私は自分が勤める新聞社の新聞を自分のお金で買ったことがない。
入社以来、社員の新聞購読料は会社が負担してくれた。27年間、タダで購読してきたわけだ。
入社前の大学時代はというと、新聞を購読していなかった。母子家庭で仕送りがほとんどなかったからというのは後付けの言い訳。塾講師のアルバイトでけっこう稼いでいた。単に新聞を読む習慣がなかったのだ(なのになぜ新聞記者になったのかはいずれ機会があれば紹介したい)。
高校生まではというと、母は新聞を購読していた。ただ、購読紙は数ヶ月ごとに目まぐるしく変わった。新聞販売員が洗剤などの景品を持ってやってくるたびに短期契約を変更していたのだろう。私が新聞を開くのはスポーツ面だけだった。
新聞をくまなく読み始めたのは、新聞記者になってからだ。かなりの劣等生だったとしかいいようがない。マスコミ以外の道に進んでいたら、新聞を自腹で購読していただろうか。実に怪しいところだ。
そんな私がついに新聞社を去る今になって、会社が社員の新聞購読料を負担を廃止すると言い出した。明治12年の創業以来最悪の赤字に転落したからだ。
東洋経済オンラインの記事によると、社員の新聞購読料の負担経費約2億円を削減することに加え、「自社の商品を自ら購読することで朝日新聞の購読部数を支えるとともに、有料で購読している一般読者の視点に立って朝日新聞の価値を考えるきっかけ」とすることが目的らしい。
これに対し、社員の不満は大きいようだ。会社は社員が自腹で購読を続けるのは当たり前と考えているようだが、社員には「自社製品を買い取らせる自爆営業と同じ」と抵抗感が強いというのである。「購読をやめたら人事評価に影響するのでは」と心配する者もいるらしい。
紙の新聞の購読をやめ、デジタル版だけにすると公言する者もいる。それに対して「社員が購読をやめたら新聞販売店の士気が下がる」と憤る者もいる。創業以来最悪の赤字のなかで、社員たちはこの話で持ちきりのようである。
私はというと、もうしわけないが高みの見物だ。なぜなら、新聞購読料の負担が廃止されるのはどうやら5月末、まさに私の退社日らしいのだ。つまり、私が社員でいるうちは、どうやら新聞はタダなのである。
おお、ラッキー!と喜んではいられない。これまで会社のカネで購読してきた新聞を6月以降は自腹で購読するのか。この命題に答えを出さなければならない点において、私は会社に残る大多数の同僚と何ら変わりはないからだ。
さて、どうしようか。
ここに告白しよう。実は私は7年前に原発事故の調査報道でデスクを更迭された後、新聞を読むのをやめた。会社を恨んでのことではない。逆だ。新聞の信頼を取り戻すには、新聞を読むのをいったん中止したほうが良いと考えたのである。
新聞社の社員は会社からタダで与えられた自社の新聞をまずは読む。毎朝だ。しかし、世間の大多数の人はいまや新聞を読んでいない。まずはテレビだ。近年はネットから一次情報を得る人が急増している。
新聞記者の感覚が世間とずれた最大の原因はここにあるのではないか。
私の新聞社の社長が引責辞任に追い込まれた7年前の「一連の事件」は、新聞社と世間の感覚のズレによって生じたというのが、事件の渦中に身を置いた私の実感である。まずは世間の感覚と自分の感覚を一致させなければならない。そのためには、自分の一次情報の取り方を改めるしかない。
そうだ、新聞を読むのをやめてみよう。
毎朝、自宅のポストには新聞が届く。配達員さんにはまことにもうしわけないのだが、私は新聞を開くのをやめた。そのかわり、デジタル空間に飛び交うニュースを読み漁った(もちろん自社のニュースもデジタルで読んだ)。私は「新聞脳」を「デジタル脳」に切り替えようと躍起になった。
半年もすると、驚くべきことが起きた。会社の同僚の新聞記者たちと会話が噛み合わなくなったのだ。それと引き換えに、私のTwitterのフォロワーはぐんぐん増えた。
私は大発見をした気分になった。一次情報の取り方で人間の考え方は変わってくるのだ!
朝起きて、新聞を開くか、テレビを見るか、スマホを触るか。この違いはおそらく、どの新聞を読むかということ以上に、人間の感性や思考回路を変えるのではないだろうか。
すっかり「デジタル脳」になった私は、会社に退職届を出した2月以降、毎朝タダで届く新聞を数年ぶりに開いてみることにした。
かすかな紙の匂い。紙をめくる音。なんとも懐かしい。目にも優しい。縦書きの文章も新鮮だ。文句を言いたくなる記事もあるが、心に刺さる記事もある。
悪くはない。心地が良い。
ということで、私はいま、「デジタル脳」から「新聞脳」に少し戻りつつあるなかで、この連載を書いている。
さて、困った。5月末の退社が迫ってくる。新聞の購読を自腹で続けるべきか。う〜ん、悩ましい。