他人の原稿に手を入れるとロクなことはないということをお伝えするため、10年前の政治部デスク時代に部下たちの原稿に手を入れまくった「愚行」をこの連載で告白したところ、「デスクとして勝手に原稿を書き換えていたのか!」というお叱りをずいぶんいただいた。マスコミ界出身の方からも以下の青木俊さんのような疑問が出ているくらいだから、一般の方々には政治取材の実像がまったく伝わっていないのだろう。改めてそう実感した次第だ。
私のTwitterをご覧になっていただいている皆様は、私が政治報道の現状に極めて否定的であることを承知されていると思う。首相記者会見やオフレコ取材・オフレコ会食など政治取材のあり方が時代にあわなくなったのは紛れもない事実だ。デジタル時代が到来して政治取材の悪弊が可視化され、政治報道への不信を増幅させているのは間違いない。それら政治報道に対するご批判のほとんどは極めて的を得たものである。
一方で、政治取材の現場が世の中にあまりに知られていないため、そうした批判が当事者である政治記者たちにまっすぐ受け止められていない側面があるのも事実である。例えば「政治記者は政治家と寿司ばかり食っている」とか「官房機密費から裏金をもらっている」とかは、少なくとも現代においては実態とかけ離れている。批判する方と批判される方の認識がかみあわず、議論が交錯するのはジャーナリズムの発展にとってマイナスだ。
私は古い政治取材の世界にどっぷり浸かってきた旧来型政治記者である。一方、偶然にも調査報道に専従する特別報道部に立ち上げから深くかかわってきたため、政治部を外から眺める機会に恵まれ、政治報道の悪弊を客観視することができた。その意味では異色の政治記者でもある。政治取材の良いところ、悪いところを洗いざらいに打ち明け、政治報道をめぐる議論を整理するのは、新聞社を去る私に課せられた重大な使命であろう。
きょうは「政治記事の『署名』は何の意味があるのか?『文責』を示すものではないのか?」という青木さんの疑問にこたえたい。
結論からいうと、政治記事の末尾につけられた政治記者たちの「署名」の多くは、読者にとって何の意味もない。だから本来は不要なものだ。それは政治家取材に明け暮れる政治記者たちへデスクやキャップからの「ご褒美」であり、さらにいうなれば、デスクやキャップが部下の求心力を得るための「カード」でしかない。なぜなら、政治記事の大半は、ひとりの政治記者がひとりで取材し、ひとりで執筆するものではないからだ。
私の新聞社の政治部は、永田町・霞ヶ関に30〜40人の現場記者を配置している。大部分は官邸クラブ、与党クラブ、野党クラブ、霞クラブ(外務省)といった記者クラブに所属し、「番記者」として特定の政治家や特定の派閥に張り付いている。
朝は政治家の出勤を自宅前で待ち、夜は帰宅を自宅前で待つ。日中は政治家の記者会見に出席し、政治家の会談を取材し、政治家とのオフレコ懇談に出る。時にそれは会食付きとなる。その合間に政治家をサシで捕まえ、電話し、よりディープな情報を得る。その政治家の周辺〜側近の政治家、官僚、支持者、秘書、家族ら〜も徹底的にまわり、四方八方から食い込んでいく。そして日々、それら取材の結果をメモにまとめ、デスクやキャップにメールで送るのだ。はっきり言って、腰を据えて原稿を執筆する余裕はない。「執筆」より「取材」優先。これが政治部で長く受け継がれてきた「番記者制度」の実態だ。
デスクやキャップは30〜40人から日々送られてくる取材メモにくまなく目を通す。記者一人が1日に書く取材メモは数本はある。永田町・霞ヶ関のあちこちで、さまざまな政治家や官僚が記者会見をしたり、国会で答弁したり、オフレコ懇談をしたり、発信しまくっている。それらを放置するのは勇気がいる。だからその大部分は取材メモとなる。
さらにサシ取材や電話取材のメモには「完オフ」の指定がされている。それらの情報は玉石混交だ。政治家が自らに有利に政局が運ぶことを狙って意図的に垂れ流す「フェイク」も少なくない。
デスクやキャップはそれら日々の取材メモを見ながら、それぞれの情報をクロスチェックし、各記者がつかむ情報の「確かさ」を判定し、政権内のどこに実体権力があるのかという権力構造を理解し、それぞれの政治家の発言の重みを認定し、そのなかから読者に伝えるべき情報を濾過して抽出し、アンカーとして記事をとりまとめる。
デスクやキャップが自ら取材し、情報を得たり、ウラを取ったりすることもあるが、彼らに最も求められるのは、現場記者たちからあがってくる膨大な情報を取捨選択し、何か真実かを見極め、読者にわかりやすく伝わるように原稿を執筆する能力なのである。膨大な情報の解析とそれに基づく執筆こそ、キャップやデスクに課せられた最大の仕事なのだ。
こうした政治取材の手法が良いか悪いかはきょうは深入りしない。私は改善すべき点が多々あると思っている。いずれ私自身が長年行ってきた政治取材の裏側を具体的なエピソードを交えて紹介し、その功罪を明らかにしたいと思っている。
一方で、こうした「番記者制度」が続いてきたことにもそれなりのわけがある。その最たるものは、時の政権を取材し、いま政権内で何が起きているのかを毎日の紙面で時事刻々伝えるには、とてもひとりの記者では無理だということだ。ひとりで政権の全体像を理解するには、永田町・霞ヶ関に幅広い人脈を張り巡らし、さまざまな政治局面を経験し、鋭い分析力・洞察力を身につける相当なキャリアが必要となる。そうした政治記者に育つのは、ほんの一握りだ。そして、それらの能力が備わったとしても、毎日の紙面をつくるだけの情報量とスピードをひとりで取材するのは到底無理だ。
話を青木さんの指摘に戻そう。政治記事の『署名』に何の意味があるのか? 読者にとって何の意味もない。政治記者のやる気を引き出し、デスクやキャップが求心力を維持するための道具にすぎない。だから本来は不要なものだ。
今の政治記事の「署名」は「文責」を示すものではない。記事が間違っていた時に責任をとるのは、デスクだ。いまの政治取材体制を前提とした場合、「文責」を明記するとしたら、すべての記事にデスクの署名をつけるしかない。その責任の裏表として、デスクには強大な権限がある。だから私はすべての原稿を全面的に書き直すことができたのだった。記事の優劣の大部分は、デスクの能力によるのだ。
もちろん、自分の勝手な思いで書き直していたのではない。すべての政治部員たちの取材と自分自身の取材を踏まえ、記事の最終責任者として書き直していたのである。デスクによって個人差はあるが、大なり小なり、政治部デスクたちの仕事は似たようなものであろう。
こうした政治記事の作成プロセスを変えるには「番記者制度」を前提とする政治取材の分業体制を根本的に改める必要がある。それは「政治記者が伝えるべき情報とは何か」という根本的な問いと向き合うことから始まる。そこを怠ってきたことが、いまの政治報道不信を招いた根本原因であると思う。
旧来依然たる政治取材の現場に長く身を置いた反省を踏まえ、私には具体的な政治取材の改革案がある。これから様々な場においてそれらを提案していきたい。