ウクライナ政府が日本に対して、ゼレンスキー大統領のオンライン国会演説の実施を要請してきた。自民党、立憲民主党、日本維新の会など与野党の主要政党には前向きな声が広がっており、実現する可能性が強まっている。マスコミも歓迎ムードに覆われている。
でも、ちょっと待ってほしい。
ゼレンスキー大統領が「ウクライナは自国の領土を守るため国民を総動員し、武器を持ってロシア軍と最後まで戦い抜きます」「日本がロシア軍と戦うウクライナ軍とウクライナ国民を全力で支援することを望みます」と演説したら、与野党の国会議員たちは満場一致の拍手で称賛するのだろうか?
もし与野党がゼレンスキー大統領の国会演説を満場一致の拍手で称賛したら、日本はロシアと戦争中のウクライナに加担する姿勢を世界に向かってこれまで以上に鮮明に表明することになる。
これは日本列島の北に広がる核保有国・軍事大国のロシアに対する「宣戦布告」の政治的意味合いを持つ。プーチン大統領はすでに欧米や日本がロシアに対し経済制裁に踏み切ったことを「宣戦布告」とみなし、対抗措置として核兵器使用をほのめかしている。敵国認定された日本が核攻撃の対象になる可能性はゼロではない。
そのとき米国は日米同盟を理由に日本を守るために全面参戦するのか? 第三次世界大戦に発展すると言って武器を送りつけてくるだけということはないのか?
ゼレンスキー大統領の演説に賛意を示す国会議員たちに自力でロシアと戦争する覚悟はあるのか? 安全保障へのリアリティーを持っているのか? 本気で「参戦」するのか?
これは戦争なのだ。
日本はすでにウクライナ政府に対し防弾チョッキやヘルメットなど防衛装備品を支援している。米軍機に載せてウクライナに送るのである。
ロシアは武器を支援するためウクライナ上空に入った欧米の輸送機への攻撃を警告している。防衛装備品の支援といえどもロシア軍との戦闘に使う以上は武器支援だ。当初はヘルメットを支援していたドイツはウクライナ側からの不満を受けてミサイル供与に踏み切った。日本の武器支援もずるずる拡大していく恐れは強い。
米国の軍需産業はウクライナへの武器輸出で潤ってきた。経済制裁による原油高は米国のエネルギー産業の追い風だ。欧州は自らの軍隊を派遣せずウクライナを「盾」にしてロシアの西方拡大を食い止める安全保障上の利益がある。だからウクライナ政府に武器を支援してウクライナの人々を戦わせているのだ。
そこへ「参戦」するメリットが、日本にどのくらいあるのだろう。単に欧米に追従してロシアを敵に回し軍事的脅威を高めるだけではないのか?
日本が武器支援をふくめて一気にウクライナ政府への加担に傾いたきっかけは、ロシア軍のウクライナ侵攻を非難するとともに、「ウクライナ及びウクライナ国民と共にある」と宣言した国会決議だった。
ロシア軍のウクライナ侵攻を政治的に非難するのはいい。当然である。しかし「ウクライナと共にある」というのは戦争当事国の一方のウクライナ政府に全面的に加担するという国際的宣言である。ロシアが「宣戦布告」とみなして日本を「敵国」に認定する口実を与えてしまった。
ロシアとの戦争を遂行するウクライナ政府を支持・支援することと、戦争に巻き込まれて生命の危険にさらされているウクライナの人々に寄り添うことは、まったく別の話だ。国民総動員令を出して18歳〜60歳の男性の出国を禁止し戦争に駆り出すゼレンスキー大統領への支持・支援と、ウクライナで戦争に巻き込まれる人々(とりわけ武器を持って戦いたくないのに国民総動員令によって国外脱出の自由を奪われている人々)への支持・支援は明確に区別しなければならない。
日本がウクライナ政府に届ける防弾チョッキは、愛国心に燃え武器を手にロシア軍に立ち向かうウクライナ青年だけではなく、武器を持って戦いたくないのにウクライナ政府に命じられ、「お前は戦わないのか」という戦時下の同調圧力に抗えず、泣く泣くロシア軍に向かっていくウクライナ青年にも、機関銃と共に配給される。そこへ思いが至らないのは、戦時社会に対する想像力をあまりに欠いている。
戦前日本の若者たちが特高警察の監視や社会の同調圧力にのみこまれて戦地に駆り出され、補給を絶たれたジャングルで飢え、特攻隊として出撃を命じられ、厳冬のシベリアへ連行され、次々に命を落としていった自国の歴史から、私たちは何を学んだのだろうか。
日本は第二次世界大戦を引き起こした「敗戦国」の立場からあくまでも平和を追求し、ウクライナで暮らす人々の基本的人権を守る立場から即時停戦を求め、人道支援に全力をあげる姿勢を宣言する国会決議にとどまるべきだと私は考えていた。しかし実際の国会決議は武器を持って徹底抗戦するウクライナ政府への加担を鮮明にし、戦争の一方の陣営に全面的に肩入れする内容となった。
そしてこの国会決議に反対したのは、衆院3人・参院2人の新興勢力であるれいわ新選組だけだった。自民党も公明党も日本維新の会も国民民主党も立憲民主党も共産党も戦争当事者の一方に全面的に肩入れする国会決議に賛成したのである。
そしてれいわ新選組は右翼からも左翼からもリベラル勢力からも「ロシアの味方をするのか」と批判が殺到しバッシングされたのだった。「ロシア軍の侵攻は断固非難する」「それでも人道支援に徹し、戦争当事者の一方に与するべきではない」との説明は黙殺され、一方的に「ロシアの味方」のレッテルを貼られ、叩きまくられたのである。
遠く離れたウクライナの地を舞台とした戦争でこれほど全体主義が広がるのだから、日本周辺を主戦場とした戦争が勃発したら、いったいどうなることだろう。想像するだけでおそろしい。
私は現代日本に戦前の大政翼賛会のような全体主義が着実に忍び寄っていることを確信した。この国会決議に立憲民主党や共産党まで賛成したことに失望した。唯一反対に転じて全体主義に抗ったのは弱小の新興勢力で「ポピュリズム」と揶揄されてきたれいわ新選組だったことに衝撃を受けた。日本の国会は根っこから腐りきっていると実感した。れいわを除く与野党こそポピュリズムであり全体主義ではないか。
とくに国家権力に弾圧された歴史を持つ共産党はそれで良いのか? あらゆる戦争ーー国際紛争を解決する手段としての武力の行使ーーに断固反対の立場ではなかったのか? 全体主義に対して先頭に立って抗うことこそ、戦争の厳しい現実を体感した共産党に期待される重大な使命ではないのか?
ゼレンスキー大統領の国会演説は「れいわ新選組を除く全会一致」の国会決議の延長線上にある。
安倍晋三元首相ら自民党はマスコミとともに「ロシア=悪・ウクライナ=正義」の善悪二元論をふりまき、ロシアや中国の軍事的脅威を煽って、憲法9条に自衛隊を明記し、緊急事態条項を新設する改憲を今夏の参院選の一大争点に掲げる狙いである。ゼレンスキー大統領の国会演説は世論喚起の起爆剤となるだろう。
さて、国会決議に賛成した立憲民主党や共産党はどうするつもりだろう。今夏の参院選で「改憲反対」を掲げて戦えるのだろうか。
立憲民主党の泉健太代表は当初、ゼレンスキー大統領の国会演説について「他国指導者の国会演説は影響が大きいだけに、オンライン技術論で論ずるのは危険」とツイートした。「私は日本の国民と国益を守りたい」「演説内容もあくまで両国合意の範囲にすべき」との考えも示していた。
泉代表は「野党は批判ばかり」との批判に怯え、政府・自民党に接近する連合の顔色をうかがい、極めて不鮮明な政治的主張を重ねてきた。その割にはゼレンスキー大統領の国会演説にはいちはやく慎重論を掲げた。辛うじて一歩踏みとどまった姿勢に私は一定の評価をしていた。
ところが、である。ネットに「ロシア寄りなのか」「ゼレンスキーが訴えたいことをまずは聞くべきだ」との批判が噴出すると、泉代表は「実施が前提。自民党と立憲民主党は『実施』の方向で調整を進めている。立憲民主党が反対している事実もない」と早くも態度を一変させたのだ。
情けない。このような野党第一党のリーダーは誰からも相手にされないだろう。
立憲民主党内にはそもそもゼレンスキー大統領の国会演説への積極論が強かった。馬淵澄夫国会対策委員長は自民党との間で実現を視野に協議を始めていた。「批判ばかり」との批判を人一倍気にする泉代表に慎重論を貫く意思も政治基盤もなかったというほかない。
立憲民主党が「ウクライナと共にある」という国会決議に賛成したことも、ゼレンスキー大統領の国会演説を真正面から拒みにくくなったことの一因ではないか。国会決議で自らの手足を縛ってしまったといっていい。だからこそ国会の全体主義・全会一致には慎重にも慎重を期さなければならなかったのだ。
ちょっと話が飛ぶ。
大日本帝国が国家総動員法に基づいて太平洋戦争を遂行している最中の東京にタイムスリップしよう。
帝国議会に野党は存在しない。全政党が戦争を遂行する日本軍を支持する大政翼賛政治である。マスコミは諸手をあげて戦争遂行を掲げている。だが、日本列島には米軍機の空爆が始まった。空襲警報の回数が増えてきた。物資は不足し、配給も滞ってきた。この戦争はどうみても勝てそうにない。
私は二十歳。戦争に行きたくない。自分は死にたくないし、人を殺したくもない。武器を持って戦いたくはない。どこか遠くへ逃げ出したい。でも、日本政府は法律に基づいてを根拠に私を日本軍に招集した。ついに赤紙が届いた。さて、どうする?
赤紙を破り捨て、どこか山奥へ身を隠したら、日本軍部や特高警察が追いかけてくる。身柄を確保されたら拷問が待っているだろう。それは私というよりもこれから日本軍へ招集する予定の若者たちへの見せしめだ。
後に残った家族は周囲から「売国奴」「非国民」の罵声を浴び、たちまち居場所を失うに違いない。「愛国心」を掲げてすべてを戦争に費やすことを強要してくる極右過激派からは罵声だけでなく襲撃という形の仕打ちを受ける恐れもある。過激派の横暴を警察は黙認するのだ。
大日本帝国の法律にとどまらず、日本社会に醸成された同調圧力にのみこまれ、私には赤紙を破り捨てる自由はない。「お国のため」と自らに言い聞かせ、敗戦濃厚な戦地へ赴くのだ。
このような現実が私たちの国で約80年前に繰り広げられた。マスコミは庶民の本音を伝えることなく、日本軍や極右過激派に同調して「愛国心」を煽り、「戦死」を美化したのだ。
日本軍が「鬼畜米英」と叫ぶ米英軍に日本列島が占領されても、武器を持って抵抗しない限りは拷問を受けたり飢え死にさせられたりすることはない。日本国民の多くはそのような事実を知らされていなかった。むしろ鬼畜米英に占領されたら家族の身を含めてどうなるかわからないと吹き込まれ、本土決戦の覚悟を強いられたのである。
誰とも戦いたくはない若者たちにとって、海の彼方から攻めてくる米軍以上に恐ろしい存在は、私たちの生活空間で跋扈している日本軍の軍人であり、権力を振りかざす日本の特高警察であり、愛国心を強要してくる極右過激派だった。大日本帝国の国家権力の前に、多くの国民は沈黙し、若き命を泣く泣く差し出したのだ。
戦後日本の学校教育は、原爆投下をはじめ日本の「戦争被害」ばかりを教え、アジアに侵略した「戦争加害」をしっかり教えなかった。そして、アジア諸国への「戦争加害」以上に教えなかったのは、大日本帝国という国家権力が自国民に加えた「戦争加害」である。戦争に反対、あるいは、戦争への協力を拒む人々を、国家権力は容赦なく弾圧したのだ。
敵国よりも怖いのは暴走する自国の国家権力と国内に跋扈する好戦的な過激派であるーー泥沼化した戦時下においては、大日本帝国に限らずどの社会でも同様のことは起こり得る。ウクライナも例外ではない。それが戦争というものだ。私たち人類の度重なる戦争の苦難の歴史がそれを証明している。
だからこそ、戦争を遂行するウクライナ大統領への支持・支援と、戦争に巻き込まれるウクライナの人々への支持・支援は厳密に区別しなければならない。れいわ新選組をのぞく全会一致で採択された国会決議はやはり一線を超えるものだった。
私たちが寄り添うべきは、戦争を遂行するウクライナの大統領ではなく、戦争に巻き込まれるウクライナの人々なのだ。
国家権力が暴走して国民の命を奪った先の大戦の真の姿を凝視し、国家権力の暴走を許した失敗を心から反省し、二度と戦争を引き起こさないと強く決意し、何よりも基本的人権を尊重して守り抜くことを誓った日本国憲法の意味を深く理解していないからこそ、大多数の与野党国会議員は戦争を遂行する一方の国家に加担する国会決議に安易に賛成してしまったのだ。いちから日本国憲法を学び直したらどうか。まずは憲法前文を読めば良い。あの国会決議に賛成した国会議員たちが唱える「護憲」など信用できようか。
最後に私が日本国憲法のなかで最も重要だと考えている憲法97条をここに掲げたい。
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
日本国憲法は、国家権力から日本国民を守るために作られた。97条は、国家権力が国民の基本的人権を侵すことは永久に許されないと宣言した条文である。自民党の改憲草案はこの97条を削除している。
共産党・田村智子をウクライナへの軍事支援で迷走させた「ロシア非難決議」への賛成〜日本の国会にしのびよる全体主義