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東京五輪開催は疑問だが「誰かがやらねば」ーー朝日新聞記事が映すジャーナリズムの荒廃

6月19日土曜日の朝、私はいつものようにネットニュースに目を通した後、受信メールを開いて、その中の一通に釘付けになった。タイトル欄には『開催は疑問、でも「誰かがやらねば」 医師の心配』とある。発信元は「朝日新聞ニュースレター」だった。私が5月末まで勤めた新聞社が「今日の売りの記事」を読者に一斉配信するメールである。

短いタイトルをみて、記事の内容はすぐに思い浮かんだ。「東京五輪」の文字はないが、「開催は疑問」の文字から、東京五輪の話であることが瞬時にわかる。「医師の心配」の文字から、競技会場に派遣される医師の思いを伝える記事であることも想像できた。このタイトルをつけたのは「極めて有能なデスク」であると私は思った。簡潔なタイトルに記事のエッセンスが見事に凝縮されていたからだ。

それだけに、私の目はこの短いタイトルに釘付けになった。とりわけその一点、『でも「誰かがやらねば」』から、しばらく離れなかったのである。

コロナ禍の東京五輪を強行開催する政府の姿勢には「疑問」がある。でも、開催される以上「誰かがやらねば」ならないーー政府の姿勢に疑問を感じながらも厳しく批判することは避け、現状追認を重ねていくその姿勢に、今の朝日新聞を巣食う病理が凝縮されていると感じたのだ。

さっそく記事を読んでみた。やはり想像とおりの内容だった。(朝日新聞デジタルの記事は→『五輪・パラ開催は「疑問」 でも会場に赴く医師の思い』

ここに登場する医師たちはコロナ禍の東京五輪開催に疑問を感じつつ、「大会をやるなら、誰かが医療をやらなければならない」と悩む、そして「開催に向けた流れがもう止まらなくなっているのを感じる。依頼があれば、対応できるのは医者のわれわれ。やれる範囲で協力するしかない」と競技会場へ向かうのだ。

思い悩んだあげく競技会場に向かう医師たちを、私は批判するつもりはない。いや、目の前に医療が必要な現場がある以上、そこから目を逸さない姿勢には医師としての高い職業倫理を感じる。国家権力はそこにつけ込んでくるのだ。

私がここで問いたいのは、東京五輪に協力する医師たちの姿勢ではない。国家権力の思惑を棚上げし、「誰かがやらねば」という医師の思いにフォーカスする記事のあり方である。権力監視を旨とする報道機関として、国家権力がこしたえた土俵自体を厳しく批判することなく、その土俵の上でもがき苦しんでいる人々に寄り添い、彼らへの共感を誘う報道姿勢である。それは一見、ソフトな顔をした記事である。しかしその内実は、国家権力の振る舞いを「追認」したうえで、国家権力の足らざるを「補完」するかたちで国家権力に「加担」しているのだ。

これはまさに80年前に太平洋戦争に突き進んだ国家と新聞社の関係と同じではないか。「開催は疑問」を「開戦は疑問」に置き変えれば、医師をはじめ当時の多くの国民が戦争に恐怖と疑問を感じながらも「誰かがやらねば」という思いから加担していったのと同じ構図が浮かんでくる。当時も国家権力と一体化し、国家権力の意思を推進するために先頭に立って旗を振ったのは朝日新聞をはじめとする新聞各紙だったのだ。

朝日新聞は先の大戦に加担したことを心の底から反省したのだろうか。この簡潔なタイトルをつけた「有能なデスク」はそうした歴史認識を持っているのだろうか。記事を簡潔なタイトルにまとめる能力よりも、そうした歴史認識を忘れないことは、ジャーナリストとしてはるかに重要な資質ではないのか。

おそらくこの「有能なデスク」は「私たちはコロナ禍の五輪開催を支持しているわけではない。五輪開催が現実味を増すなかで、現実に競技会場に向かう医師の葛藤を客観中立の立場で報じたものだ」と反論するであろう。しかし、こうした報道姿勢は「客観中立」を装った「権力への加担」であると私は思う。「誰かがやらねば」という空気を醸成して五輪開催の既成事実化を狙う国家権力に、新聞社は「客観中立」の顔をしながら大きく加担しているではないか。

だからこそ、新聞社は「権力監視」の立場を最優先しなければならない。政府の振る舞いをまずは「批判の目」で見なければならない。新聞社が国家権力の主張と批判勢力の主張を「客観中立」に「両論併記」で報じるだけならば、情報量も発信力も圧倒的に強い国家権力が批判勢力を駆逐するのは目に見えている。その結果、批判勢力はどんどん弱体化し、国家権力は横暴になっていくのだ。それが国民の多大な犠牲と引き換えに敗戦から得た教訓ではなかったのか。

新聞社は権力監視を旨とする当事者として、まずは「批判勢力」に身を置かねばならない。これは世界の民主国家の常識である。

そもそも、あの戦争に加担したことを心から反省しているならば、国策である東京五輪のスポンサーなど引き受けるはずはない。朝日新聞の経営陣はもはや戦争の反省など二の次なのだ。そして編集現場のデスクや記者たちの多くも「スポンサーになったのだから」という現状を受け入れ、社内における出世と自己保身を優先し、東京五輪を盛り上げる報道を通じて国家権力に加担しているのである。そのような新聞社内の空気が「誰かがやらねば」のタイトルにつながったのではないか。

私はそんな思いから以下のツイートをした。

このツイートには賛否両論がたくさん寄せられたので、返信欄をぜひご覧いただきたい。


私はこの問題には日本のジャーナリズムの歪みが凝縮されていると思います。サメタイにもご意見をお寄せください。政治倶楽部に無料会員登録して、以下のコメント欄から投稿していただければ幸いです。お待ちしています。