政治を斬る!

冨名腰記者が北京特派員の最後に書き置いた「小さな物語」〜震える私を助けた中国の警察官と26年ぶりの再会で得たものとは

私が27年間の朝日新聞時代に出会った同僚記者のなかで最も話が面白かったのは冨名腰隆記者である。

政治部の6期後輩。永田町で実に様々な政局取材をともにしてきた。私が最も信頼する政治記者の一人だ。

政治家の懐に飛び込むのがうまいだけではない。政治家に取り込まれることなく、自分の視点で突き放して政治家を分析し、その深層心理を明快に解説することができる数少ない同僚の一人だった。

話が面白い記者は原稿にも個性がある。彼も例外ではなかった。凡庸な原稿を毛嫌いし、少しでもチャーミングに仕立てるため、文章構成や文章表現をいつも試行錯誤し、細部までこだわりにこだわった(時にそれはコッテリしすぎた)。

先輩後輩問わず同僚と話す時は常に社内的立場や上下関係を気にしてしまうのがサラリーマンの性だが、彼と二人で話す時はすべて忘れ、お腹を抱えて笑うことができた。彼の話にはとにかく臨場感あふれるエピソードが満載なのだ。

その語り口はあまりに強烈な映像を私の脳裏に叩き込むため、私はいまでも彼の人生を襲った衝撃の逸話をいくつも諳んじることができる。自らの人生で体験した悲喜交々の物語をどれだけ持っているかが、取材相手を惹きつけ情報を収集する力を大きく左右するといっていい。

冨名腰という姓のルーツは沖縄である。彼は大阪に生まれ、様々な苦難を乗り越えるなかで洞察力を磨いてきたのだろう。

その冨名腰記者が中国の特派員に転じたのは7年前だった。最初は上海へ、そして北京へ移った。取材上の制約が多い中国から時折、彼らしい工夫した記事が発信されていた。

そして今月、日本にようやく帰って来た。朝日新聞で海外勤務を7年間続けるのは極めて長い。中国取材でも重宝されていたに違いない。

特派員として最後に書き置いた記事がまた彼らしかった。コッテリすぎるかつての癖もすっかり解消されている。私なりに導入部分を要約するとーー。

26年前、中国語がまったく話せなかった学生時代に中国を旅行し、西安発の列車に飛び乗ったところで腹痛に襲われた。たまたま正面に座った男性が声をかけてきた。洛陽に到着したところで一緒に降りるよう促され、多少の不安を感じながらも、初対面の男性に身を委ねることにした。その人は警察官だった。駅前のホテルに案内し、部屋代を払い、回復すると自宅に招いて手厚くもてなしてくれた。この時の「いつか謝意を伝えたい」という思いが、中国語を学ぶ動機になった。特派員として中国に戻り、連絡をとろうとしたが、すでに当時の住所にはいなかった。26年の歳月が流れ、このたび日本へ帰国する直前にふと思い出してネット検索したところ、同姓同名を見つけた。広大な中国大陸に同姓同名は山ほどいるが…

この後のドラマチックな展開はぜひ本記事にて。この26年間の日中両国の変化が冨名腰記者の人生と重なり合って浮かび上がってくる。そして臨場感あふれるエピソードは「小さな物語」として見事に完成している。彼らしいこだわりの文章をぜひ。

冨名腰記者が中国へ赴任したのは2016年、朝日新聞社はその2年前の原発事故をめぐる「吉田調書報道」を取り消した事件で安倍政権に屈服し、国家権力にすり寄りはじめ、国策の東京五輪のスポンサーとなり、社内では記者の管理統制を急速に強めていた。私は「吉田調書報道」の担当デスクとして懲戒処分され、記者職を外され、2021年に独立して「小さなメディア」であるSAMEJIMA TIMESを創刊するに至った(その詳細は『朝日新聞政治部』に克明に綴っている)。

彼が日本を離れている7年間に、朝日新聞社はまったく別の会社に変わり果てた。発行部数は激減して政府や自治体、大企業の新聞広告への依存を深め、政権批判や大企業批判の記事は大幅に減り、記者個人としての言論活動に会社はますます目を光らせ、社外出版やSNS発信は大幅に制約されている。社内ではリストラの嵐が吹き荒れ、会社は記者の能力いかんによらず、一人でも多くの社員に退職してもらうことに躍起だ。

中国当局の目をかいくぐって独自の発信を続けて来た冨名腰記者が今後、朝日新聞上層部の目をかいくぐってどのような発信を続けていくのか。私は大いに楽しみにしている。

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