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駅のゴミ箱撤去とレジ袋の有料化と保育園のおむつ持ち帰りに共通する重大なこと

東京メトロがすべての駅のすべてのゴミ箱を撤去した。1月17日のことだ。報道によると、セキュリティー強化が理由だという。利用客からは「ないと不便」という困惑が広がっていると報じられている。

これを受けて、ある弁護士のアカウントが以下のツイートをした。「俺は構内の床とか適当な設備の上とかに捨てて帰ることにします。そのようにして抵抗しないと舐められる一方なんだよ」という過激な内容だ。

このツイートに対して、賛否両論が殺到した。反対論は「弁護士なのに不法投棄するとは」「自分のゴミくらい自分で持って帰れ」「モラルなさすぎ」などなど。

擁護論としては同じ弁護士の渡辺輝人さんのツイートが代表例だろう。駅構内のコンビニは鉄道事業者の系列だったり、鉄道事業者が賃料を取っていたりする。ゴミの発生する商品を大量に販売する企業の責任としてゴミ箱を設置するのは当たり前であり、ゴミ箱の撤去は企業の社会的責任を利用客(消費者)のモラルに転嫁するものだーーという主張である。

私は渡辺弁護士の意見におおむね賛成だ。ゴミの発生する商品を大量に販売して大きな利益をあげている企業にはゴミを回収する社会的責任がある。それをセキュリティーなどの理由で放棄し、消費者のモラルの問題に転嫁するのは、企業としての責任放棄だ。実はゴミ箱撤去によるゴミ回収コストの大幅削減で、大きな利益を生み出しているのではないか!

どうしてもゴミ箱を撤去したいのなら、ゴミの発生する商品の販売をやめればいい。ゴミ回収にコストがかかるのならゴミの発生する商品の価格に転嫁すればよい。それ込みで価格競争すればよいだけの話だ。企業の社会的責任と消費者のモラルを混同し、企業の責任放棄の免罪符にすべきではない。

とはいえ、企業が一方的にゴミ箱を撤去したら、私たちはどう対抗すれば良いのか。黙って我慢するしかないのかーーそれに対する回答のひとつが冒頭のツイートである。「駅構内に捨てて帰ってやる」というわけだ。

たしかに乱暴なレジスタンス(抵抗)だ。お行儀も良くないし、社会的モラルにも反している。

しかし、それに代わる対抗策があるのか。東京メトロの駅員に「ゴミ箱を設置するのは企業の社会的責任だ」と言ったところで耳を傾けてくれるはずがない。だとしたらSNSで東京メトロにゴミ箱再設置を求め世論を盛り上げるのか? それも成功する保証はないし、そんなことに全力投球している暇もない。

そもそも企業が社会的責任を放棄したツケを消費者が一方的に背負わされるのは我慢ならない。私たちは泣き寝入りするしかないのか。だいたいこれはセキュリティー強化を口実とした東京メトロのコスト削減策であり、利用者はそれに一方的に協力させられているだけだ。かくある以上、非力な一市民として取りうる対抗策はひとつしかない。東京メトロが一方的にゴミ箱を撤去して利用客に責任転嫁したのだから、利用客としては一方的にゴミを駅構内に捨てて帰り、東京メトロに責任を再転嫁してやるまでだーーというのが、上記の弁護士先生の主張であろう。

たしかにゴミが駅構内にあふれかえって東京メトロが困らない限り、ゴミ箱が再設置される可能性は極めて低いであろう。それが現実だ。社会のモラル崩壊が進む責任は、企業にあるのか、消費者にあるのかーー。

東京都内の知人に聞くと「ゴミを捨てて帰るのはやりすぎだね」との答えが返ってきた。一方、欧州の知人に聞くと「ゴミ箱がないならみんなそのあたりに捨てるよ。だから自治体や企業にはゴミ箱を設置する責任があるんだよ」という返事だった。

市民のモラルに重きを置く日本、政府や企業の責任に重きを置く欧州。ずいぶんと意識の差があるものだ。総じて日本は「お上に甘い」といえるのではないか。野党第一党が「批判よりも提案」を掲げ、マスコミまで「提案型報道」を標榜するのもそのような社会のありようと無縁ではなかろう。

強大な権力を握る政府や企業が理不尽なルールを一方的に押し付けてきた時、非力な一市民はどう対抗するのか。じっと我慢するしかないのか。これは民主社会の大きなテーマである。

私は「理不尽なルール」へのレジスタンス(抵抗)のあり方はいろいろあっていいと思う。もちろんどこまで許容されるかという「社会的合意」の範囲はあるにせよ、画一的に抑え込む「統制」の強化は全体主義への入り口である。国家が一方的に迫る「我慢」に国民ひとりひとりが横並びで応じた帰結が先の大戦であったことを忘れてはならない。

個々人が政府や大企業の対応に「度が過ぎている」と感じた場合、独自のやり方でレジスタンス(抵抗)するのは、民主社会のしなやかさといえるのではないか。それを「ルール」や「モラル」の名の下に四角四面に抑え込む世の中は息苦しい。同調圧力が強まる日本社会の閉塞感がここにある。権力者にとってこれほど都合の良いことはない。むしろ政府や大企業の責任放棄がまかり通っていることに批判を振り向けるべきであろう。

同様の問題としてあげられるのは、小泉進次郎氏が環境大臣として主導した「レジ袋有料化」である。

ゴミ箱撤去の口実が「セキュリティー」だとすれば、レジ袋有料化の口実は「温暖化対策」だった。レジ袋有料化が温暖化対策にどれほど効果があるのかということ自体にたくさんの疑義が指摘されているが、それはさておき、仮に温暖化対策に有効だったとしても、「レジ袋の有料化を義務付ける」という手法が正しいのかという論点は残る。

レジ袋有料化はレジ袋にかかるコストを消費者に転嫁するものだ。レジ袋の代金は単純に企業の売り上げになる。企業側は大きなコスト削減になったに違いない。これは企業に対する実質的な減税政策(補助金政策)である。

レジ袋にコストをかけてその生産量を減らしたいのなら、レジ袋を生産する企業に課税すればよい。そのコストは最終的には消費者に商品価格として跳ね返ってくるかもしれないが、最初から消費者に負担させるのではなく、まずは生産者(企業)に負担させれば、企業はコスト削減のさまざまな努力をするだろうし、それによって新たな技術革新(環境負荷の少ないレジ袋の開発など)が進む可能性もある。なぜ企業に課税せず、消費者にばかり負担を強いるのか。

東京メトロがゴミ箱を撤去して企業の社会的責任を利用客のモラルに転嫁するのと、レジ袋を有料化して企業の社会的責任を消費者の財布に転嫁するのは、利用客や消費者といった「個人」よりも「企業」を優先する日本社会のありようを映し出している。

法人税をどんどん押し下げ、それを穴埋めするために消費税を上げてきた税制に代表されるように、この国は「個人より企業」を大切にする発想で、ありとあらゆるルールや制度がつくられているのだ。

もうひとつ例をあげよう。保育園の「おむつ持ち帰り問題」だ。

MBSテレビ「『使用済みおむつ持ち帰りルール』東京は2割だけど大阪は6割超の自治体が導入 保護者や保育士に「臭い」「衛生面」の負担」は、保育園から使用済みのおむつを迎えにきた保護者が持ち帰ることの是非を問う内容だった。東京メトロのゴミ箱撤去問題と同様、「ゴミを持ち帰るのは当然」という賛成論と、保護者の負担や衛生上の視点からの反対論が入り乱れている。

この問題も、おむつの廃棄コストを保育園が保護者(利用客)に転嫁している典型例といえるだろう。仕事を終えて迎えにきた保護者が使用済みのおむつを持って帰るのはどう考えても非効率だ。衛生上の問題もある。

それ以上に、保育サービスとして保育中に使用したおむつを責任を持って廃棄するのは保育園の当然の責任であろう。小学校のトイレ使用を禁止して持ち帰れというのと同じではないか。コストがかかるのなら税金を投じればよいし、保育料を引き上げればよい。低所得者層には保育料の減免で対応すればよい。こういうところにこそ税金を優先投入すべきではないのか。政府や自治体の為政者の怠慢というほかない。

東京メトロのゴミ箱撤去もレジ袋有料化も保育園のおむつ持ち帰りも、日本が人口減社会に突入し、国際的競争力を失い、政府や企業の体力が落ち込み、豊かな暮らしを維持していくことが困難になっているなかで起きた「負担の押し付け合い」現象といえるだろう。同じような「負担の押し付け合い」は今後も増えてくるに違いない。

問題はその大半が「政府や企業が市民や消費者に負担を押し付ける」構図になっていることだ。それはひとえに、自公政権がひとりひとりの市民よりも政府や企業を優先する政治を続けているからである。これを覆すには、ひとりひとりの市民が連帯して市民優先の政治を迫るしかない。

そのような政治が実現するまで、ひとりひとりのレジスタンス(抵抗)はどの程度の行為まで許されるのか。この点、私はできる限り寛容な社会であってほしいと思っている。それが個人を尊重した多様な社会というものであろう。コロナ禍における緊急事態宣言や行動制限を繰り返し経験し、そうした思いをいっそう強くした。


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