朝日新聞の売りの企画「ファクトチェック」について私はかねてより違和感を覚えていたのだが、うまく言い表せないできた。石田英敬・東大名誉教授(メディア論)の以下のツイートがその違和感を見事に言い当ててくれていたので紹介したい。
まさにこのとおりである。ファクトチェックはほぼリアルタイムで判定するからこそ読者の判断材料となる。首相の数ヶ月前の発言を今さらチェックしても、どれほどの効果があるのか。それが「フェイク」であることが判明したところで、数ヶ月の間に世の中に浸透してしまった印象は簡単には打ち消せない。その印象によって形成された世論に基づいて決定・実行された政策は今さら取り消せない。
石田教授が取り上げている朝日新聞デジタルの記事をみると、最初に登場するのは6月9日の菅義偉首相の党首討論での発言である。「ワクチン接種が順調に進んでいます。昨日は100万回を超えてきました」というものだ。
首相官邸がこの時点で公表していた6月8日の接種回数は約63万9千回だったため、野党は「事実と違う」と批判し、複数のメディアが実際は達成していない可能性を指摘していた。菅首相も6月9日夜、記者団から数字の根拠を問われ「どこで100万回というのは分からないが、このところは大体その数字になっている」と述べ、根拠を明らかにすることができなかった。
朝日新聞はご丁寧なことに、首相に成り代わって、この時点の集計を精査し、「結果的に首相の発言は正しかった」として「正確」と結論づけたのだった。
これに何の意味があるのだろう?
首相の発言が結果的に正しいことを立証するのがファクトチェックの目的なのだろうか?
根拠を明らかにしないまま数字を示した首相の正当性を示すことが報道の役割なのだろか?
ファクトチェックの目的は「権力者のウソ」を見抜くことではないのか?
ひとつでも多くの「権力者のウソ」を暴くことに全力を尽くすべきではないのか?
そもそも首相が発言した時点でもっと根拠を問い詰めるべきではなかったのか?
疑念は尽きない。報道機関の最大の責務が権力監視にあることへの自覚が足りないとしか思えない。
もし首相の発言が結果的に「誤り」だった場合、それを信じて首相を評価した人、首相を支持した人、首相に献金した人…などなど、具体的に行動してしまった人はどうなるのだろう。首相の言葉を垂れ流す時点で、その根拠を問い詰め、それに対する首相の回答を見極め、その時点でその言葉の「確からしさ」を自らの責任で公正に評価して報道するのが、メディアの責任ではないのか。
石田教授が指摘するとおり、こんなに「時差」があるなかでファクトチェックしたところで、それは「かざり」や「ふり」でしかない。マスコミが「ファクトチェックしましたよ」というためだけの「ファクトチェック」になってしまっている。
自己満足のファクトチェック、内向きなファクトチェック、実績作りのファクトチェック、「やってる感」を演出するためのファクトチェック…そう批判されても仕方がない。それでは意味がない。
なぜ、首相が発言した時点で「ファクトチェック」することができないのか。
新聞記者たちは言うだろう。「しっかり取材しないと、すぐには真偽を見極めることはできない」と。ここが問題なのだ。
これこそ作り手の論理である。数ヶ月も「時差」があればファクトチェックが現実政治に与える効果はほぼ消滅してしまうのだから、数ヶ月たってから確実な「ファクトチェック」をアリバイ作りのように報じるよりも、発言した時点でその「確からしさ」をできる限り追及して報じることが、真摯な報道姿勢であると私は思う。
政治記者の経験や知識を研ぎ澄ませて、首相発言の「おかしさ」につねに神経を尖らせる。「これはほんとうか?」と疑問に感じたら、その日のうちに首相サイドに根拠を問う取材を全力で試みる。並行して組織力をフルに展開して過去の資料や公開データを調べあげる。そのような努力を尽くしたうえで、その日に報道する時点で首相発言の「確からしさ」を主体的に「認定」して報道する。それがプロの取材集団である新聞社の責務であるはずだ。
ネット時代が到来し、首相発言を垂れ流すだけなら誰でもできるようになった。それなら新聞社は不要である。
なぜ、初報時点で「確からしさ」に迫れないのか。
新聞記者たちが自らの責任で主体的に「確からしさ」を「認定」することを嫌うからである。その「認定」が間違っていた場合に批判されるのを極度に恐れ、責任追及されることを徹底的に回避するからである。
そのために彼らは「客観中立」の建前に逃げ込み、「両論併記」で誤魔化し、自らの身を守る。かくして大本営発表を無批判に垂れ流す傍観的な記事で紙面は埋め尽くされ、権力者の発言は世の中に無批判に流布され、世論が形成されていく。
数ヶ月後にそれをファクトチェックしたところで、形成された世論はもはや戻らない。いったい、何の意味があるのだろう? 最初に発言を報じる時点で、その「確からしさ」を徹底的に公正に追及し、自らの責任で主体的に「認定」してこそ、プロのジャーナリストの仕事ではないのか?
もうひとつ今回の記事で気になったのは、その「出来レース」ぶりである。新聞社が企画を立てるときに陥りやすい「バランスをとる」という罠にハマった記事としか私には思えなかった。
今回の記事は三つの発言を「ファクトチェック」しているのだが、「正確」「ミスリード」「誤り」と結論のバランスをとっている。疑問が生じた首相発言をつぶさに「ファクトチェック」したというよりも、最初から三つの結論を想定したうえで「正確」にあてはまる事例を探し出したというのが真相だろう。まさに予定調和の世界なのだ。
はたして「首相発言は正確だった」という「ファクトチェック」は必要だったのか。
首相はウソをつかないというのは政治の大前提である。「私たちが徹底的にファクトチェックした結果、これだけの首相発言のウソを見つけた」という形式にして、ひとつでも多く「首相のウソ」を暴くことこそ、権力監視を旨とするジャーナリズムのあるべき姿ではないのか。
政権側から「批判ありき」と批判されるのが、そんなに怖いのだろうか。なぜ「権力監視・権力批判こそ報道機関の責務」と胸を張れないのだろうか。いったい、どこを向いて仕事をしているのか。ほんとうは政治家や官僚になりたかったのに、なれなくて新聞記者になったのではないかと疑いたくなる。
この「権力批判と権力擁護のバランスをとる」報道ぶりには、権力批判に対する及び腰な近年の朝日新聞の社風がくっきりと現れている。ジャーナリズムが権力批判(権力監視)に力点を置かずして、だれが権力批判(権力監視)の役割を担うのか。公正な報道とは、権力を的確に監視・批判することである。「両論併記」で「客観中立」を装う報道姿勢はあまりに姑息で、読者の嫌悪感を増幅させるだけだ。
SAMEJIMA TIMESの政治記事は私一人が担っている。政治家の発言をただちにチェックする組織力も資金力も持ち合わせていない。しかし、自らの取材経験、人脈、知識に基づく情報や政局観を駆使し、自らの責任で主体的に「確からしさ」をただちに「認定」し、読者のみなさんにリアルタイムで判断材料を提供することを心がけている。ときに自らの分析に基づいて政治の行方を大胆に展望するようにしている。それらの記事を支えているのは、私個人に対する読者の皆さんの信頼だけだ。この主体性と同時進行性と責任の所在の明確化こそ政治ジャーナリズムの命であると私は確信している。