8月31日夜にネット上を駆け巡った毎日新聞の「特ダネ」報道にびっくりした人は多いだろう。タイトルは「首相、9月中旬解散意向 党役員人事・内閣改造後 総裁選先送り」。書き出しは以下の通りである。
菅義偉首相は自民党役員人事と内閣改造を来週行い、9月中旬に衆院解散に踏み切る意向だ。複数の政権幹部が31日、明らかにした。自民党総裁選(9月17日告示、29日投開票)は衆院選後に先送りする。首相は衆院選の日程を10月5日公示、17日投開票とする案を検討している。
菅首相は9月1日朝、記者団に対して「総裁選前の衆院解散」の報道を明確に否定した。解散報道は落ち着いたが、一連の経緯は政治報道が抱える重大な問題を浮き彫りにしたので指摘しておきたい。
菅首相はもともと、9月5日のパラリンピック閉幕後、臨時国会を召集して衆院を解散し、自民党総裁選(9月17日告示ー29日投開票)を衆院選挙後に先送りして無投票再選をめざすシナリオを描いていた。
ところが、感染爆発と医療崩壊で内閣支持率が急落したうえ、緊急事態宣言を少なくとも9月12日まで延長することになり、9月解散は困難となった。菅首相はやむを得ず、総裁選を先行実施して勝利した後、衆院を解散することなく任期満了の衆院選挙(10月5日公示ー17日投開票)に臨むことにしたーーマスコミ各社の報道はほぼこの線で一致していた。
事態が動き出したのは、8月30日である。菅首相は二階俊博幹事長に幹事長交代を告げるとともに、野党が求めていた自民党総裁選前の臨時国会召集を拒否するよう指示した。この時点でもマスコミ各社は「総裁選を予定通り実施した後に任期満了による衆院選挙を行う」という報道を続けていた。
報道が錯綜しはじめたのは31日である。菅首相が二階幹事長の交代を柱とする党役員・内閣改造人事を総裁選前に実施する意向を党幹部に伝えたのだ。人事は総裁選後に行うのが通例である。菅首相があえて総裁選前に人事を行うのは何か意図があるーー自民党議員や政治記者の間で様々な憶測が飛び交い始めた(私の分析は昨日、以下の記事に詳しく記したのでご覧いただきたい)
二階幹事長の「総裁選前解任」はふつうではあり得ない〜「岸田幹事長」で無投票再選か、衆院解散で総裁選先送りか
毎日新聞の「特ダネ」報道は、このさなかに配信された。菅首相は当初の戦略に立ち戻り、先に衆院解散・総選挙を実施して、自民党総裁選を先送りする意向であるーー「複数の政権幹部」がそう明らかにしたというのである。
私の第一感は「これはあり得ない」だった。
9月に衆院解散する場合、緊急事態宣言が終わってから自民党総裁選が始まるまでの間、つまり9月13日〜16日に断行するしかない。そもそも9月12日に緊急事態宣言を解除できる見通しは低いとみられている。宣言中に解散に踏み切るのは困難との見方が政界では大勢だ。宣言が延長される可能性が高い期間中に、首相が重大な政治決断となる「衆院解散」の期日を設定することなど、ありえるだろうか?
「菅おろし」が急拡大した場合、そのまま総裁選に突入して敗北するのを回避するため、衆院解散に踏み切るのは強力な対抗手段だ。しかし、仮に9月12日に宣言を解除できたとしても、その直後に衆院を解散したら「総裁選敗北を避けるための衆院解散」「私利私欲による衆院解散」と党内外から批判が殺到し、衆院選挙で惨敗する恐れが高まる。首相が現実政治としてそのような「大バクチ」を選択をする可能性は極めて低いのではないか。いよいよ追い込まれた時に備えて「大バクチ」の選択肢は残すとしても、解散ギリギリまで状況を見極め最終決断を先送りするに違いない。
一方で、菅首相にとって「総裁選前の衆院解散」の憶測が流れるメリットは大きい。
菅首相では選挙に勝てないという危機感から、ライバルである岸田文雄前政調会長を支援しようと思っている自民党衆院議員の立場になって考えてみよう。9月に衆院が解散されるのなら、上京して岸田氏の応援などしている暇はない。自分の選挙区に張り付いて奔走しなければならない。さらに彼らが恐れることがある。自らが支援した岸田氏が勝利すればよいのだが、岸田氏支援を表明した後に衆院が解散されて総裁選が延期されれば、菅首相に激しく敵視され、党からの衆院選挙資金の支援などで不利な扱いされるかもしれないのだ。
つまり「菅首相は衆院を解散して総裁選を先送りする意向」という情報は、自民党議員たちが岸田陣営になびくのを防ぐ絶大な効果があるのである。少なくとも菅首相はそう考えたに違いない。
毎日新聞の記事は「複数の政権幹部」が取材に対して明らかにしたと記している。これは政治取材で横行する「オフレコ取材」の典型だ。
オフレコ取材とは、情報源を明かさないことを約束して取材をする手法。相手の本音を聞き出したり、非公式な情報を入手するのに有効な半面、それがウソだった場合も相手の責任を問えないという大きな欠陥があり、権力側の情報操作に使われやすい。
オフレコ取材に基づく情報は、複数の情報源の話をクロスチェックし、政治情勢全体を総合的に判断して、矛盾はないか、信憑性は高いのかを慎重に見極める必要がある。一線の政治記者たちが集めてきたオフレコ情報の確度を判断するのが、政治部デスクやキャップの重要な役割であり、能力の差がはっきり現れるところだ。どの記者がどの政治家にいつどのようなかたちで取材したかによって情報の確度に優劣をつけるシビアな世界である。私は政治部デスク時代に「どんなに政治家と親しくなっても勘違いするな。政治家は権力闘争のためなら平気で嘘をつく。特にオフレコで情報操作する。オフレコ取材より記者会見を信用しよう」と繰り返し言ってきた。
毎日新聞の「特ダネ」報道は「情報操作に利用された」と私は思っている。もちろん、毎日新聞政治部はプロの集団だ。「複数の政権幹部」の取材を総合的に判断したに違いない。私の政治取材経験からして、この「政権幹部」には少なくとも幹事長や国会対策委員長、官房長官らは入っている。彼らがオフレコ取材で「首相は解散する意向だ」「首相から解散する意向を聞いた」などと明言したのかどうかはわからない。彼らは菅首相から本音を明かされていないかもしれないし。彼ら自身が菅首相に騙されている可能性もある。政治部デスクは政治家を徹底的に疑い、情報の信憑性を総合的に見極める仕事だ。
そのうえで確かに言えることは、衆院解散という「首相の大権の行使」を報じるにあたり、首相本人に取材することなく出稿を決断するのはあり得ないということである。毎日新聞は菅首相本人に電話などで取材し、少なくとも間違いはないという感触を得たうえで報道したと考えていいだろう。
毎日新聞記者がよほど勘違いしない限り、菅首相は「解散の意向」と報道されるのを承知で取材に対応したと考えるのが自然だ。先述したとおり、衆院解散の憶測が流れることは、菅首相の総裁選再選にとって都合がいい。仮に翌朝に菅首相が毎日新聞報道をただちに否定したところで、政界には「首相は解散についてはウソをついてよい」という悪しき慣行がある。自民党議員たちは「解散があるかもしれない」という思いを引きずり、岸田氏支持に動くのを躊躇する。菅首相がそのような効果を狙った可能性は否定できない。
毎日新聞報道は菅首相が狙う情報操作に使われた可能性がある(それが結果として菅首相が思い描いたとおりに有利に働いたかどうかは別として)。オフレコ取材なので情報源は責任をとらない。毎日新聞もオフレコ取材に基づく報道である以上、取材経緯を検証して外部に公表するのは難しい。
このようにして「ミスリードの政治報道」の大半は、特定の政治家を利したうえで、政局が目まぐるしく動く中でうやむやにされてきた。今回も「菅首相は衆院解散に意向を固めていたが、自民党内の反発を受けて見送った」という続報を出すことで帳消しにされる可能性がある。首相が本当に「衆院解散の意向を固めていた」のか、そもそも「解散風を吹かせる」ことに狙いがあったのか。菅首相の本心を検証するのは難しい。オフレコ取材に内在する重大な欠陥である。
政治家はオフレコ発言に責任を負わない。政治家の発言に責任を取らせるオンレコ取材へ、政治報道の原則を大きく移すべきである。政治家の情報操作に加担しやすいオフレコ取材を重視する限り、政治報道の信頼回復は難しい。