「デジタル庁」に続いて「こども庁」の創設を打ち上げた菅義偉首相。悪趣味の「組織いじり」にしか見えないのだが、本人は今年の解散総選挙を見据えた目玉政策のつもりのようである。
首相肝いりの「新しい役所」が誕生するとそこに莫大な予算がつくのは永田町・霞が関の常識。政治家や官僚は早くも「こども庁」に熱をあげている。心から子どもや子育て家庭のことを考えているのならよいのだが、彼らの頭を占めているのはいつものごとく、新たな事業を新たな政治献金や天下りポストの獲得につなげる「利権争奪戦」であろう。
「こども」も「大震災」も「コロナ」も、すべては「利権のタネ」となる。かくして膨大な税金が消えていく。
ほんとうにこどものためになる政策とは、教育格差を是正し、貧富の格差が世代を超えて固定化する不条理な社会を改善することであると私は思う。「こども庁」創設が単なる利権争いの場とならぬよう、しっかりと監視していかなければならない。
「こども庁」には「利権」の立場からの疑問に加え、もうひとつ重要な視点がある。教育研究者で土佐町議の鈴木大裕さんは、集英社新書編集部のキャンペーン『「自由」の危機』に寄稿した『新自由主義時代の「富国強兵」教育』で、「こども庁」には自民党政権による「教育への政治介入」を進める狙いが隠されていると警鐘を鳴らしている。
第一次安倍政権が「戦後レジームからの脱却」を掲げ、憲法改正に先駆けて実現させたのが2006年の教育基本法改正だった。鈴木さんはこの改正の意味を以下のように記している。
旧教育基本法の最後にあった第10条には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と明記されていた。それは言い換えれば、教育における政治の責任はあくまでも教育が行われる環境を整える教育条件整備に専念することであり、「何を教えるか」などの教育内容には立ち入らないとの制約的な意味があったのだが、改定によってその重要な部分が削除されたのだ。
戦後憲法の根幹をなす理念は「個人のために国家がある」だった。国家が暴走しないように憲法で国家権力を縛る「立憲主義」が重視されてきた。それをひっくり返し、「国家のために個人がある」という戦前の価値観を復活させることを目指したのが、第一次安倍政権が掲げた「戦後レジームからの脱却」であった。そうした価値観を社会に浸透させる第一弾の手段として断行されたのが教育基本法の改正だった。
第一次安倍政権は2007年参院選に惨敗して失速。自民党政権は迷走し、2009年に民主党への政権交代が実現した。ところが民主党政権は消費増税を巡る党内闘争で迷走し、たった3年で自民党の政権復帰を許す。政権に返り咲いた安倍氏が第二次政権で進めたのはやはり「戦後レジームからの脱却」であった。特定秘密法の成立(2013年)や集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法の成立(2015年)など次々に「国家のために個人がある」という価値観を政策として実現していったのだ。
私は菅義偉首相を安倍前首相のような右派とは思っていない。むしろイデオロギーよりは実体権力を維持するための「利害」に関心がある政治家だと思っている。菅首相が「こども庁」創設を打ち上げた狙いは、教育基本法改正の延長線上にある「戦後レジームからの脱却」というイデオロギーの追求よりも、新しい組織の誕生が生み出す「利権」を政財官界にちらつかせることで政権の求心力回復をめざすことにあると私はみている。
一方で、菅首相の政権基盤は、安倍政権が国政選挙6連勝で獲得した衆参両院の圧倒的議席に支えられているのも事実だ。「こども庁」が菅首相の意図を超え、「国家のために個人がある」という価値観を教育現場に広げる装置と化す恐れは否定できない。実際、安倍政権が積み残した「学問の世界への政治介入」が菅政権になって表面化したのが、日本学術会議会員の任命拒否問題であった。安倍政権の「教育への政治介入」が菅政権下でさらに激しくなる恐れは非常に大きい。
こうした「教育への政治介入」は「学力向上」の名目で推進されるーー。鈴木さんが強調するのはその点だ。
第一次安倍政権が教育基本法改正に続いて2007年に断行したのが、全国学力調査の43年ぶりの復活だった。全国の小学校6年生と中学校3年生の全員が参加する形式で学力テストを実施したのだ。「調査」のためなら抽出式で十分である。あえて全員参加型にしたのは、学力テストで全国の学校を競わせ、その結果で学校を序列化し、画一的な管理統制を強めることに狙いがあるのは容易に想像できた。民主党政権は抽出式の調査に戻したのだが、安倍氏は第二次政権に返り咲くと再び全員参加型に戻したのだ。
安倍長期政権下で、学校間の点数競争が激化し、序列化は着実に進んだ。独自の学力テストを実施する自治体も増え、東京や大阪の都市部では行政が各学校に「結果責任」を迫り、各学校が生き残りをかけて生徒を奪い合う「市場型」学校選択制が広がりつつある。「公教育の市場化」が一挙に加速したのだ。そして「学力向上」の名の下に教育の数値化・標準化が進み、国家が学校現場を画一的に管理統制しやすい環境が整ったのである。
その先にあるのは、一部の裕福なエリート層のみが個性豊かな上質の教育を受けて「上級国民」となり、画一的な管理教育で同調圧力の強い社会に押し込められた大衆を、何世代にもわたって統制・支配していくという「階級格差が世襲化され固定化する国家」だ。
鈴木さんが米国で「教育の市場化」が進む実態を2016年にリポートした『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』は、いずれ日本にもその波が押し寄せることに警鐘を鳴らした名著だ。私はそれを読んで鈴木さんを知り、「論座」への寄稿を依頼したのが彼との出会いである。その後の日本は、まさに鈴木さんが警告したとおりの道を歩んでいるのだった。米国ではすでに「教育の市場化は失敗だった」との総括が進み、教育格差を是正する試みが始まっているのに、日本は周回遅れで「教育の市場化」に突き進もうとしているのである。
「こども庁」に官民の新自由主義者がなだれ込み、「学力向上」の名の下に「教育の市場化」が推進され、教育格差がますます広がるという事態を招かないように、しっかり監視していかなければならない。