退職届を出した後、私が最初にしたのは有給休暇について人事部に問い合わせることだった。
新聞記者歴27年。ほんとに休みを取らなかったなあ…。最後くらい、しっかり労働者の権利を行使してもいいだろう。なにしろ、退職後の身の振り方は白紙なのだ。新しい一歩への助走期間は少しでも長いほうがよい。
私は自分の会社の有給休暇の仕組みを初めて知った。毎年4月に1年分が付与され、ちょうど2年で消滅する。今、私の手元に残っているのは今年度分と昨年度分のあわせて47日。昨年度分は3月末に消滅するのだが、驚くべきことに5月末に退社する私にも4月になれば新年度分がまるまる付与されるというのだ。
そのほかにもリフレッシュ休暇や永年勤続休暇がほぼ手付かずで残っていた。
つまり、である。昨年度分を3月末までに消化し、今年度分と新年度分を4月と5月に消化すれば、私は5月末まで毎日休んでも有給休暇は余るのだ。
なんてサラリーマン記者は恵まれているのだろう! もっと早く気づけばよかった…。
警察取材に明け暮れた駆け出し時代は昼夜問わずポケベルがなった。政治家を追いかけた政治部時代は土日はほぼ出張だった。夏休みも冬休みもパソコンを持ち歩き、休暇取得と引き換えに残していった原稿をチェックした。政治部デスクの2年8カ月はパソコンを開けない日はなかった。いつも何かに追われていた。慌ただしい記者人生だった。
NHK若手記者が過労死するなど報道機関の長時間労働が社会問題となったここ数年、新聞記者の「働き方」は激変した。政府の「働き方改革」の掛け声に応じ、新聞社の上層部が急に「休みを取れ」と言い出したのだ。
政府は「記者の長時間労働」を口実に取材を抑圧できる。かつての長時間労働も酷かったが、国家に同調して「働きすぎるな」と社員に号令をかける新聞社の姿にも違和感があった。他社の友人は政治部長になって「仕事は労働時間の管理ばかり」とぼやいていた。
新聞社の管理職はいまや権力監視どころではない。記者の労働時間が超過しないように適正に管理することを会社から強く迫られている。「記者の労働管理」にさえ失敗しなければそれなりに役職が上がっていく。
新聞記者という仕事は労働時間での管理になじまない。そもそもジャーナリズムは年功序列・終身雇用の会社員になじまないのだろう。
諸悪の根源は「労働時間」の長さなのか。ベンチャー起業家のように主体的に働けば労働時間は苦にならない。心身ともに堪えるのは労働を強制されるからだ。根本的な問題は「労働時間」ではなく、上位下達の「働き方」、主体性を尊重しない「職場のあり方」にある。
私は調査報道に専念する特別報道部の次長を務めた2年余、組織運営を大改革した。およそ30人の記者は全員担当なし。ノルマなし。年功序列なし。会議は参加自由。主体性を重んじ、一切の管理をやめた。もちろん記者クラブなどには入らない。「埋もれた事実」「隠された事実」を掘り起こす調査報道に全集中するのである。新聞記者の宿命である「他社に抜かれる」「原稿を出さねば」という日々の怯えから全員を解放したのだった。
そのうえ、記者はデスクを選び、デスクは記者を選べるようにした。そりのあわない上司や部下と一緒に働く必要はない。社内のつまらない人間関係こそ、オリジナリティを損なう最大要因である。取材チームの編成も各記者の自由意志に任せた。徹底した自由放任主義である。特別報道部にはそれなりにキャリアを積んだ中堅記者が集まっていたので、それで十分にやっていけると判断した。
大胆な実験だった。私は、日々の制約に一切縛られないフリーでフラットな新聞記者の集団を、一度は作ってみたかったのだ。
自由ほど厳しいものはないかもしれない。記者たちは当初、何をすればいいのか戸惑っていた。私は「われわれは何かを追いかける仕事ではない。掘り起こす仕事だ。毎朝起きて、今日は何をしようと考える。これが大切」とだけ言った。調査報道は地道な取材だ。やらされ仕事では長続きしない。やりたいテーマを自分で決め、ひたすら掘り起こす。主体性が何よりも重要なのだ。その結果、特別報道部として一本も記事を出せなければ仕方がない。部長や次長が責任をとればよい。
記者たちは生き生きしてきた。想像以上に活躍した。次々に「埋もれた事実」「隠された事実」を発掘し、一面でスクープした。この2年余は充実していた。新聞社の中に「理想の職場」ができたと実感した。
で、そんな「理想の職場」はその後、どうなったの? その話はまたの機会に。