今回の衆院選は私にとって朝日新聞社を退職して初めての国政選挙であった。
これまでは選挙になると新聞各紙をくまなくチェックし、テレビ各局の選挙番組もできる限り見ていた。新聞記者として選挙にかかわるニュースはひとつも見落としてはいけないという思いがあった。
新聞社を退職してそのようなプレッシャーはなくなった。
SAMEJIMA TIMESはすべてのニュースを伝えるつもりはない。政治分野を中心に他のメディアでは読めないようなオリジナリティーがあり読み応えのある解説記事をひとつでも多く発信することに全力を挙げている。「ニュースを落としてもいい」というのは新聞記者にはない特権だ(私が朝日新聞でデスクを務めた時代の特別報道部の記者たちはこの「特権」を享受していた)。
私は今回の総選挙で新聞各紙の選挙報道もテレビ局の選挙番組もほとんど見なかった。朝起きてツイッターのタイムラインに流れてくるインフルエンサーたちが厳選したニュースにまずは目を通し、そのうえで自らが気になる情報をネット検索して調べたうえで、疑問に感じた部分について旧知の取材先や知人らから情報を収集するやり方で衆院選を追った。
その結果、困ったことは何もなかった。衆院選の大きな流れも十分に把握できた。それどころか多くの新聞が「自民党は単独過半数前後」「立憲民主党は大幅議席増」という見通しに立っていたのに対し、私は終始、「立憲民主党は低投票率で沈む」と見立ててきた。新聞をほとんど読まなかった私の予測の方が、多くの新聞報道よりも的中したことになる。
私は新聞記者時代から新聞各紙の国政選挙の報道は実につまらないと感じていた。とくに公示後は「客観中立」の建前に逃げ込み、現政権の業績評価や各党公約の評価に踏み込まず、各党の主張を並列的に紹介することに終始する報道ぶりに強い違和感を覚えていた。
放送法の制約を受けるテレビ局と違って、新聞社には「客観中立」という法的縛りはない。すべては「事なかれ主義」による自己規制である。編集局長や政治部長にとって、選挙報道を通じて現政権の問題点を浮き彫りにしたり、政治に対する世論を喚起したりすることよりも、ミスなく選挙報道を終えることが出世への道であることは明らかだった。
有権者が新聞しか読んでいない時代には、新聞が各党の主張を公平に扱う意味はあっただろう。しかし、いまや新聞はマスコミの一部でしかない。新聞だけをみて投票先を決める有権者は皆無であろう。そのなかで新聞が「客観中立」「不偏不党」を掲げ、各党に対する独自の評価を打ち出すこともなく、ただ政策を並立的に並べて「選挙報道」を気取っているのは、時代錯誤も甚だしい。
読者は、各党公約の突っ込んだ評価を知りたい。その評価は偏っていてもいいのだ。読者はいくつもの評価を並べて、最後は自分の頭で考えるのである。ところが、いまの新聞はどれを読んでもさして変わりはない。それで読む価値はあるのだろうか。
同じ朝日新聞のなかで、与党を支持する記者の記事と、野党を支持する記者の記事が入り乱れていい。それぞれがデータと論理性で説得力を競い合えばよいのだ。その判断は読者に委ねれば良い。ところが、そういうことは絶対に起きない。どの記事も「客観中立」の建前にのっとった差し障りのない内容にとどまっている。紙面は「読んでも読まなくてもいい記事」で溢れかえっているのだ。
一方、ネット上には新聞よりも深く広く読み応えのある無料記事がたくさん転がっている(サメタイもそのひとつです!)。これでは新聞離れが加速するのは当たり前だ。
今回の衆院選で驚いたのは、いわゆる「Dappi」問題を新聞社がほぼ無視したことだ。
Dappiとは、野党に対する誹謗中傷ツイートを乱発してきた匿名アカウントである。衆院選直前にDappiを運営するウェブ関連会社と自民党が取引関係にあることが発覚し、自民党がネット工作としてDappiを活用していた疑惑が浮上。SNSでは大騒ぎとなり、日刊ゲンダイなどの夕刊紙に加え、赤旗もスクープを出すなど「テレビ新聞以外」では大ニュースとなった。
自民党がネット世論を工作するためにこのDappiに資金をこっそり投入していたとしたら、自民党の醜悪なメディア戦略が発覚した大ニュースである。自民党の世論操作を厳しく問う責務がマスコミにはあるはずだ。いくら選挙中であっても重大疑惑を握りつぶすようでは、マスコミの存在意義はない。
ところが、この「Dappi」問題をテレビ新聞はほとんど報じなかったのである。
理由はふたつあろう。ひとつは常日頃からネットを「格下」とみて軽視していること。もうひとつは衆院選で自民党に不利なニュースを扱うのを恐れたこと。いずれにしろ、テレビ新聞しかみていない多くの有権者は「Dappi」問題を知らないまま投票所へ足を運んだ。
テレビ新聞は「客観中立」といいながら、実のところは自民党の疑惑を放置することで自民党政権を守ることに加担したのである。これこそ「無作為による偏向報道」ではないか。
野党共闘のあり方についても新聞報道はひどかった。東京8区問題では立憲民主党執行部の主張のみを垂れ流し、れいわ新選組の山本太郎代表が事前調整していたのに梯子を外された経緯は最後まで報道しなかった。「山本太郎氏が一方的に割り込んできて混乱させた」と誤解したまま投票先を決めた有権者も少なくないだろう。
立憲民主党の枝野幸男代表は「野党共闘」という言葉を使っていないと明言しているのに、新聞が一方的に「野党共闘」と繰り返し報じた結果、多くの野党支持者は枝野代表が積極的に野党共闘をリードしていると勘違いしたまま投票したことも予想される。これを「ミスリード」というのではないか。
いずれも選挙結果に大きく影響を与えた一種の「誤報」である。新聞はいったいどう責任をとるつもりなのか。
自公政権の4年間を厳しく追及することもなく、衆院選の構図を深掘りすることもなく、各党公約を主体的に評価することもなく、各党幹部の発言を瞬時にファクトチェックすることもなく、ネットで話題の重大疑惑を報じることもなく、ミスリードを繰り返して修正もせず、新聞各紙はいったい何を報じていたのだろう。選挙報道とは何なのだろう。
私は今回の衆院選で新聞各紙をくまなく読んでいないので詳細に評価することはできないが、SNSに溢れる選挙報道批判(その多くは信頼できるインフルエンサーたちによるもの)を読んでいると、今回の衆院選も従来と何も変わっていないという想像がつく。
今回は衆院解散から公示日まで最も期間が短かったこともあり、新聞は投票先を決めるために意味のある情報をこれまで以上に伝えなかったのではないか。
政治を変えるには、政治報道を変えることから始めなければならない。テレビ新聞にそれを期待するのはもはや難しそうである。個々のジャーナリストが奮起するしかない。そんな決意を新たにさせる衆院選であった。