新聞記者の仕事は実労働時間の把握が難しい。このため、新聞社の多くは、実際に働いた時間とは関係なく、取材・執筆など記者業務に要する時間を働いたものとみなして賃金を支払う「みなし労働時間制」を採用している。
政治部の働き方を例にとると、大半の記者は政治家に「番記者」として張り付いているから、あらかじめ実労働時間を決めることは不可能に近い。このような仕事に対し、労働基準法は一定の要件のもとに「みなし労働時間制」を認めているのである。
新聞記者の給料が高かったのは「みなし労働時間制」によるものだ。私は27年間の朝日新聞社勤務で記者職を外れ、みなし労働時間制の適用外になったことがあるが、その際に月給がガクンと落ちて驚いた。
もちろん、みなし労働時間制だからといって、無制限に働いてもよいわけではない。会社は労働時間を適正に管理しなければならない。
そこで朝日新聞社は、各記者に毎日の勤務開始時間と勤務終了時間を「WEB勤務表」という社内システムに入力させ、月ごとに報告(送信)させている。この自己申告で労働時間を管理しているというわけだ。
とはいえ、取材記者の仕事に「開始時間」と「終了時間」などあってないようなもの。深夜や休日にも電話やメールはひっきりなしに届くし、自分の担当分野のニュースはつねにチェックしている。午前中から昼寝することもあれば丑三つ時に取材メモを書き上げていることなど日常茶飯事だ。仕事の「開始時間」と「終了時間」などこまめに記録などできるはずはなく、各記者が入力する時間はほぼ実態を反映していない。
そこで朝日新聞社の管理部門の人々が考え出したのは、記者が仕事に使っている貸与パソコンを開けた時間と閉じた時間を「WEB勤務表」に毎日自動的に表示させることだった。パソコンの開閉時間を参考に仕事の「開始時間」と「終了時間」を自ら判断して入力せよ、ということらしい。
これもまた実態とかけ離れている。取材記者の仕事のうち、パソコンに向かっている時間などほんのわずか。ほとんどはパソコンではなく、取材相手と向き合っているからだ。
そこで多くの記者はテキトーに勤務時間を入力している。働いた時間が多すぎると「働きすぎです」と管理部門から指摘されて面倒だ。だからデフォルトのまま「午前10時から午後6時」に働いたと申告する記者も少なくない。
私もそのようにすることが多かった。まったく実態を反映していない無意味な「申告業務」である。誰もがそう理解している。しかし管理部門から問い合わせを受けたことはない。管理部門もそのほうが都合が良いのだ。
だが、時折まじめに申告する記者もいる。近年、この割合は増えているようだ。この場合、間違いなく「働きすぎ」になる。まずは部長が管理部門から注意される。部長は「働きすぎないようにしてね」と記者に声をかける。それでも取材業務は次から次へとわいてくる。まじめに申告する。部長は再び管理部署から注意されるーーこの繰り返しの末、部長が勝手に勤務時間を書き換え、懲戒処分されるという事案も起きた。部長にとって「記者の労働時間管理」は何よりも神経を使う業務になってしまったのだ。
他社の政治部長に聞いても「部長は取材指揮どころじゃないよ。業務の大半は記者の労働時間管理だよ」とぼやいていた。数年前にマスコミの過労死問題が社会問題化したのを機に、厚生労働省はマスコミ各社の労働時間への監視を強め、マスコミ各社の管理部門が社内で管理統制を強めるようになったのは、どの社も似たり寄ったり。「記者のサラリーマン化」はどんどん加速している。
結局のところ、取材記者の仕事を労働時間で管理すること自体に無理がある。記者の健康を守るのなら、実態にあわない労働時間で管理するのではなく、記者の自主性を尊重して内向きな管理統制を廃し、パワハラやセクハラを徹底的に排除して職場の風通しを良くし、無駄な社内飲み会をなくし、上司の好き嫌いや休日出勤の多さではなく執筆した記事のみで評価する人事制度を確立し、各記者のストレスを軽減したほうがよほど効果があると思うのだが。
管理部門の管理部門による管理部門のための「WEB勤務表」は百害あって一利なしと私は思ってきたし、社内でそのように主張してきた。
朝日新聞社で「WEB勤務表」が本格導入されて10年近く経つ。当時、私はデスクを務めていた。編集局各部の管理職が出席する社内会議で管理部門から説明があった際、私は猛然と反対した。
反対の理由その一は、これまで述べてきたとおり、記者の仕事を労働時間で管理することは不可能であり、「WEB勤務表」で自己申告させても実態とかけ離れ、まったく実効性がなく、たたでさえ業務に追われる記者たちの負担を増やすだけであるということだった。
記者の健康を守るのなら、上意下達の取材体制を改善し、記者の自主性を尊重した新しい仕組みをつくる方が急務である。管理部門のアリバイ作りに取材現場を巻き込まないでほしいという趣旨のことを主張した覚えがある(私は常にこのような意見を遠慮なく主張してきたので、社内に敵は多かった)。
ただ、それにも増して主張したのは、反対の理由その二だった。私はまず「この自己申告の労働時間はあくまでも記者の健康を守るために長時間労働を防ぐ目的ですよね」と確認した。管理部署の人はそうだと肯定した。私はそのうえで次にように言ったのだった。
しかし、記者が労働時間の自己申告をはじめると、労働時間が多いほど人事評価があがるという、実におかしな風潮が社内に広がり、休日も深夜も働いて、労働時間で同僚より勝ろうとする、実に内向きな社内文化ができてしまうのではないでしょうか。逆効果ですよ、これは。
管理部門の人はポカンとした顔で聞いていた。そのうえで「WEB勤務表」はあくまでも労働時間管理のためのものであり、人事評価に使うことはまったく考えていないという、官僚答弁を返すのみであった。
あれから数年が経ち、今の記者たちがどのように「WEB勤務表」を入力しているのか、私は詳しく知らない。相変わらずテキトーに入力している記者が多いだろうが、「同僚より一時間でも多く働いた」ことを部長にアピールする装置として活用している記者も少なからず存在しているだろう。私が知る朝日新聞社内はそういう空気が漂っている。
私が朝日新聞社を退社して半年が過ぎた。いまさら「WEB勤務表」のことなど書いているのは、先日、かつての同僚から以下のような嘆きを聞いたからだ。
最近、朝日本社に労働基準監督署が調査に入り、WEB勤務表を調べたところ、休日なのにパソコンのログイン記録があるのはおかしい、入力された業務の始業・終業時刻と食い違っていると指摘を受けました。さらに「記者が申告した勤務時間とログイン・ログオフ時刻に相違がある場合、会社はその理由を確認し、実際の労働時間を適正に把握する義務がある。早急に改善策を講じるように」と指導されたそうです。会社はこれを受けて、休日にログイン・ログオフの記録がある場合、「半日公休」や「出勤」にWEB勤務表を修正し、「休日」のままにする場合はWEB勤務表の「報告事項」の欄に理由を明記するよう指示しました。このような社内報告業務が増えるばかりで、もう大変ですよ。
なんと、国家権力は新聞社の労働時間管理にここまで介入しているのか、新聞社はそれに従順に対応しているのか、国家権力が特定の調査報道記者の取材を「労働時間」を理由に妨害することも可能ではないか、記者はそんな無意味な報告業務まで求められているのか、どの記者も異議を唱えていないのだろうか…この一件だけで、新聞社の現状をめぐる論点が満載である。
朝日新聞社が全社員に送った注意文書には、以下のような言葉が並んでいたという。
・休日におけるPC立ち上げを一律に禁止するような措置はとりませんが、休日には業務を行わないことが原則ですので、必要のない場合はできる限りPCを立ち上げないようにお願いいたします。
・時間外労働や休日労働は、本来、上司の指示・命令により行うもので、本人の判断で自由に勤務日や時間を決めてよいということではありません。
ここまで手足を縛られていたら、新聞記者たちも自主的な独自取材など到底無理だろう。権力監視の調査報道どころか政府発表の垂れ流し報道で紙面が埋まることもうなづける。
私は新聞社が急速にふつうの会社と化していることを改めて痛感し、それに違和感を抱かずサラリーマン化する大勢の記者のなかに身を置く一握りの個性派記者たちに同情しながら、そこから飛び出してよかったとつくづく思ったのだった。