朝日新聞社から2022年春号の社内報が自宅に届いた。
49歳で会社を離れてまもなく1年を迎えるが、社内報はOB(「社友」という) にも送られてくる。毎号、末尾のページにはこのたび退社した社員や他界した社友の写真が掲載されている。そこだけはつい読んでしまう。
退職後も会社とは切れない。会社が人生の中心を占めた年功序列・終身雇用の戦後日本の残像がここにある。
今年の春号も例年の如く、表紙のカラー写真を飾ったのは入社式だった。政治部の先輩である中村史郎社長とともに新入社員たちが一枚の写真に収まっている。ほとんどが濃紺のスーツ姿だ。
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私も28年前の1994年4月1日、東京・築地の朝日新聞本社で開かれた入社式に出席した。当時も大多数の新入社員は濃紺のスーツだった。私はたしかグレーのスーツだった。
会場を見渡すと、濃紺以外のスーツを着ていたのは数人しか見当たらない。その数人はみんな私と同じ京都大学の出身であり、我が母校は周囲に同調しない気質が強いのかと感じたのを思い出した。
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その入社式の最中に驚くべき知らせが舞い込んだ。右翼団体の男二人が東京・築地の朝日新聞本社15階に押し入り、広報担当役員と秘書部長を人質にして役員応接室に立てこもったというのだ。
二人のうち一人は短銃を持っており、押し入る際に一発を発射した。もう一人は日本刀を持っていた。会社は私たち新入社員に十分に注意して落ち着いて行動するように指示した。
十分に注意して行動しろと言われても…。これが朝日新聞で働くということか…。
私も同期の新入社員たちもさすがに動揺した。あれから山あり谷ありの新聞記者人生を送ったが、振り返れば強烈な入社式であった。
「新聞記者やめます」序章【私は会社の誘いに乗った】
二人の男は朝日新聞の報道姿勢を批判しながら6時間近く立てこもった後、警察官に説得されて人質を解放し、現行犯で逮捕された。
前年10月には政治団体「風の会」の野村秋介代表が同じ応接室で中江利忠社長と面談中に短銃自殺する事件があったばかりだった。二人は「野村先生の自決した部屋はどこだ」といって応接室に案内させたという。
今年の新入社員たちは、この本社で28年前にそのような事件があったことをおそらく知らないだろう。
1994年の新入社員は80数名だった。前年は100名を大きく超えていたが、バブル経済崩壊の影響がじわじわと広がり、その年から採用数を大幅に減らしたのである。
記者職はそのうち60数名だった。みんな県庁所在地にある支局に散っていった。私はなぜか県庁のない「つくば支局」だった。振り出しからみんなとはすこし違うレールを歩んできたのかもしれない。
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あれから28年。私のように退社した者はまだ少数であり、多くの同期は会社にとどまっている。みな50代に入って部長になったり、編集委員になったり、さまざまだ。
今年はというと、新入社員は社会人採用を含め51人。そのうち記者職(編集部門)は22人である。その中には航空部や校閲センターなど専門職がおり、一般的な記者として地方に赴任するのは12人だった。
かつてはすべての県庁所在地の支局に新人記者を2〜3人ずつ振り分け、そこからあふれた記者は「つくば支局」のように県庁所在地ではない小さな支局に配置された。地方支局では入社1〜5年目の若手記者が希望の部署(政治部、社会部、経済部など)を目指してしのぎを削り、活気があった。
今年、地方に配置される12人の赴任先は、盛岡、さいたま、千葉、横浜、名古屋、神戸、福岡のみ。地方取材網は記者の高年齢化かつ少人数化が進み、足腰が弱っていると聞く。
新人記者の12人は大切に育てられるのだろう。「仕事は先輩から盗み取れ」というばかりで記者教育などほとんどなかった昔と比べ、それはそれで良いことなのだろうが、新聞社の凋落をリアルに映し出す「新入社員事情」といえるかもしれない。
いまや終身雇用を前提に新聞社に入る若者はほとんどいないだろう。新聞社の未来は暗い。
しかしジャーナリズムの現場で経験を積んで取材のノウハウを学ぶには新聞社はまだ利用価値がある。日本において新聞社以外のジャーナリスト養成機関は十分に育っていないのが実情だ。いずれ独立することを目指して基本的な取材スキルを身につけて欲しい。新人記者たちの奮闘を期待している。