朝日新聞一面の題字下にあった「本日の編集長」という記載が7月から消えた。ほとんどの読者は気づかなかっただろうが、これにまつわる話をきょうは書きたい。
この「本日の編集長」の記載は昔からあったものではない。私をはじめ何人かが10年ほど前に編集幹部に強く訴えて導入されたものだった。その狙いは、読者に対して「きょうの紙面の責任者」を明確に示すことで紙面づくりにリーダーシップを発揮するよう促すことにあった。
朝日新聞紙面の最終責任者は編集局長(ゼネラルエディター)である。だが、編集局長が毎日、すべての紙面を隅々までチェックして責任を追うのは時間的にも体力的にも困難だ。そこで編集局長のもとにいる数人の局長補佐(かつての局次長)が日替わりの当番で「本日の編集長」を担う。もちろん最終責任者は編集局長であり重要な判断は編集局長が下すのだが、「今日の一面トップはこの記事にする」「この記事の見出しはこうする」といった日々の決定は原則として「本日の編集長」に委ねられている。
私は政治部や特別報道部のデスクを歴任したが、朝日新聞の編集過程でつねに不満だったのは「権限と責任の所在」があいまいなことだった。デスクが記事を出稿した後、編集局内のさまざまな立場の人々が「この記事は一面に載せるべきではない」「この記事は根拠が弱い」などと口を出してくる。結局、誰が最終判断を下して結果責任を負うのかがぼやけたまま、なんとなく、記事が無難な内容に落ち着いていくのである。誰も最終責任を負おうとせず、リーダーシップがまったく発揮されないのだ。典型的な官僚組織であった。
降版までの限られた時間のなかで議論を尽くすことは不可能であり、誰かがどこかの時点で最終決定しなければならない。私はデスク時代、自分の主張と異なる決定が下された時はいつも「最終的に決めたのはどなたですか。結果責任を負うのはどなたですか」と意思決定の責任者を入念に確認し、その氏名を取材班に周知したうえで引き下がることにしていた。そのたびに編集幹部たちには嫌な顔をされたものだ。朝日新聞に限らず、この国の組織は「責任の所在」を明確にすることを実に煙たがるのである(責任を取りたくないのなら口を出さなければよいし、責任あるポストに就かなければよいと思うのだが)。
そこで、いっそのこと「責任の所在」を紙面に明確に掲げてしまおうというのが、「本日の編集長」を一面の題字下に明記するという提言のはじまりだった。当時の編集局長はさっそく採用し、さほどの困難なく実現した。彼も会社組織を覆う「責任の所在をぼかす」空気に違和感を抱いていたのだろう(私は「本日の編集長」のメールアドレスも記載して読者の意見を直接受け付けるように主張したのだが、これは採用されなかった)。
しかし、結果として、この試みはあまり機能しなかった。多くの「本日の編集長」は自分の名前が一面の題字下に記載されることで自尊心を満たすことはあっても、それが「責任の所在」を示すものであるという自覚に欠けていたようだ。最終責任を追うのは編集局長であり、自らは「局長補佐」として各部の間で記事の扱いを調整する役割に過ぎないという認識しかなかったようである。「本日の編集長」が自らの責任でリーダーシップを発揮し、オリジナルあふれる紙面を編成するには至らなかった。
これは記事末尾の「記者の署名」に似ている。本来は読者に対して執筆者の「責任の所在」を明確に示すものなのだが、「記事を書いたご褒美」と思っている記者は少なくない。記事の最終責任を負うのはデスクやキャップであるという認識なのだろう。
それを象徴するのが、ひとつの記事の末尾にずらりと署名が並ぶ場合である。いったいどの記者に「責任の所在」があるのか皆目見当がつかない。「責任」が分散してあいまいになっているのだ。いったい何のための署名なのか。
はなしを「本日の編集長」に戻す。私がこの記載がまったく無意味だと確信するに至ったのは、福島原発事故をめぐる吉田調書報道が取り消される「事件」の渦中に身を置いた時だった。第一報は2014年5月20日朝刊に掲載された。朝日新聞社はこれを高く評価し、7月に新聞協会賞に申請したのだが、8月に入り直接関係のない慰安婦報道や池上コラム問題で世論の批判を受けると姿勢を一変させ、9月に吉田調書報道を取り消して関係者を処罰すると発表したのである。
私は特部報道部デスクとして吉田調書報道を担当した。この報道の是非についての私見は以下の記事にまとめたので参照にしていただきたい。
きょう問いたいのは、吉田調書の第一報の責任者であった「本日の編集長」についてである。結論を言うと、記事取り消しを受けて更迭・処分されたのは、編集担当役員、編集局長、特別報道部長、特別報道部次長(私)、執筆記者2人であった。「本日の編集長」であった局長補佐は処分を免れたのだ。
私はこの「本日の編集長」が実際の吉田調書報道にあまり関与していないことを知っている。彼が余計なことには口出ししない温厚な人物であることも知っている。しかし、「本日の編集長」というポストは記事への関与具合にかかわらず、結果責任を負うためにあるのではないのか。「責任の所在」を明確に示すために「本日の編集長」を記載していたのに、一面トップの記事を取り消しながら「本日の編集長」が「結果責任」を負うことなく「無罪放免」というのは、意味不明である。
やはり朝日新聞の多くの人々にとって「本日の編集長」は読者に対して責任の所在を明記するものではなく、「よく頑張ってるね、ご苦労さん」という内向きの「ご褒美」に過ぎなかったとしか思えない。
ジャーナリズム史に残るあの事件で「本日の編集長」を処分対象から外した時点で、一面題字下の記載は意味を失っていた。朝日新聞はあれから7年間も一面題字下に無駄な記載を続けてきたのである。
そのうえで、朝日新聞が7月1日朝刊で「本日の編集長」の記載をやめることを伝えた「おことわり」を読んで、私は、暗澹たる気持ちになった。
おことわり 本日の朝刊から、題字下の「本日の編集長」の記載をなくします。デジタル化が進むなか、多様なニュースを紙面やデジタルで多角的に発信する際、複数の編集者が連携して対応するケースが増えたためです。編集の責任者をゼネラルエディター=現在は坂尻信義=が担うことに変わりはありません。
ここでいう「複数の編集者が連携して対応する」ことで「権限と責任の所在」はいっそうぼやけるだろう。そのような新聞社の姿は「すべての責任は大臣にある」といいつつ、大臣も官僚も責任を取らないこの国の役所と瓜二つである。