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福祉・介護のある風景(39)弱音を吐ける介護へ~橘 世理

在宅介護を担っている人は、20人にひとりと言われ、厚生労働省の「国民生活調査」では老老介護の割合も年々増加傾向にある。

介護を担っているのは年齢的にも50代以上が多い。私の周りでも50代以上が5人集まれば2人から3人が在宅介護を担っていることもある。老老介護、子が親を介護しているなど様々だ。

介護をしている人が集まれば、「わかるわかる、大変だよね」という労わりの言葉が、相槌のように会話の中で幾度も繰り返される。

介護を担っている人は、こうして大なり小なり弱音を吐いているはずだ。ただ、その弱音の吐き方が本当に弱い場合、SOSが誰にも届かない。

今回は、被介護者ではなく、介護者のケアの事を考えてみたい。

『ある事件の執行猶予の意味』

「気持ちはわかる」。父の介護が30年を過ぎた頃、テレビから流れるニュースを観て母が言った。「なにも顔を映さなくてもいいのに」。母の加害者への同情は、自分の身の上を重ねている。私も複雑な思いでそのニュースを観ていた。

介護の重さに耐えきれず、思い余って親に手をかけてしまった事件だった。このような悲惨な介護に関連する事件が起きるたびに、私は気鬱になる。介護者の苦しみが生々しく感じ取れるからだ。

母が言う「気持ちがわかる」とうのは、そこまで追い詰められてしまった介護者のそれまでの介護生活における苦しみがわかるという意味だ。在宅で、人ひとりの生活を支える事がどれほど大変な事か、母は身に染みてわかっている。

我が家は、父が介護状態になった時に祖母も健在で、店商いをやっていた。介護を助けてくれる親族もいたため、単独介護ということはなかった。だからと言って介護が楽にできたというわけではない。ちょこちょこと手伝ってくれる人たちがいた分だけ、母の介護量が少し減った程度だ。

それでも単独介護よりもずっと良いのは、祖母が母に「すまないね」と言葉をかけ、父の妹夫妻が来ては、情緒不安定になってしまった父の話し相手をしてくれた。話し相手をしてくれる1時間、その間に母は自分の用事を済ませることができた。

もし手伝ってくれる親族も誰もいなかったら。そう考えると、テレビから流れている介護の重労働が原因で起きる事件は、母の身にも起きていたかもしれない。

介護の重労働が原因で起きる人命が失われた事件を耳にするたびに「もっと早く誰かに相談できなかったのか」「なぜ役所へ言わなかったのか」など介護経験の無い人たちたからも放言がある。しかしそれは討論が尽くされるとはならず、安易な判断や憶測交じりの言葉が飛び交うだけで、何ら本質は解決されず、私の心の中には後味の悪さと事件に関わった人達への憐憫の情がいつも残る。

先日も介護に因る心身の過労が引き金で起きた事件が報道された。71歳の娘が102歳の母親を手にかけたのだ。私は、102歳を在宅介護しているという事に驚いた。ケア・マネージャーや主治医はなにをしていたの?と思ってしまう。

この事件での執行猶予が付いた意味の中には、介護をひとりで抱えなければならなくなった時、現在の介護制度の考え方では欠落しているものがあり、被介護者も介護者も救えないというメッセージを裁判官が込めたのではないかと、私なりに思っている。

ひとり介護では車椅子の手配も負担になる


『弱音を吐ける介護へ』

私は、父の長年の在宅介護を終えて現在は91歳の母親の在宅介護を行っている。昨年から今年にかけては、叔父の介護にも関わってきた。今、私は身体介助などの無い福祉関係の仕事に就いているが、交通事故で脚が不自由になる前は、介護士として高齢者施設で仕事をしていたこともある。

それらの経験を通して自分と周囲の介護環境を考える時、ケア・マネージャーの能力と熱意次第で介護環境は大きく左右されることがよくわかった。

「この人たちは、今のままで在宅介護が続けられるだろうか」という視点を常にケア・マネージャーが持っている場合、介護者へのアプローチの幅が広がる。このようなケア・マネージャーは、在宅介護はもう無理だと判断した時にきっちり線引きができるのだ。簡単に言うと、「在宅介護はここまでです」と線を引いてくれる。在宅介護における引導を介護者に渡すと言ってもいいかもしれない。

ただ、例え「在宅介護はここまでです」とケア・マネージャーが言ったところで、在宅介護を止められない家族もいる。そこには様々な葛藤や、介護を止める事による罪悪感もあり、一朝一夕にはいかない。被介護者が「施設には行かない」と言い張れば、施設に入れる条件が整っていても在宅介護を続けなければならない。

そうなると介護者の抱える苦悩や不安は、「仕方がないので、まだ介護を続けます」という言葉に置き換わってしまう。でも腹が据わっているケア・マネージャーならば、介護者家族がそう言うのだから仕方がないとそこで諦めることをしない。私はそのようなケア・マネージャーを知っている。

在宅介護はすぐには止められないけれど、介護者の弱っている心の声を訪問時に引き出すことで同情し、労わり、少しずつ在宅での介護を手放す方向へ引っ張っていく。

父の在宅介護に医師もストップをかけ始めた頃、「もう無理だと思いませんか?」とケア・マネージャーからやんわり言われた母は、素直に頷いていた。それまでケア・マネージャーは、母に同情し続けた。その結果、ようやく母も父の特別養護老人ホームへの入所に賛成をした。

これはケア・マネージャーにその才覚があったからこその話であるが、実はこのような人は数少ない。

ケア・マネージャーの視線は、大抵の場合、被介護者に向けられてはいるものの、介護者である家族の抱える負担にまでは向けられない、或いは、意図的にそれをしない。

しかし、少しでも多くのケア・マネージャーが、被介護者と介護者を取り巻く環境全体を見て、適切な対応を自在に取れるようになって欲しいというのが私の願いである。

そして、そのようなケア・マネージャーには、介護者がいつでも弱音を吐き出せる窓口になって欲しい。もう介護がつらいからやめたい、このひと言が介護者から発せられた時、担当ケア・マネージャーを通して、すぐに公的サポートが連携して、介護者を決して追い詰めることがないように対応するという仕組み作りだ。

たとえ介護者が「まだ大丈夫、まだできる」と言っても、第三者の客観的な状況判断から被介護者と介護者の距離を離す方向へ導くといった方法が取られることも必要かもしれない。もちろんそこには、人権尊重というとても大事なものを柱に据えての判断が必要になることは言うまでもない。

「もっとああすればいいのに…」、「こうすればいいのに…」、これらはまだ余裕のある人だからこそ言える言葉だ。世の中には、耐えるばかりで自ら膠着して、沈黙してしまう人が多数いるのだ。

弱音を吐ける介護へ。それは耐えてはいけないことなのだと即座に受け取り、丁寧に解決する社会を実現しなければいけないと私は思う。

写真:橘 世理

橘 世理(たちばなせり)

神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。