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福祉・介護のある風景(34)小さなやさしさ~橘 世理

『背伸び』

背の低い私は、この日も背伸びをした。

近所のドラッグストアに母の尿取りパットを買いに行くのが日課だが、いつも買う商品は、棚の一番上に置いてあるので、少し見上げることになる。子どもの頃から見上げることに慣れているので、こういう事は気にもしない。

背伸びをすれば、棚の一番手前の尿取りパットは取れた。60個入りで重さは、2キロちょっとはある。。買いに行くときは、2個買うが、この日は棚にある次のパットが奥に引っ込んでいた。背伸びをしてさらにジャンプをしないと取れない。いや、そうしても取れないかもしれないと思った。親を介護する年齢になっても背は伸びるわけもないので、小学生の頃と同じ事をしなければいけない。

一番上は商品を積む


よし、ジャンプして取るぞ、と思ったとき、「もう一つ要りますよね」という声が聞こえた。その口調がさり気なく角がなかったのは、私に警戒心を抱かせないためだろう。声が聞こえたと同時にピンク系のパッケージに入った尿取りパットは、私の目の前にあった。

「ありがとうございます、助かりました」。彼女は、私よりも10㎝ほど背が高く、背の低い私を見かねて取ってくれたのだ。背が低いために棚の上段にある物が取れないのは慣れっこだ、店員がいない、台も無いときは、あきらめることもある。

背の低い私は、このときのように近くにいる人が助けてくれることもある。取ってくれた人には、他愛のない小さな事かもしれないので、何度も頭を下げた私が大袈裟に映っただろう。

だが、尿取りパットがひとつしか買えないと、また近いうちに買いに来なければならない。介護や仕事で忙しく頻繁に買い物へ出られないので、それを考えると背の低い私には、大きな幸いだった。見ず知らずの人の優しさが身に沁みる瞬間に感じた感謝を忘れないようにしたい。

『薄情者』

自宅から一番近い乗換駅では、朝から晩まで絶え間なく大勢の人が往来している。皆、速足だ。なにをそんなに急いでいるのかわからないが、周囲に合せて速く歩かないと流れに乗れない。もたもたしていると「速く歩けよ!」と背後でせっ突かれているような気がするのだ。改札の近くはとくに恐い。電車が着くと改札から一気に人が出て来て人の川ができる。その流れに割って入らなければならないときは、「お願い、私を避けて」と思いながら進む。

私は小柄だ。大柄な男性にぶつかれば軽々と、それこそ風船のように飛ばされるだろう。混雑している乗換駅を使わなければならないときは、貰い事故が起きないようにドキドキしながら利用する。ましてや私は左脚に軽い障害があり、誰かとぶつかるとバランスを崩し転倒しやすい。

先日、乗換駅を使ったときも、人にぶつからないように歩いていると、視線の先に左右に振られる白杖が見えた。その人が見えなくなるまで気に掛かったが、不規則な動きをする「人の川」のせいで私は白杖を見失った。無事に目的地まで行かれますようにと祈る。それは自分自身への小さな祈りでもある。

この駅の改札は2階にある。階下にはスーパー・マーケットがあり、そちらへ直接行かれる下りエスカレーターがあるので、私はそのエスカレーターへ向かった。すると先ほど先方に見えていた白杖利用者がエスカレーター横の壁の前にいるのだ。

なぜそんなところに?と思ったが、エスカレーターへの乗り場所がわからないのだと気がついた。白杖利用者は、杖の先で壁を突き、周囲の様子を確かめていた。私がここに来るまでの間、彼はずっとこうしていたのだ。不安に違いない。ところが誰一人、白杖を持つ彼に声を掛ける人はいなかった。白杖の先で壁を突き、首を傾げる彼の横を、大勢の人たちが通り過ぎて行く。その光景の中を彼に近づく私は、次第に気が滅入っていった。

日本人は、冷たいよね。そのような話を知人としたばかりだった。

見て見ぬ振りはしない、できない。「私は急いでいる」というのは理由にはならない。自分にそう言い聞かせる。大勢の無関心の中で自分だけ反対行動を取る時、誰か私に味方してくれる人がいると有難いと微かな期待を持つ。だが直ぐにいるわけがないと期待を打ち消して、白杖の彼の背後へ近づいた。

「どうされましたか?」私は心の中で声掛けの練習をする。3、2、1、私は白杖の彼の真横に立った。「どうされましたか?」

「ここは何ですか?」彼は杖の先で壁を突いた。その声が明るかったので安堵した。「下りエスカレーター横の壁です」「そうですか、いつものように曲がったつもりだったのに、間違えちゃった」屈託のない言い方が、駅構内の空気感に緊張していた私を救ってくれた。「下りエスカレーターに乗ります?」「はい」「私も乗るので一緒に行きましょう」「ありがたい、すみません」と彼は恥ずかしそうに笑った。

私は、彼の左腕に腕を組んだとき、彼の目はほとんど見えていないことを知った。私たちのそばを大勢の人が通り過ぎて行き、やはり「どうしました?大丈夫?」と私たちに声を掛けてくる人は誰もいなかった。

私は、下りエスカレーターに彼を案内し、先に乗せた。いつも乗っているのでエスカレーターのスピードもわかっていると彼は言った。その言葉通り、杖先で確認しながらすんなり右足を出して乗った。

階下に着くと「ありがとうございました」と礼を言われた。お礼を言うのは私の方だ。駅構内の人混みに流されそうになり、声を掛ける機会を自ら捨てそうになった薄情者の私の背中を「壁かぁ、参っちゃったなぁ」というやさしい声で押してくれたのだ。「こちらこそ、ありがとうございました。お気をつけて」と言って彼と別れた。私は、左右に振れる白杖が見えなくなるまで見送った。

『共感から小さなやさしさが生まれる』

小学校を卒業して随分長い時間が経過し、「相手の立場に立ちなさい」と教師は喧しく言った。あの頃は、相手の立場に立つという意味がわかるようなわからないような、それほど深く考えてはいなかった。だが、あれから生きながらえて、あの時の教師の年齢を越えた今、漸く「相手の立場に立ちなさい」の意味が解るようになった。その意味とは、相手が何を必要としているのかを想像し、考え、実行することだった。

ドラッグストアで背の低い私のために棚の一番上の尿取りパットを取ってくれた人は、まさに私(相手)の立場(尿取りパットが取れなくて苦労している)に立ってくれたのだ。そして駅構内で下りエスカレーターへの入口がわからなくて困っている白杖の彼については、一見、私が彼の立場に立ったように見えるが、私が声を掛けた瞬間に、立場は逆転したのだ。私に優しく接することで緊張を和らげてくれた。

ドラッグストアの彼女も白杖の彼も、他者の視点や感情を論理的に推し量る能力に長けているのだろう。だからこそ相手が何を必要としているのか、例えそれが小さな事だとしても、正確に察知することができ、応用できるのだ。これを「認知的共感」というらしい。その行動が結果的に親切、やさしさとして表れるのは、情緒的共感も備えているからだろう。

昔、教師から喧しく言われた「相手の立場に立ちなさい」の言葉には、「共感」という大事なものが含まれている。共感する力がなければ、相手を理解する事も、相手の痛みを感じる事もできないので、やさしさも生まれない。

共感は、「困っている人がいたら、助けなさい。寄り添ってあげなさい」と言うだけでは生まれ難い。なぜ困っているのか、その困難を改善するには何が必要か、これを考える事ができる力を養うことが、やさしさを育む土台となる。

人にやさしい社会は、生きていて心地良さを感じるだろう。少しでも先ずは自分の周囲からでも良い、そのようになることを願っている。

※認知的共感ー相手が今、何を考え、どう感じているのかを論理的、客観的に推論し理解する力

※情緒的共感ー相手の感情を自分のこととして感じ取る力

写真:橘 世理

橘 世理(たちばなせり)

神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。