、「T.Katsumi」さんのパートナーの方もそこまでお怒りにはならなかっただろうという気がします。

しかし『経団連タイムス』の記事に限っていえば、それはたしかに「ひどい」と感じられる内容となっています。理由はおそらく、「……な男性を~にもっていく」「……という女性を増やす」というパターナルな表現もさることながら、この記事が、『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』の主張とは別の文脈を強化しそうな気配を帯びているからだと思います。

「別の文脈」とは、労働者を低賃金のままにしておきたい企業と、女性が「わがまま」になったせいで少子化が進んだと考え、もっと女性が我慢すればいいと主張する男性政治家たち(注2)の思惑です。

両者の根底にあるものとは家父長制的資本制です。「収入が不安定な男性をどのように結婚までもっていくか、そのような男性と結婚しても大丈夫という女性をどう増やすか」という一文を、家父長制的資本制の文脈で解釈すれば、「企業は労働者の賃上げをするつもりはないので、今後は女性に、もっと劣悪な条件での結婚・出産も受け入れるよう指導せねばならない」という意味になるでしょう。そうなると、未来に不安を感じている人たちを安心させるどころの話ではなくなります。そして少なくない人たちが、現在の日本の政治的・経済的指導者たちのそうした本音を感じ取っているからこそ、今回の記事は注目され批判されたのでしょう。その意味で、「T.Katsumi」さんのパートナーの方が激しい怒りを感じたことは、やはり正しかったのだと言わざるを得ません。

そのようなわけで、以下では、家父長制的資本制をめぐる議論に少々踏み込んでみたいと思います。

・家父長制的資本制

家父長制的資本制とは、家父長制と資本制(資本主義的経済体制)という二つの要素からなる言葉です。両者の関係をどう見るかについては多くの論争があるようですが、上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波文庫)において採用されているマルクス主義フェミニズムという立場は、とりあえず資本制と家父長制という二つの領域が存在するとした上で、両者は対立することもあれば、補完的に機能する、つまり共犯関係をつくりあげることもあると考えるそうです。そして、こうした関係の上にできあがった近代産業社会特有のあり方(仕組みや秩序など)を、家父長制的資本制と呼ぶといいます(『家父長制と資本制』31-32ページ)。

上野先生の関心は、両者の補完関係が性別役割分担に基づく経済構造を生み出し(男性は外で有償労働をし、女性は家で無償労働をする)、そこから現代のさまざまな女性差別が発生しているという点に向けられています。

しかし、家父長制的資本制の内実が新自由主義とウルトラ・パトリアーキズム(超家父長主義。前回の記事で使用した概念です)による補完関係に「進化」した今日、家父長制的資本制の引き起こす問題はもっと多岐にわたり、大多数の男性に対しても深刻な抑圧を生んでいると思われます。

男女双方の問題を取り上げますと原稿が長くなってしまいますので、本稿では女性の視点から、家父長制的資本制下で生じている二つの深刻な問題として、育児・ケア・介護をめぐる家族の負担増大と非合理な少子化対策に焦点を絞りたいと思います。

・育児、ケア、介護をめぐる家族の負担増大あるいは、家族という場が、労働者という「資源」を収奪し、「役立たず」を廃棄する場となってしまうことについて

斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)によると、気候変動問題をはじめとする環境問題からみた場合の資本主義の弊害とは、外部環境から資源を大規模に収奪し、自分たちの経済活動の結果生じる負担を外部に転嫁することだといいます。現代社会においては、大量生産・大量消費のための容赦ない収奪が自然の回復力を上回るレベルに達してしまったため、人間の生存に必要な環境が地球上から急速に失われつつあると、斎藤先生は警鐘を鳴らしています。

そして実は、家父長制的資本制下においては、家族も「外部環境」として、大量生産・大量消費のための容赦ない収奪と負担転嫁にさらされています。上野先生によれば、資本主義にとっての家族とは、健常な労働者を「資源」として調達し、労働者として使い物にならない者(老人、病人、障がい者)を「産業廃棄物」として捨てる場であるといいます(『家父長制と資本制』10ページ)。しかし当然ながら、家族は「ヒトという資源の供給源として無償でかつ自動的に働くわけではなく」、「「廃棄物」となったヒトを受け容れ支えるキャパシティが無尽蔵だというわけでもない」ので、負担に耐えられなくなった家族は崩壊してしまいます。その結果発生するものが家族問題であると、上野先生はみています(『家父長制と資本制』11ページ)。

上野先生も認めておられるように、1990年に刊行された『家父長制と資本制』には国家への目配りが足りません。そこで本田由紀・伊藤公雄編著『国家がなぜ家族に干渉するのか』(青弓社ライブラリー)も参照してみます。同書の執筆者の一人である伊藤公雄先生によれば、もともと日本の家族政策は、「(国家が本来担うべき)福祉領域の多くを家族に依存し、国家の負担を家族に押し付ける」ものとして発展してきたのだといいます。つまり「家族」「家庭」の無給のケア労働者としての女性の役割は、国家から政策的に押し付けられてきた面があるということです。かつ、国家からの物質面でのサポート不足は、「精神論的家族イデオロギー」でごまかされてきたとのことです(164ページ)。

この構造の中では、女性は原則として夫の収入に依存しつつ、自身は無償で子どもを出産・育成し(労働者という「資源」を生産し)、無償で夫をケアし(労働者という「資源」をメンテナンスし)、無償で老人、障がい者、病人などの介護をおこないます(労働者としては使えない「廃棄物」を処理する)。それらは「家族愛」(注3)の名のもとに背負わされる一方、「あるべき女性」像に従順ではいられない女性には「できそこない」のレッテルが貼られます。

この構造は、今後強化される可能性があります。『国家がなぜ家族に干渉するのか』の第4章で、若尾典子先生が詳しく分析しておられますが、自民党の改憲案第24条では「家族は、互いに助け合わなければならない」と謳われており、これは今後、福祉を削って家族に負担を転嫁するための布石であると考えられます。つまり家父長制的資本制における家族収奪のメカニズムの強化が目指されているのです。女性と家族に負担を転嫁してしまえば、福祉を削減しても、一見「人道的」な装いを保ちつつ、「資源」を確保し「役立たず」を廃棄する作業を安価に進めることができます――少なくとも短期的には。

一方で、今日の新自由主義は、少子高齢化に伴う労働力不足を補うべく、男女平等の看板のもとで、女性にも企業の労働者として「活躍」するよう要求しています(ただし、なるべく低賃金で!)。その結果、女性は家庭内でも家庭外でも搾取と収奪に直面します。山口智美先生は、「外で働き、子どもを産み、家でも育児、介護を押しつけられるとしたら、女性は身も心もボロボロになってしまうでしょう」(『ビッグイシュー日本版』288号、2016年6月)と懸念しておられます。

・非合理な少子化対策あるいは、パトリアークが女性や子どもを一方的に操作しようとし、本当のニーズに向き合わないことについて

家父長制/パトリアーキーとは、パトリアーク(「父」を名乗る男性指導者・権力者)が性支配(女性に対する支配)と世代間支配(若者に対する支配)をおこない、富と権力を独占する仕組みや秩序です。したがってパトリアークにとっては、女性や子どもは「資源」「所有物」であり、「家畜」と限りなくイコールであり、支配・操作の対象です。

とはいえ個人的には、パトリアークの野蛮性や暴力性は、「父親としての責任」という形で提示された家族規範によって、ある程度制限されてきた面もあるのだろうとは思います。また現代日本においては、野蛮時代のパトリアークそのままの暴君的振る舞いをする人には、批判が向けられるようにもなっています。

しかし、女性や子どもに対して一方通行のパトリアーク的コミュニケーションをおこなう習慣は、現代日本の男性社会に、まだまだ根深く残っています。そして、自民党内でもウルトラ・パトリアーキズムの傾向がことに強かった清和会時代の政治においては、女性や子どもの本当のニーズを汲み上げる合理的政策は、非常に不十分なレベルにとどまってきました。

たとえば、家父長制/パトリアーキーの枠組みから外れた女性たち(独身女性、離婚した女性、男性伴侶に先立たれた女性など)は、無職や非正規であった場合、深刻な貧困に陥りやすいことが指摘されています(関連記事のURLを二つ貼っておきます。「「結婚しない選択をしただけで貧困に陥る」女性が自分ひとり養えない日本社会の罪深さ」「独身女性の貧困が深刻化し非正規雇用の生活で老後への不安も拡大。対策や支援団体はあるのか?」。あわせて雨宮処凛さんのブログもご参照ください)。その結果、少子化対策という文脈ではもっと手厚い行政支援を受けてもよさそうなシングルマザーに対してさえ、日本では本気の対策がとられていません。むしろ、子どもがいるのに離婚したのが悪いなどの「自己責任」論を浴びせかけられ、離婚に至った経緯はまじめに検討されません。

なぜフランスは少子化問題を改善でき、日本はできなかったのかという問題も、結局は、女性の話を真剣に聞き、現実に即した合理的政策を実行に移せる人が、男性社会にあまりにも少なすぎたという一点に尽きる気がします。

タレント、エッセイストとして幅広く活躍しておられる小島慶子さんの対談集『おっさん社会が生きづらい』(タイトルがひどいと感じる方もおられるかもしれませんが、対談相手5人のうち4人は男性で、男性の生きづらさにどう対処するかという問題にも踏み込むまじめな内容です)の中で、対談相手の一人である清田隆之さんは、「人の話をちゃんと聞く」とはどういうことか、この点を理解することが日本の男性にとっての課題だと述べています。具体的には、「相手の言葉を遮らずに聞き、論理に沿って解釈し、勝手なジャッジをせず、わからない点があれば質問を投げかけ、意味やニュアンスを正確に把握する」ことが「コミュニケーションの基本」である点を理解する、ということです(『おっさん社会が生きづらい』49ページ)。

高崎順子『フランスはどう少子化を克服したか』(新潮新書)を読むと、フランスの少子化対策は、どれも活発な双方向コミュニケーションなしには難しいものであることがわかります。また高崎さんからみて、「フランスの育児周辺の制度や工夫は、かなり論理的・体系的に組まれている」とのことです(『フランスはどう少子化を克服したか』11ページ)。高崎さんはフランスの階級社会の問題にも触れており、フランスのすべてを賛美しているわけではありませんが、少なくともフランスでは、清田さんのいう「コミュニケーションの基本」は当然の前提なのだと思います。

ついでながら、高崎さんが次々に提示するフランスの思考様式(「子供を虐待から守るために行政と周囲が行動しなければならない」という意識の徹底、育児の大変さを皆が認識しており、「親の育児能力」などにそもそも期待していないこと、女性が希望するなら無痛分娩も選択できるようにしてあることetc.)の数々をみると、自民党の収奪的な家族政策は、家のことをなんでもやってくれる「お母さん」を再生産しようとする未成熟なマザーコンプレックス的心理によっても強化されているのではないかという気がしてきます。小島慶子さんは上記の対談集の中で、家父長制的/パトリアーキー的な「お母さん」像(息子を献身的に比護するが、「あるべき男」像を強要し、息子の自律的思考を封じてしまう)の呪縛から男女双方とも逃れることの重要性についても語っています(『おっさん社会が生きづらい』154-157ページ)。

・家父長制的資本制から脱出する道は

本稿では、家父長制的資本制による家族収奪の構造を女性の視点から確認しましたが、非正規雇用の男性が増加していることからわかるように、家父長制的資本制は、今や一般男性にとっても敵対的なものとなっています。家父長制的資本制を運営する大型パトリアークたちは、多くの男女を非正規雇用として使い捨てることで、未来の家族をも食いつぶしているのだといえます。

また、家庭内ケア労働を女性がすべて無償で負担することを前提する構造にしても、すでに至るところで破綻が生じています。家族の介護を一人でしなければならない介護者による、痛ましい家族内殺人が相次いでいるのは(『東京新聞』2020年10月22日など)、その現れであると考えられます。

貧困問題に取り組んでおられる雨宮処凛さんは、今年8月10日のブログで自民党の家族政策について触れ、なぜ「家族が大事とか言いながらその家族をブチ壊し」、「「家族」をことさらに強調する自民党が、あえて結婚できない人々を増やし、少子化を促進するような政策ばかりを進める」のか不思議だったとした上で、「なーんだ、カルトだったんだ」と絶望的に納得しておられました。

統一教会との関係もあり、自民党清和会の家族政策はたしかにカルト的です。ただ本稿でみてきたように、この一見矛盾する自民党の家族政策の背後には、家父長制的資本制による家族収奪のカラクリがあります。

このカラクリを念頭に置くと、現在の野党と与党の関係を、「リベラルの(わがままな)個人主義VS保守の(責任ある)家族主義」という図式で理解することがいかに間違っているかがよくわかります。一人一人を大事にしない政治は家族のことも大事にしません。むしろ一人一人を大事にしない政治だからこそ、まともな家族政策ではなく全国の家族をひたすら収奪対象におとしめるような政策に行きつくのでしょう。全国の家族から収奪するだけの政治家を「保守」とは呼べません。家族が大事だからこそ自民党を支持するという方がおられれば、この家父長制的資本制の家族収奪のカラクリに、もっと気づいて頂きたいと切に思います。

家父長制的資本制の生み出す虐待的秩序を克服する必要がありますが、その点で気がかりなのは、上の世代のようには豊かになれない若年男性が、女性に取り分を奪われたと感じ、フェミニズムやジェンダー論を敵視し、男女の分断が深まる傾向があると指摘されていることです。山上容疑者にも多分にその要素があったかもしれません。

男女の不毛な分断が深まらないよう、家父長制的資本制の構造的な収奪・搾取の問題に焦点を当て、大型パトリアークの利益のために下々の者を犠牲にしない政治と経済を目指す勢力が必要だと思います。そして、女性差別の撤廃(家父長制的/パトリアーキー的秩序の解体)と人権に基づく秩序づくりは、一般男性が大型パトリアークからいっそう過酷に収奪・搾取されることを防ぐためにも必要だという理解が求められていると思います。

家父長制的資本制の克服という点で、私はれいわにも期待していますが、今もっとも期待しているのは、斎藤幸平先生が提唱しておられるミュニシパリズムとコモンズを重視した戦略です。そのため、ミュニシパリズムを重視しておられる杉並区長の岸本さとこさんの区政がどうなるか、大いに関心をもっています。

またサメタイで紹介された明石市の泉房穂市長の市政も注目に値すると思います。明石市の事例をみる限り、障がい者も病人も高齢者も切り捨てず、女性のニーズにもしっかり向き合うまちづくりのほうが人口増加に資するようです。泉房穂市長については、SAMEJIMA TIMESの6月28日公開の記事および7月7日公開のyoutube動画をご参照ください。

「泉房穂・明石市長がいま熱い!激論2時間、とことん共鳴してしまいました!」

「山本太郎が天畠さん擁立に込めた思い~泉房穂明石市長と通じる政治理念」

注1)山田先生の考えておられる「欧米式の少子化対策」とは、女性が働きに出られればよい、子どもが最低限の生活を送れればよい、という発想を基調にする対策のことだそうです(山田昌弘『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』152ページ)

注2)たとえば今年7月、自民党の桜田義孝元五輪相が、「男の人は結婚したがっているんですけど、女の人は、無理して結婚しなくていいという人が、最近増えちゃっているんですよね」「女性も、もっともっと、男の人に寛大になっていただけたら」と発言したことが報じられました(『朝日新聞デジタル』2022年7月5日)。

注3)「愛」に対してはフェミニズムから厳しい目が向けられています。女性を外部から隔絶した空間(家族)に閉じ込め、無給のケア労働者として奴隷化し、男性に従属させるためのイデオロギーとして、家父長制/パトリアーキーが「ロマンチック・ラブ」「家族愛」を利用してきたという理解があるからです(上野千鶴子『家父長制と資本制』47-50ページ)。自民党清和会的な「愛国教育」が要求している「愛国心」の本質も、国民から主体性を奪い、洗脳・画一化して権力の側に取り込むための、パトリアークに盲従させるための愛であると言えましょう。

一方、初回の記事で書かせて頂いた通り、世界人権宣言第一条には「同胞の精神」という言葉があり、そこには「隣人愛」「人類愛」が前提されているものと思われます。フランスの理念も自由・平等・博愛です。こちらの「愛」は、困窮した人々と幅広く連帯し、社会を変革する力を生み出し、自分自身をも奴隷化のプロセスから解放していくものです。両者は同じ「愛」でも、当事者の主体性と人間的成長、また理性と良心の介在という点においてまったく異なります。「隣人愛」は、単にみんなで仲良くしようというようなものではなく、社会的弱者を見捨てて顧みないパトリアークの冷酷さ、見識のなさを強く批判する愛だと言えます。

欧米の人権概念は本来、自分志向の「権利」と他者志向の「隣人愛」から成っているのではないか、現在の日本政治には、隣人愛的リベラリズムという次元が圧倒的に不足しているのではないか、リベラル陣営、とくにリベラル左派の男性層における「隣人愛」的要素の弱さが、リベラルをエゴイスティックな個人主義者のように見えさせ、いわゆる「保守」を警戒させているのではないか。そのような問題意識が私にはあります。最近、評論家の藤田直哉先生がリベラリズムとエゴイズムをめぐる葛藤に関してツイートしておられたので、ご紹介しておきます。


ゆっくり考える(ハンドルネーム)

東京郊外育ち。SAMEJIMA TIMESの一読者。研究・教育業界の片隅で日本を眺めています。気になった問題をゆっくり考えます。縁あってSAMEJIMA TIMESに寄稿する機会を頂くことになりました。