サクラが咲いた。春だ。
九段下の駅から続く坂道は袴姿の女子大生で華やかだった。日本武道館での卒業式が終わったのだろう。千鳥ヶ淵は七分咲き、靖国ははや満開。
ことしのサクラは早い。卒業旅行もコンパも制約されてきた大学生たちの門出に間に合ってよかった。どの顔も輝いていた。
ことしも別れと出会いの季節がやってきた。
私は31年前の春、四国・高松から京都へ進学し、北白川で一人暮らしを始めた。家賃1万円台の六畳一間の離れ。風呂はおろかトイレも水道もない。底冷えの厳しい朝晩、屋外の洗面所で歯を磨くのは辛かった。母家にはいかにも京都人という大家さんが暮らしていた。たくさんのネコを飼っていたなあ。
国公立大には苦学生が集まるというのはすでに昔話だった。東大や京大の学生の実家は有名私大生より裕福だと言われる時代になっていた。「貧富の格差」がもたらす「教育の格差」によって「階級の格差」が世代を超えて固定化するという悪循環がすでに進行しつつあった。大学の友人のほとんどはフローリングのワンルームマンションに下宿していた。
早くお金を貯めて引っ越そうーー。私は入学していきなりアルバイトに明け暮れた。引越し、皿洗い、塾講師…。とにかく必死だった。サクラの記憶はまったくない。
27年前の春、新聞社に入社した。初任地は茨城県つくば市だった。新人記者はふつう県庁所在地の支局に赴任し、警察取材を担当する。私は違った。同期から「まあ、気にするなよ」と言われた。私はのっけからコースを外れたと思われているようだった。
当時のつくば支局は赤い屋根の一軒家だった。あたりには畑が点在していた。そこに支局長が暮らし、その一角にオフィスがあった。記者は支局長以下三人。支局長は科学部出身でもう一人も科学部の記者だった。そして、私。研究学園都市つくばで私は科学以外のすべてが担当だった。
全国の県庁所在地に散った同期たちが警察官の朝駆け夜回りに明け暮れる中、私に課せられた仕事は「毎日少なくとも一本は写真付の街ダネを茨城県版に出稿する」ことだった。
この日々は楽しかった。真新しい一眼レフを片手にひたすら街を歩いた。当時はフィルム時代である。県庁所在地の支局にはカラー現像機が配備されていたが、つくば支局には暗室しかなかった。私は毎日モノクロフィルムで撮影し、暗室にこもって写真を焼いた。
赴任した時はすでにサクラは散っていた。何か写真をとってこいと言われ、近くの菜の花畑へ向かった。そこで幼い姉と弟が遊んでいた。私は入社するまで一眼レフなど触ったこともなかった。夢中で連写した。支局に帰り、薄暗い赤色のランプのともる暗室で、写真の焼き方を教わった。
モノクロフィルムを現像液そして定着液につけて取り出した時はドキドキした。24枚のフィルムのうち姉と弟がまともに写っているのは1枚しかなかった。けれども、暗室で印画紙に浮かび上がった姉と弟の笑顔は、はちきれんばかりに輝いていた。その写真は翌朝の茨城県版の真ん中に大きく載った。私の最初の記事である。
同期たちは大概、二人一組で県庁所在地の支局に配置され、県警記者クラブに一緒に配属され、警察取材で競わされていた。警察官にとにかく食い込み、情報を教えてもらうことにしのぎを削っていた。同じ会社の同期に加え、同業他社の若手記者たちはみんなライバルだった。他社に先駆けて記事を書けば褒められ、他社に抜かれたら叱られた。私とはまるで違う暮らしであった。
新聞記者のほとんどは警察取材から記者人生を始める。その後、政治、経済、社会、文化、科学など専門分野に散っていくが、駆け出しの警察取材時代の「他社に抜かれる」「特落ちする」という怯えを心のどこかでずっと引きずっている。
つくば支局が振り出しの私には、それがない。同じ新聞社の同期ばかりか、同業他社にも新人記者はひとりもいなかった。各社の記者の大半は科学専門の記者だったのだ。地元のつくば中央警察署に毎日顔を出す記者は私一人だった。私は朝駆けも夜回りもすることなく、つくば中央警察署の警察官たちに溶け込んだ。他の記者が集まるところへ行くのではなく、他の記者が行かないところを回るのが取材の秘訣であることを、期せずして知ったのだった。
誰とも競わされず、のびのびと街を駆け巡った初任地でのスタートは、私のその後の自由奔放な記者人生に大きく影響したのではないかと思っている。
あれから28回目の春、私は新聞社を去る。実は50歳の誕生日を迎えることしの秋に退職するつもりでいた。そこへ会社がこの春に早期退職制度を募集したため、半年ほど退社がはやまった。
いざ退職届を出してみると、新しい一歩を踏み出すのは、秋より春がいい。やはり春には芽を吹くエネルギーがある。咲き誇るサクラをみてそう思った。ここは会社に感謝することにしよう。