甲子園球場で開催されていた夏の高校野球が8月29日に閉幕した。緊急事態宣言下の大会開催について「週刊現代」の取材を受け、最新号(9月4日号)の記事「最近の朝日新聞がいよいよおかしくなっている件」に私のコメントが掲載されている。これを機に「緊急事態宣言下の高校野球」について私見をまとめておきたい。
はじめに、朝日新聞社が巨大国家プロジェクトである東京オリンピックのスポンサーになることと、高校野球を主催することを関連づける言説があるが、この是非は別々に考えるべきであろう。
時の政権が命運をかけて開催するオリンピックのスポンサーに権力監視を掲げる新聞社が加わるのは、明らかな利益相反である。オリンピック招致にまつわる裏金疑惑や巨額の税金投入の正当性について取材・報道するにあたり、読者が「報道の公正さ」に疑念を抱くのは当然だ。コロナ禍での大会開催の是非以前の問題として、スポンサーになること自体が報道機関としての自殺行為である。これを決断した社長以下の経営陣は、ジャーナリズム史に大きな汚点を残したといっていい。朝日新聞社は自浄作用を発揮し、スポンサーになった経緯を自己検証して公表し、責任者を断罪すべきである。それなしに信頼回復は不可能であろう。この点は繰り返し主張していきたい。
一方、高校野球は朝日新聞社自身が主催するスポーツ大会である。100年の歴史を重ね、日本社会に浸透した伝統行事といっていい。野球だけを突出して扱う報道ぶり、真夏の開催による選手への負担、勝利至上主義をはじめ大会運営のあり方について改善すべき点は多々あるものの、長い歳月をかけて蓄積された伝統的・文化的価値は大きく、新聞社が主催する社会的事業として評価できる部分も多い。少なくとも新聞社が国家プロジェクトのスポンサーになることとはまったく異質の問題であり、大会を主催する当事者として、時代に適した大会運営のあり方を探り続けていけばよい。
そのうえで、緊急事態宣言下での大会開催について考えてみよう。
朝日新聞は安倍政権や菅政権の緊急事態宣言に同調して一般の人々に行動自粛を強く呼びかけてきた。自社の記者の取材活動についても一定の制限をかけている。このような取材・報道姿勢と、緊急事態宣言下の大会開催は明らかに矛盾している(ちなみに私は、新聞社が国家に同調して行動自粛を呼びかけたり、国家の要請に応じて取材規制をすること自体に強い抵抗感を覚える。緊急事態宣言による行動自粛を延々と続ける政府の方針にも反対だ。国家の最大の責務は早期診断・早期治療を可能とする検査・医療供給体制の整備であり、行動自粛要請はそのための時間を稼ぐ緊急措置にとどめるべきだと考えている)。
この矛盾は、東京オリンピックとも相通じる。感染拡大を防止する立場から東京オリンピック中止を求める社説を掲げながら、スポンサーから降りることなく大会開催を応援しつづけ、紙面でも連日のようにオリンピックを盛り上げる報道を続けることで、読者は「朝日新聞はオリンピックについていったいどう考えているのか」という不信感を膨らませたことだろう。
その意味で、朝日新聞社が国家の緊急事態宣言に同調して行動自粛の旗を振ったことが、自分の首を自分で締めたといえるだろう、昨年夏の高校野球を中止したのは、高校球児たちの安全を守るためというよりも、自分たちの言動一致を優先して世論の批判をかわすという「保身」に本当の理由があったと思う。大会運営のあり方を十分に工夫すれば、大会開催の可能性はあったはずだ(現に昨年夏よりコロナ危機が悪化した今年夏は開催したではないか!)。昨年の大会中止を発表した社長らの記者会見からは、夏の大会をめざして励んできた多くの高校球児(人生をかけて野球にとりくんできた高校生もいただろう)を納得させるメッセージをまったく感じることができなかった。いったい、何から誰を守るための大会中止だったのか。
最大の論点は、大会開催の是非ではない。緊急事態宣言下に開催すべきか、中止すべきかは、どちらにしても、主催者として苦渋の決断である。どちらかが絶対に正しい選択とはいえないだろう。だからこそ、朝日新聞社は、開催するにしても、中止するにしても、その理由を、しっかり世の中にむかって、心に響く言葉で語りかけるべきだったのだ。苦渋の決断に至るプロセスを率直に明かし、開催するにせよ、中止するにせよ、それが引き起こす結果について、その責任を全身で受け止めると宣言すべきだったのだ。それが報道機関・言論機関として当たり前の態度である。
さらに付け加えると、自らの進退をかけて開催か中止かを決め、それを世の中に向かって自分自身の言葉で訴える役割を担うのは、朝日新聞社を率いる社長をおいて他にない。朝日新聞社にとって高校野球とは、そのくらい重要な行事ではないのか。
世の中を納得させるためには、まずは高校野球の意義を自ら再点検・再確認し、それを訴え、逆に大会運営について改めるところは改め、それを実行しなくてはならない。さらに、国家に同調して国民に行動自粛を延々と訴えてきた社論の是非についても再点検しなければならない。世論の批判を浴びるなど痛みを伴うこともあるだろう。だが、それを恐れていたら、世の中の納得は得られない。
ところが、社長以下の経営陣が真っ先に考えたのは、世論の批判をかわして自分たちの責任を回避することだった。昨年は世論の批判を恐れて中止することにし、今年は2年連続の中止という事態を回避するため、東京オリンピックを隠れ蓑にして開催することにしたのである。なんと姑息な姿勢だろう。
だからこそ、今大会は「開催することに意義がある」といわんばかりに、大々的に報道することを控え、「アリバイ作り」として粛々と無難に開催したという気がしてならない。朝日新聞社としての「決意と覚悟」がまったく伝わってこないのだ。
このような「無難にやり過ごす」という会社の体質は、「客観中立」を隠れ蓑に権力批判に及び腰となり、両論併記の傍観報道が溢れる今の朝日新聞紙面に、くっきりと現れている。
本当に必要なものなら、その意義を説いて理解を求める。トップ自らが決意と覚悟を示し、その結果責任を負う。朝日新聞に欠けているものは、まさにこの国の政治に欠けているものと重なる。
「保身」を最優先にした自分たちの無責任体質を自覚しているからこそ、国家の無責任体質への批判も及び腰になるーー朝日新聞はそんな隘路にはまり込んでいるようにみえてならない。