週刊文春が昨年末に報じたダウンタウンの松本人志氏(吉本興業)の性加害疑惑について、マスコミ各社は沈黙している。
ジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏の性加害問題について長年沈黙してきたことを「反省」したのは、その場しのぎのポーズだったとしか思えない。
ジャニー喜多川氏の性加害疑惑は1999年に週刊文春が報じ、2004年には裁判で事実関係が確定したにもかかわらず、マスコミ各社は無視し、ジャニーズ所属タレントをCMや番組で使い続けた。英国BBCが昨年に性加害疑惑を報じて国際社会から批判が噴出し、ジャニーズ事務所が自ら疑惑を認めてようやく、マスコミ各社は一斉に報道し始めたのである。
当人が疑惑を認めて記者会見するか、警察や検察など当局が不正を立件しない限り、「疑惑」段階では蓋をするーー近年のマスコミ各社の報道姿勢は一貫している。政治家や大企業、有名タレントら「強者」の疑惑を報道して抗議を受けることを嫌がって見て見ぬふりをする「事なかれ主義」がマスコミ界に蔓延っているのだ。
松本人志氏の性加害疑惑も、吉本興業が否定している以上、「事実関係がはっきりしない」として静観し、松本人志氏のテレビ番組などで起用し続けるつもりだろう。
これではジャーナリズムとはとても言えない。事実関係に取材で迫り、当人が説明責任を果たさないなら「疑惑」として果敢に報じて説明責任を迫るのがジャーナリズムの務めだ。それでも当人が説明責任を果たさないのなら、番組への起用をやめるべきである。
当人や当局が事実関係を認めない限り報道しないーーこのマスコミの報道姿勢は、芸能人に限らず、政治家に対しても同様である。
昨年の「文春砲」で政界の話題をさらったのは、岸田文雄首相の最側近である木原誠二官房副長官(当時、現在は自民党幹事長代理)をめぐる疑惑だった。木原氏の妻が元夫の不審死事件で警視庁に重要参考人として事情聴取されながら、木原氏の妻であるという理由で捜査が不自然に打ち切られた疑惑である。
木原氏が警察当局に圧力をかけたのではないか、警察当局が木原氏ら政権中枢に忖度して捜査を打ち切ったのではないかーーそんな疑惑報道に世論の関心は高まったが、警察庁長官が早々に「事件性はなかった」と明言するとマスコミ各社は沈黙を貫いたのだった。「警察が動かない事件は報じない」というわけだ。
自民党安倍派などの裏金事件も同様である。「しんぶん赤旗」が疑惑を報じ、神戸学院大の上脇教授が5派閥を刑事告発した時は黙殺していたのに、東京地検特捜部が捜査に着手した途端、検察当局のリークに基づいて一斉に報道を開始したのである。
他のメディアや学者が「調査報道」した疑惑は無視し、警察や検察など国家権力が捜査に動いたものだけを報じる。これがマスコミ各社の実態だ。まさに「国家権力の広報機関」なのである。
ジャーナリズムは本来、警察や検察の捜査が公正に行われているかどうかをチェックするのが最大の役割だ。捜査当局が恣意的に捜査を行なっていないか、具体的に言えば、現政権の意向に沿った形で政敵を狙い撃ちする捜査をしていないか、あるいは現政権に近い人物への捜査を手控える「不作為の不正」がないか、これらを追及するのがジャーナリズムの責務なのである。
自民党主流派の麻生・茂木・岸田3派には手を触れず、最大派閥の安倍派と反主流派の二階派だけを家宅捜索した検察捜査は、主流3派の意向に沿った「国策捜査」に色彩が強い。検察当局のリークを垂れ流すのではなく、捜査が公正に行われているかどうかを追及することにこそ、検察担当記者の最大の役割があるのだが、現状は検察当局と一体化し、リークを垂れ流すばかりだ。
松本人志氏の性加害疑惑にしろ、木原氏の捜査介入疑惑にしろ、検察当局の国策捜査にしろ、ジャーナリズムの役割は、社会的強者が認めない事実や隠している事実を暴くことである。その大原則を今一度確認したい。