衆院選を目前に控えた東京8区をめぐる立憲民主党の枝野幸男代表とれいわ新選組の山本太郎代表の確執。
枝野氏が主張するように山本氏は事前調整なしに一方的に出馬表明に踏み切ったのか。それとも山本氏が主張するように事前調整を経ていたのに枝野氏が党内をコントロールできていないのか。
真相はそのうち判明するだろうが、いちばん大事な時期に野党共闘のゴタゴタをさらけ出した最大の責任は、野党共闘のリーダーである枝野氏にあるというのが私の見解である(昨日の記事を参照いただきたい)。
東京8区騒動で問われているのは山本太郎ではない。野党共闘のリーダーである枝野幸男だ!
きょうは東京8区騒動を伝えるマスコミの政治報道について論じたい。
10月9日夜に配信された朝日新聞デジタル『立憲・枝野氏も、れいわ・山本氏も「困惑」 東京8区出馬宣言で応酬』を題材に考えてみよう。すこし長いが、全文を引用する。
立憲民主党の枝野幸男代表は9日、れいわ新選組の山本太郎代表が次期衆院選で東京8区から立候補をすると発表したことに関し、「困惑している」と記者団に語った。同区で擁立していた立憲新顔の吉田晴美氏について「国会で仕事をさせたい」と述べ、候補者の一本化に向けて対応を検討する考えを示した。
山本氏は8日夜、東京8区からの立候補を表明。「調整しないとこんなことできない」とし、立憲側と一本化へ向けた調整が進んでいることを強調した。
これに対し、枝野氏は記者団に、山本氏と吉田氏がこのまま競合すれば「自民党を喜ばせるだけだ」と話した。そのうえで「吉田氏に議員として仕事をさせ、自民に漁夫の利を得させないように何とかいい知恵が出せないか、模索している段階だ」と語った。
同選挙区では、それぞれ候補者を擁立していた立憲、共産両党の間で、吉田氏で一本化する方向で調整が進んでいた。突然、山本氏が参戦してきたことに地元の支援者らが不信を募らせており、山本氏への一本化に抗議する街頭活動やツイッターの書き込みも広がっている。
吉田氏を「救済」するには、比例ブロックで名簿上位に掲載する方法が考えられるが、立憲幹部は「他の議員との関係もあり簡単ではない」と苦慮している。
一方、れいわは9日、東京都江東区で支持者を集めた衆院選の総決起大会を開いた。その中で、山本氏は枝野氏の発言について「『困惑している』って、枝野さんが言っているが、一番困惑しているのは私だ。(立憲の)党内はどうなっているんだという話だ」と批判した。
山本氏は「事前に話し合っていたにもかかわらず、決定していたにもかかわらず、もめ事として表面化してくる。関わる政党がしっかりと整理できていないのは、党内のコントロールができていないと見るのか、それとも『はしご外し』なのか」と主張した。
その上で「状況に合わせていきながら、戦い方を変えていくことも考えていかなければならない。最終的な決断が変わっていく可能性があるときに、すぐに伝わるような形でメッセージをしていく」と支援者に説明。他党との調整次第では、東京8区からの出馬について再考することにも含みを持たせた。
これはマスコミに横行している典型的な「両論併記」の政治報道である。『立憲・枝野氏も、れいわ・山本氏も「困惑」 東京8区出馬宣言で応酬』というタイトルからして両論併記だ。
読者は「どっちもどっち」の印象を抱くだろう。いや、枝野支持層は「枝野氏が正しい」、山本支持層は「山本氏が正しい」と一方的に読み込む可能性が高い。朝日新聞はどちらの側にもつかず「両論併記」に徹して「客観中立」の建前に逃げ込んでいる。
しかしこの記事は「客観中立」とは言えない。さらに言うと「ニュースを公正に伝える」というジャーナリズムの責任を放棄している記事であると私は思う。どういうことか、詳しく解説していこう。
政治報道のあるべき姿としては、朝日新聞は枝野氏と山本氏のどちらの主張が正しいのかを独自に検証取材したうえで主体的に「認定」して報じるのが理想である。
例えば「山本氏は枝野氏に出馬表明する意向を伝え、枝野氏が受け入れたと判断した。しかし、枝野氏は党内調整に手間取った。山本氏が出馬表明する日時を把握していたものの、事前に制止することはなく、山本氏が一方的に出馬表明に踏み切ったと釈明することで、党内調整の遅れを取り繕った」というような事実経過を取材に基づいて主体的に認定し報道するのが理想形といえよう。
このような記事を出稿できるか否かは記者の取材力・分析力の問題である。力不足で情報を入手できず確信をもって事実認定するに至らない場合はそこまで踏み込めないのはやむを得ない。「これから取材力と分析力を磨いてくださいね」という話である。
私がきょう問題視するのは、取材力と分析力の欠如ではない。それ以前の、政治報道に臨む心構えについてである。
上記の記事は枝野氏と山本氏の主張を並列的に扱うことで「事実を伝えた」という自己満足に陥っている。この記事に決定的に欠けているのは、枝野氏と山本氏の主張の食い違いをどう受け止めたらいいのかという視座を読者に提供していないことだ。
もちろん、前提となる事実経過がはっきりしないなかで、視座を提供するのは難しい。しかし、事実経過がはっきりしない場合でも、枝野氏と山本氏の主張が食い違う現状を評価するにあたり不可欠な判断材料を明示することで、読者に十分な視座を与えることは可能である。
重要なのは、枝野氏と山本氏の立場の違いを指摘することである。
枝野氏は野党第一党の党首として、野党共闘をまとめる責任を担うリーダーの立場にある。野党共闘が機能するのか、頓挫するのか、さまざまな事情があるにせよ、最終責任を負うのは、枝野氏なのだ。だからこそ、枝野氏は「野党共闘が担ぐ首相候補」なのである。
野党共闘が機能して政権交代が実現すれば、枝野氏は首相になる。野党共闘が機能せず政権交代が実現しなければ、枝野氏は引責辞任すべきである。そのような「結果責任」を背負うのが政治リーダーというものだ。政治報道はまずはこの視点に立たねばならない。
一方の山本氏は国会に2議席しか有しない少数政党の代表に過ぎない。しかも本人は国会議員でもない。もちろん野党共闘に参加する以上、公党の代表として政治的責任を負う立場にあるが、その責任の度合いは枝野氏のほうがはるかに大きい。
昨日の記事でも指摘したが、野党共闘とは、野党第一党の立憲民主党に選挙区を譲ることではない。立憲民主党が少数政党に説得と譲歩を重ねて協力を取り付けることである。野党第一党はそれが嫌ならば、単独で政権を取る力をつけるほかない。
本来、少数政党は自らの党勢拡大と政治目標(れいわの場合は山本代表の国政復帰)を最優先して選挙戦略を選ぶ自由がある。それは政党として当然の権利であり、支持層に対する責任でもある。
一方、二大政党制において野党第一党の政治目標は「政権交代」である。そのために野党各党を糾合して「野党共闘」体制を構築し、候補者を一本化して「野党全体で過半数獲得」を目指すのが、野党第一党の責務だ。つまり、野党共闘は、野党第一党が少数政党に頭をさげて協力してもらうことが前提の仕組みであり、野党第一党が説得と譲歩を重ねることによってようやく維持されるものなのだ。
自社さや自公など過去の連立政権をみればよくわかる。与党第一党の自民党はつねに少数政党に譲歩を重ねて連立を維持してきた。政界において他の政党と組む「連立」や「共闘」というのは、第一党が少数政党に配慮を重ねてはじめて成り立つものなのだ。
以上のことは、政治報道に携わる者が当然に知っておくべき前提知識である。この知識をもとに枝野氏と山本氏の主張の食い違いについて報道するのなら、単なる「両論併記」ではなく、枝野氏の責任をより重視し、枝野氏の調整力に疑問を投げかけ、枝野氏により大きな説明責任を求める記事になるはずだ。
そのような政治報道の「基本的な心構え」を欠いているからこそ、マスコミは「どっちもどっち」の「両論併記」の記事を量産し、ひいては「より大きな責任を担っている者」の責任とその他のものと同等に扱い、あいまいにしてしまう「甘い報道」を繰り返しているのである。
今回の「東京8区騒動」を伝える政治記事に不可欠なのは「野党共闘の維持に対して最大の責任を負っているのは枝野氏である」という視座だ。騒動を解決する主たる責任は、枝野氏にある。それが野党第一党の党首に課せられた責務だ。その視座を欠く政治報道は、野党各党や野党支持者の間に混乱をもたらすだけだ。
このことは、日頃の国会報道にもあてはまる。
野党の枝野氏が首相の新たな疑惑を持ち出して追及する国会審議があると仮定しよう。これに対して首相は真相をはぐらかす答弁に終始した。さて、マスコミ各社はどう報じるだろうか。いまの報道ぶりをみると、枝野氏の追及と首相の答弁を「両論併記」するだろう。
もちろん疑惑の中身を検証取材して主体的に認定し報道するのに越したことはないが、国会審議でいきなり飛び出した疑惑の真偽をただちに認定するのはたしかに難しい。
しかし、その場合でも政治報道の前提は「為政者は疑惑を追及されたら自ら潔白を立証する責任がある。自ら潔白を立証できなければ『推定有罪』として政治責任を免れない(辞任すべきだ)」という民主政治における「アカウンタビリティー(説明責任)の大原則」にのっとるべきなのだ。
この場合は野党第一党の党首である枝野氏よりも「より大きな責任を担っている」首相の責任を厳しく追及するのが「客観中立で公正な報道」である。「両論併記」は権力者(より発言力が大きく、より責任も大きい者)への加担だ。この政治報道の大原則を理解していない政治記者があまりに多い。
枝野氏と山本氏の話に戻そう。枝野氏は今回の衆院選にあたり、立憲民主党の代表であること以上に、野党共闘の首相候補なのだ。立憲民主党の議席がいくら増えたところで、野党共闘の目的である「政権交代」が実現しなければ、枝野氏は引責辞任するほかない。枝野氏は野党共闘の成否の結果責任を最も背負う立場にある。立憲民主党の党利党略よりも野党共闘全体の成果を優先して判断する責任が枝野氏にはある。それが嫌なら、そもそも野党共闘を呼びかける資格はない。
そのような視点から枝野氏に東京8区騒動の説明責任を強く迫ることが政治報道の大きな役割だ。枝野氏の今後の対応は、彼が首相として連立政権を率いる資質があるか否かを有権者が判断する貴重な材料となろう。