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朝日新聞社が吉田調書報道の危機管理に失敗した背景には慰安婦問題があった〜『朝日新聞政治部』への感想コメントに答えます

新刊『朝日新聞政治部』は大反響をいただいて、発売日(5月27日)からネット書店では品切れになってしまいました。6月2日に品切れが解消して再開したとたん、再び注文殺到で品切れになってしまったようです。みなさまにご迷惑をおかけしています。(※6月3日正午前時点で再び「在庫あり」に戻りました)

最寄りのリアル書店にはまだ在庫があるところが多いようです。電子書籍はいつでもご覧いただけます。

単行本または電子書籍をお読みいただいた方から感想コメントをお待ちしています。私がすべてに目を通してできる限り回答したいと思っています。感想コメントは以下のボタンをクリックしてお寄せください。

きょうは本書で詳細を記した吉田調書事件の経緯について「全部アベのせいだBot」さんからいただいた質問についてお答えしたいと思います。多少トゲを感じる質問でしたが、私としては誠実に対応いたしました。

この質問は、朝日新聞社が当時公表した第三者委員会の報告書と私が本書で示した見解の「齟齬」に関するものです。

私は本書で詳報したとおり、吉田調書報道の担当デスクとして第三者委員会の事情聴取を最も長く受けた当事者でした。この第三者委員会は大学教授、元裁判官、メディア関係者(NHK出身者)の外部委員3人で構成され、彼らが私を直接聴取したこともありました。

しかし事情聴取の大半は、朝日新聞社員が務める事務局によるもので、報告書のベースは朝日新聞社の事務局が作成したのは間違いありません。大学教授ら有識者を集めた政府の審議会の報告書を実は官僚が下書きしているのと似ていますね。

第三者委員会というものは往々にしてその事務局を担う組織(政府や企業)の意向に沿った報告書しかまとめることができないものであろうということを私は「被告席」に立たされた当事者として改めて痛感しました。

その結果として、私が第三者委員会の事情聴取で最も強く主張した部分は、報告書にはほとんど反映されませんでした。報告書は当時の木村伊量社長が2014年9月11日の記者会見で発表した内容に沿ってつくられ、5月20日の第一報に至るまでの検証に終始し、そこから9月11日に木村社長が記事の取り消しを突然発表するに至る過程については黙殺したのです。

私は第三者委員会の聴取に対し、①第一報の記事は取り消すほどの問題はないにしろ配慮に欠けた表現があったと指摘されてもやむをえない部分があったことを認めたうえで、少なくとも記事出稿に伴う結果責任は記事を執筆した記者二人ではなくデスクである私にあるーーと伝えました。

そのうえで②私たち取材班は第一報直後に読者の理解を得るために第一報を補足・修正して報道目的を丁寧に説明する特集紙面をつくることを提案し、編集局長の了解を得たものの、社長周辺の経営陣による危機管理チームが「社長が意欲を示している新聞協会賞申請に水を差す」などの理由でそれを先送りした経緯をはじめ、会社上層部の危機対応の失敗が傷口を広げて最終的には歴史的スクープ全体の取り消しに追い込まれてしまったことを強く訴えました。

ところが第三者委員会は、私がデスクとしての結果責任を認めた①だけを採用し、経営陣の危機管理の失敗を問う②は黙殺してしまったのです。その意味で第三者委員会の報告者は極めて不十分であったと私は考えています。

さらには木村社長が自らが矢面に立っていた過去の慰安婦記事取り消し問題や池上コラム掲載拒否問題ではなく、自らが直接関与していなかった吉田調書問題を引責辞任の理由とし、当面は社長職にとどまることで後継社長を指名し、影響力を残そうとした経緯の是非についても、第三者委員会はまったく検証することはありませんでした。

第三者委員会はそもそも経営陣の危機管理対応を含めた全体像を検証するつもりがなく、吉田調書報道の第一報に至る経緯のみを追及して取材班を断罪する目的で設置されたといえましょう。結論ありきの調査だったというほかありません。

第三者委員会の報告書は、朝日新聞が凋落し、新聞界全体が権力批判に萎縮することになったメディア史に残る重大事件の検証としては、極めて不十分な内容にとどまりました。私が『朝日新聞政治部』を執筆した動機の一つは、一連の事件の再検証なくして新聞ジャーナリズムの再建はありえないと考えたことでした。

当時の木村社長が最も力を注いでいたのは、過去の慰安婦記事の取り消し問題でした。木村社長はなぜあの時期に慰安婦記事の取り消しに動いたのか。そしてどこで何を間違えたのか。

当時の経営陣の対応には慰安婦問題への対処を中心に「闇」が残っています。私はその「闇」から目を逸らすために吉田調書報道が「人身御供」にされたと感じています。この「闇」を照らし出すことが一連の事件の本当の解明には不可欠です。一連の事件の本丸はここにあるのではないでしょうか。

そのうえで「全部アベのせいだBot」さんの3つのご質問にお答えしましょう。

a.初報の記事掲載に至るまでに吉田調書を読み込んだのは2人の取材記者のみで、デスクである鮫島氏は調書を読んでいない(少なくとも精読はしていない)

回答:記者二人が入手した政府の極秘資料は膨大なものでした。吉田調書だけでA4版400ページを超える分量です。しかも「聴取記録」ですから一般の人が読んでもすぐに頭に入る内容ではありません。私もこれをすべて精読して理解するには膨大な時間と労力がかかると思いました。

記者二人は2011年の福島第一原発事故以降、東京電力への取材を重ね、その隠蔽体質を追及し、スクープを重ねて早稲田ジャーナリズム大賞の奨励賞を受賞していたベテラン記者でした。彼らは吉田調書を独自入手した後、数ヶ月にわたってこの取材に集中し、調書全体を読み込みました。

取材班が入手した資料の現物を担当デスクが自らどこまで精査すべきかは、ケースバイケースの判断だと思います。私は今回のケースでは記者二人の専門性や実績を重視し、基本的には二人の判断を尊重することがふさわしいと判断しました。

もちろん私は報道前に調書にまったく目を通していなかったということではなく、記者二人のレベルで調書全体をくまなく精読はせず、基本的に二人の読み解きを尊重したということです。そのうえで二人が執筆した原稿については吉田調書の該当部分を踏まえて第三者の目で監修して記事を出稿しました。

こうした出稿に至る経緯については担当デスクである私の責任で判断したことであり、そこに問題があったとすれば、それはひとえに私の責任です。ただし、私はこのプロセス自体にはそれほど大きな問題はなかったと考えています。ここはデスクという仕事をどう位置付けるのかという考え方の問題でしょう。

吉田調書には歴史に残すべき論点がたくさんあり、第一報はキャンペーン全体の一部にすぎず、膨大な調書を次々に記事化していく予定でした。実際に第一報とは違う切り口の記事もたくさん報道されています。その膨大な取材にあたり、取材班をもっと拡張させるべきだったのではないかーーとの疑問も多数寄せられました。この点については本書で詳しく述べていますのでぜひご覧になってください。

b.取材チームは現場の所員に一切取材していない。つまり、いわゆる「裏取り」が一切なされていない。

これについては本書第六章『吉田調書報道の「小さなほころび」』でかなり詳しく説明しました。ぜひご覧ください。

c.初報の記事掲載前から、社内でも「命令違反」「撤退」といった表現に対する懸念が示され、検証のために調書の開示を求める声があったが、鮫島氏が拒否した。

少なくとも担当デスクである私のところへ社内の正式ルートで「懸念」が示されたことはありません。唯一「懸念」を内々に示してくれたのは、特別報道部の同僚記者でした。私はそれを踏まえて第一報後に、報道目的などを詳しく説明する特集紙面づくりを提案したのですが、それが経営陣の判断で却下されたのは先に述べたとおりです。

記事掲載当日に担当デスクである私に社内の各部署から正式ルートで「懸念」が示され、私がそれを拒否したというのは、私の認識とは食い違います。そもそも私は社内のどの部署からも「懸念」を伝えられたという認識もそれを受けて私が拒否したという認識もありません。

しかも「命令違反」「撤退」はタイトルに直結する重要問題であり、最終的には記事を出稿したデスクである私の一存では決まりませんし、その「懸念」を拒否する権限もありません。本来「懸念」を伝えるべき先は担当デスクではなく、編集局長や当番編集長(編集局長補佐)であり、彼らの権限で決定すべきことなのです。拒否権を持たない私が拒否したという記述自体が論理矛盾です(ちなみに記事を出稿したデスクにはタイトルをつける権限もありません)。

第三者委員会は具体的に誰がどのルートでどのような「懸念」を私に示したのかを具体的に明確にしてもらいたいと思います。もし「懸念」を伝えたという人が特別報道部の同僚以外にいるのなら、ぜひ名乗り出てもらいたいと思います。なぜそれが私のもとへ届かなかったのか(少なくとも私には「懸念」を示されたという認識がない)、その人はなぜ、紙面の最終責任者である編集局長や当番編集長へ「懸念」を伝えなかったのか。そのプロセスを詳しく再検証する必要がありますね。第三者委員会がそこを明確にできないのなら、そもそも「懸念を伝えたが拒否した」という事実関係があやしくなります。

むしろ当時の朝日新聞社内は記事に対する賞賛の嵐に包まれ、記事掲載から1ヶ月半後に朝日新聞社として吉田調書報道を新聞協会賞に申請したあり様は本書で詳しく記したとおりです。

以上、本書において吉田調書報道を詳しくとりあげたのは、朝日新聞社の経営陣による危機管理の失敗が傷口を広げて会社全体を凋落させ、新聞ジャーナリズムを萎縮させる最大の原因であったのに、経営陣はその事実を伏せてすべての責任を取材班に押し付けたという事実を伝えるためです。経営陣がなぜそのような判断に至ったのかも本書で詳報していますので、ぜひご覧ください。

経営陣が的確な危機対応を迅速に行っていたならば、吉田調書の歴史的スクープは後世に残る第一級の調査報道として評価されていたでしょうし、新聞ジャーナリズムがここまで萎縮することもなかったと思うと私も残念でなりません。当時の経営陣ら危機対応にあたった幹部たちにはいまなお要職にとどまり、巨大組織のなかで平穏な日々を送っている人もいるのです。

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