政治を斬る!

新聞記者やめます。あと89日!【新聞記者は文章が下手?】

10年前に政治部デスクになってから、たくさんの新聞記者の原稿を読んできた。その経験からして確実に言えるのは、新聞記者は文章が下手だということだ。

もちろん、例外はある。味わいのある文章を書く記者、切れ味のよい文章を書く記者、軽やかな文章を書く記者…。そうした記者は確かにいる。だが、彼彼女らは天賦の才の持ち主か、人知れず努力を積み重ねたかのどちらかであろう。

新聞社には文章の書き方を教育するシステムがない。新聞記者に上司が求めるのは、文章を書くことではなく、情報を取ることなのである。新聞記者の第一の仕事は「執筆」ではなく「取材」なのだ。

ふつうの会社でいえば「企画」や「広報」よりも「営業」に近い。政治家や官僚を夜討ち朝駆けする日々。お客さんを口説いて「お金をもらう」代わりに「情報をもらう」のだ。その立ち振る舞いは「夜のセールスマン」といえなくはない。

そうして得た情報を「取材メモ」にしてデスクやキャップに渡す。この「取材メモ」が新聞記者の人事評価を決める。「取材メモ」は一般の読者向けに書く記事と違って、あくまでも新聞記者同士に伝わればよく、所詮は社内文書だ。「営業レポート」のようなものである。

自ら原稿を書く場合も腰をすえて執筆に向き合うことなど滅多にない。今日起きたことを明日朝刊の締め切りに追われドタバタの中で書き上げる。重要なことから順番に、余計な要素を削ぎ落とし、簡潔にまとめる。だから、書くのは速い。でも、味気はない。深みがない。無機質だ。

なかでも政治部の記者は自ら原稿を書く機会が極端に少ない。ひたすら取材してメモを書く日々。読者が目にする政治記事の大半は政治記者たちの取材メモをもとにデスクやキャップがアンカーとしてとりまとめたものである。だから、良くも悪くも淡白だ。中堅若手の政治記者は、文章を磨く訓練がまったくできていない。

ジャーナリズムはそれでよいのかというと疑わしい。現場の記者が読者に向けて文章を書くことなく、政治家や官僚への「営業」に明け暮れていることが、「読者目線」ではなく「権力者目線」の報道を生む大きな要因かもしれない。

ただ、ここではジャーナリズム論には深入りしない。いま言いたいのは、新聞記者は概して文章が下手だということである。

私も下手だった。取材メモばかり書いている典型的な政治部記者だった。幸運だったのは30代はじめの1年半、政治部を離れ週刊誌に在籍したことだ。

当時の政治部は「将来の書き手」を育てるため、中堅若手記者を時々週刊誌に送りこんでいた。私はたまたまその人事対象となった。

週刊誌記者の生活は新聞記者とまるで違う。毎週4ページから6ページの記事をひとりで書きまくる。しかも自分が執筆した記事がどれほど読まれたかは数字に出てくる。どこまでも「読者目線」で書くしかない。読んでもらわないと意味はない。政治家や官僚に「営業」しているだけでは務まらない。

取材メモばかり書く日々は一変した。毎週の原稿締め切りは土曜日の昼。金曜日の深夜からキーボードをたたく。でも書けども書けども規定の行数に届かない。新聞記事の何十倍ものボリュームだ。そんな長い記事を書いたことはなかった。

新聞記事のように余計な要素を削ぎ落とし簡潔に書いていたら、とてもじゃないが週刊誌は埋まらない。長文を読ませ切る技術が不可欠だった。私は当初、金曜日の夜が苦痛で仕方がなかった。

ある日、週刊誌の先輩記者に泣きついた。この先輩のアドバイスが実に軽快だった。

「鮫島くん、原稿を膨らまそうと思って、後ろに向かってダラダラ書いたらドツボにはまるよ。そんな記事は、みんな途中で読むのをやめてしまう。原稿というのはね、前に向かって膨らませるんだ。まずは書きたい本文を書く。それでも行数に達しなければ、その前に文章をどんどん付け加えていくんだよ」

前に向かって膨らませる? 私はピンとこなかった。先輩は続けた。

「うん。前に膨らませるんだ。記事でいちばん伝えたい本文とは、ちょっと離れた内容でもいい。肩の力を抜いて、軽く書く。そのあとに改行して『それはさておき』と入れ、本文に続ける。それでも足りなければ、もうひとつ軽い話をはさみ、今度は『なにはともあれ』と入れて本文に続けるんだよ。そうすればあっという間に6ページでにも8ページにもなる」

これが週刊誌記者の熟練の技なのか。度肝を抜くニュースを毎週にように掘り起こしてインパクトの強い「本文」を書き続けるのは困難だ。それでも読者をそれなりに楽しませる読み物を提供するには「本文」の前に置く「軽快な話」が時に必要だというのである。

もちろん、この「軽快な話」が面白くなければ目も当てられない。それを書く技術は、週刊誌記者たちのさまざまな人生経験に基づいた「多くの引き出し」とそれを軽やかに描く「文章力」に支えられたものなのだろう。それがプロというものだ。プロの書き手にとって日常生活の喜怒哀楽のすべては「ネタ」なのだ。原稿が面白くないのは、人生経験が乏しいからだ!

新聞記者とはまったく違う世界だった。私は先輩の助言ですこし楽になった。そうか、自由に楽しく書けばいいんだ。記事とはこういうものだという思い込みがいけなかった。もっと自由に、もっと大胆に、楽しく書こう!

私は原稿を書くのが大好きになった。金曜日の夜が待ち遠しくなった。何ページでも書ける気がしてきた。週刊誌の任期を終え、政治部に戻ると、同僚たちは実に辛そうに原稿を書いていた。それは「表現」ではなく「業務」だった。近年、辛そうに原稿を書く新聞記者がどんどん増えてきた。

ネット時代が本格化し、「週刊文春」はじめ週刊誌の方が新聞社より元気だ。私の知り合いでも、週刊誌記者の方が新聞記者よりは楽しそうに取材し、楽しそうに記事を書いている。

「取材」と「執筆」は切り離せない。新聞記者が「書く喜び」を取り戻すことが、新聞再建の第一歩であろう。

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