新聞社の後輩である石川智也記者が著した「さよなら朝日」という本が刊行される。私の「新聞記者やめます」より衝撃的なタイトルである。しかも本当に新聞社を辞める私と違って、彼は新聞社を辞めないというのである。会社にとどまりながら、このタイトル。いやはや大胆だ。
本の内容は石川記者が言論サイト「論座」に寄稿した記事の数々を再構成したもの。その「論座」で彼を担当した編集者は、なんと私であった。
石川記者はフェミニズムから憲法9条まで「リベラル」が掲げる論調の矛盾を「リベラル」な立場から徹底的に突いている。そうした記事の数々に興味を持った柏書房という出版社が書籍化を提案し、会社も了承したのだが、実は私は書籍化の話を聞いていなかった。石川記者も論座編集部も退職届を出して有給休暇に入った私に気を遣い、あえて知らせなかったのだろうと勝手に推測している。
私は会社の別の同僚たちからこの話を聞いた。彼らは一様にこのタイトルに驚いていた。よく会社が通したものだと口々に語っていた。ほどなく石川記者から私に本が刷り上がったので持参すると連絡があり、久しぶりに彼と会った。
確かに表題は「さよなら朝日」である。帯には「こんなこと書いて大丈夫か!?」「黄昏ゆくリベラルにささげる決死の論考集!!」とある。そして文芸評論家の斎藤美奈子さんが「こういう記者を辞めさせない会社も偉いと思います」と推薦文を寄せている。私も素直にそう思った。あとがきには「論座」の担当編集者であった私への謝辞もある。
煽りに煽った帯とは対照的に、本の中身は極めて精緻な論考であることは、「論座」の担当編集者であった私が誰よりもよく知っている。石川記者は生粋のリベラルである。徹底的に論理を追求する記者である。よく言えば知性主義、悪く言えば頭がかたい。
政治記者として清濁併せ呑む世界に長く身を置いた私は、彼とディスカッションするたびに、論理構成の矛盾を突かれた。私が担当編集者として「論理的には筋が通っているけど、これで読者の共感を得られるかなあ」とやんわり妥協を促しても、彼は決して譲らない。「自称リベラル」たちが口にする論理矛盾を許せないようだった。「真正リベラル」とは彼のような人のことを言うのであろう(彼のいう「リベラル」とは何かは、ぜひ「さよなら朝日」を手にとってご確認いただきたい)。
その彼がこんなに大胆なタイトルの本を出すとは思わなかった。「正義」や「信念」を貫くと、人は思わぬ大胆な行動に出るのかもしれない。もちろんタイトルを決定したのは出版社なのだが、執筆した彼が納得しなければタイトルになるはずがない。
本をめくると、論理の人・石川記者はまえがきでタイトルに込めた意味を丁寧に論じている。「新聞社の中にいながらにして、自社の報道を含めたリベラル勢力の矛盾や問題点を問う行為」の意味を説明している。そして「たとえ社内少数派になろうとも、連帯を求めて孤立を恐れず、という姿勢を自らに課し、これまで新聞紙面で書いてきた『多くの人に読まれる』記事の制約をとっぱらって書いたものだ」と決意を示し、「心情的には『朝日新聞への挑戦』という気持ちが多少なりともなかったわけではない」と吐露している。
文章はかたいが、なんとも、あつい。
石川記者はあとがきで「記者に論はいらないのか」と問題提起している。新聞社は「四の五の理屈を言うな」という伝統が強く「論よりファクト」を重視する。そして、記事を書く者の「主体性」を極力排し「公正中立」を装っている。そうした報道姿勢が逆にメディアへの信頼を減退させているのではないか。むしろ書き手の立場を鮮明に示したうえ、読者に対して説得力のある「論」を提示することで信頼を獲得すべきではないのか。そういう問いかけだ。
まったく同感である。
そして、連帯を求めて孤立を恐れず。これはSAMEJIMA TIMESとも軌を一にする理念である。私がこのホームページで呼びかけた「筆者同盟」はまさに「連帯を求めて孤立を恐れず」という着想で始めたのだった。筆者と編集者の関係を3年も続けると、どこかしら感性が似てくるものだ。
私は新聞社を離れ、「小さなメディア」を目指す。石川記者は「巨大新聞社」にとどまり、内部から批判して立て直す。道は違えど、目指すべきものは同じである。
志をともにする新聞記者たちの主体的な動きがあちこちから湧き上がることを期待してやまない。
追記:私が抜けた後の「論座」の編集者に石川記者が加わるそうだ。私はこの人事も知らなかった。今後の「論座」も楽しみである。