政治を斬る!

SEALDsバッシングを「なんとなく」振り返って記事にしてしまった朝日新聞記者にみる「傍観報道」という根深い病理〜批判を恐れて客観中立の建前に逃げ込むな!

このところすっかり存在感を失っていた私の古巣・朝日新聞が大型連休中、久しぶりにSNSで話題を集めている。『「隠したい」元SEALDsの過去 若者の声を封じるものは』というタイトルの記事がネット上を飛び交っているのだ。

SEALDs(シールズ)は2015年、安倍政権が集団的自衛権行使を認める安全保障関連法案の整備を進めるのに反対して国会前や街頭でデモ活動を繰り広げた学生団体である。

若年世代の政治離れが指摘されるなかで学生たちが政治的主張を掲げて久々に立ち上がった動きとしてマスコミの注目を集め、野党も連携に動いた。これに対して、安倍支持層などからは激しい反発の声もあがり、大きな社会現象となった。

今回の記事は、SEALDsのメンバーとしてデモに加わった男性が当時を振り返り、「声を上げた自分は誇り」と思いつつ、就職した今は市民運動から身を引いていることを紹介。男性がデモに加わった過去を「隠したい」と吐露する様子を伝えている。記事には記者の署名はなかった。

この記事が、かつて朝日新聞に期待していたであろうリベラル言論人たちにすこぶる評判が悪い。冒頭に「朝日新聞が久しぶりに話題を集めている」と述べたのは「悪い意味で」ということなのだ。

朝日新聞はデジタル記事を原則有料化してしまったので全文を紹介できない。しかも発行部数が400万部を割るなかで購読料を大幅アップして読者離れが加速している(『朝日新聞がまた値上げ!異例のハイペースの500円アップで月額4900円に〜購読料を払う一般読者よりも新聞広告を出す政府に依存する経営がより鮮明に』参照)。

高額の新聞広告を掲載してくれる政府や自治体、大企業を持ち上げる記事が目立ち、批判精神を失って世論から見向きされないほど影響力は落ちた。バッシング(批判)からパッシング(無視)へ、世の中の朝日新聞への接し方は変貌している。

そのなかで学者や作家、弁護士らリベラル言論界を代表する識者たちがこの有料記事をあえて批判するのは、朝日新聞にかすかな期待をなお抱き、講読料を支払っているからであろう。いくつかツイートを紹介しよう。

この記事の評価は上記の人々に譲るとして、私が注目したのは、近年の朝日新聞上層部による社内統制の強化を受けて、差し障りのないSNS発信ばかりが目立っていた朝日新聞記者たちから、今回はちらほらと踏みこんだ発信がみられることである。

なかでも目を引いたのは、東京社会部の伊木緑記者のツイートだった。私は彼女と面識はないが、プロフィール欄ではスポーツ部にも所属したことがあり「なんでも取材します」「5歳児と暮らしている」と自己紹介している。

彼女は「市民運動や街頭での抗議は無力だという前提に沿って取材したんだろうな…と思ってしまった」と記事の根幹に疑問を呈し、「そして報道こそが『冷笑』を率いているのだと再認識した」と厳しく批判して「私には『敗北』だったとはとても思えません」と言い切っている。朝日新聞が社員記者の社外発信を厳しく管理するなかで、言葉を選びながらも、記事に対する強烈な違和感を最大限打ち出したといえるだろう。

これに対し、大阪社会部の大瀧哲彰記者が「筆者です」と名乗り出て反論するツイートを寄せた。「私も当時、路上で声を上げました。国会デモにもいました。市民運動が無力なんて思いません(過去の自分を否定することなので)」と記し、自らも学生時代にデモに参加していたことを吐露して「市民運動に冷たい目線を送るのは誰か、気持ち悪い空気の所在はどこか。『なんとなく』形にしたと思っています。市民運動に期待するからこそです」と思いを綴っている。

私は大瀧記者とも面識がない。SEALDs時代に学生だったとしたら、かなり若手の記者であろう。

彼はプロフィール欄に「北海道→広島県→三重県→大阪府」と勤務地を移り「原爆、戦争、原発、エネルギー、在日コリアン、ヘイトスピーチ」に関心があると記している。決してSEALDsの運動を否定したいわけではなく、路上で声をあげる政治活動に多くの人々が尻込みする社会的要因を探ることに取材の主眼があったのは疑いない。

彼の思いが伝わらず、多くの著名なリベラル言論人から酷評されたのはなぜか。

彼の表現力に未熟な部分があったとしても、いちばんの要因は、若手記者から記事を受け取った社会部デスクをはじめ編集幹部たちの「さばき方」にあったと私は確信している。

SEALDs現象のような政治問題に対する読者の受け止めはさまざまだ。だからこそ「客観中立」という新聞社の嘘くさい建前に逃げ込んで執筆すると何を伝えたいのかわからない記事になってしまう。ここは批判覚悟で記者自身の問題意識を前面に掲げる「主観報道」に挑まないと誰の共感も呼ばない。

しかも筆者自身がデモに参加した当事者としての経験を持つのだ。朝日新聞の編集幹部たちはこの記事に「大瀧哲彰」の署名をつけ、その代わりに彼の体験に裏打ちされた問題意識や主張を前面に打ち出すべきだった。そこにこそ、署名記事の意味がある。

朝日新聞は、誰が書いても同じような一面の発表記事にはまるで記者へのご褒美かのように署名をつけるのに、今回のように賛否を呼ぶ内容の記事では署名を外すことが多い。その理由は「記者を批判から守る」ことになっている。

本当のところは違う。記者個人の「主観」が前面に出ることで「社としてはどう考えているのか」と問われることに怯え、なるべく傍観的で無難なトーンに記事をまとめる「事なかれ体質」が編集局長や部長、デスクら上層部に蔓延しているからだ。

大瀧記者の素直なツイートをみると、彼自身にも会社の「責任回避体質」が早くも染み付いてしまっていることがうかがえる。

大瀧記者は自らデモに参加した経験があるのに、他人の口を借りて「市民運動への冷たい目線」や「気持ち悪い空気の所在」を「なんとなく」記事にしたのだった。

なぜ「私も当時、路上で声を上げました。国会デモにもいました。市民運動が無力なんて思いません」という自分の体験を記事の前面に掲げ、当事者の一人として訴えなかったのだろうか。

なぜ「市民運動に冷たい目線を送るのは誰か、気持ち悪い空気の所在はどこか」という問題意識を「なんとなく」形にしてしまったのか。「市民運動に期待する」のなら、なぜ自分の体験を吐露したうえで、「なんとなく」ではなく、自らもデモに参加してきたことを打ち明けて「明快な」論調を堂々と展開しなかったのか。

答えは明らかだ。編集局長や部長、デスクらが自分たちの責任を回避するために踏襲してきた「客観中立」という「悪しき保身の慣習」に、若手記者の彼がすでにのみこまれているからである。その結果、当事者とは一線を画して傍観的な立場から中立的に記事を書くことが唯一の正しい記者の在り方であると思い込んでしまった。

記事は渾身の思いで、不退転の覚悟で書くものだ。「なんとなく」では読者に思いは伝わらない。自らの立場を鮮明にしたうえで、論理とデータで説得力を増すように努めるのが、記者のあるべき姿である。「自分たちは客観中立である」という安全地帯に逃げ込み、傍観的な姿勢で書く記事ほど心に響かないものはない。

自らの記事への批判は、自らが全身で浴びればよい。それが記者という職業である。

大瀧記者は、保身にまみれた編集局長や部長、デスクらと違って、まだ間に合う。記者の原点に立ち帰って志を貫徹してほしい。

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