菅政権が東京電力福島第一原発のタンクに溜まる続ける「処理水」の海洋放出を決めたとマスコミ各社が報じている。この報道が極めてわかりにくい。放射性物質トリチウムを含んだ「処理水」を海に流してほんとうに大丈夫なのか。その是非を判断する以前の問題として、そもそも記事中の表記が「処理水」「汚染水」「ALPS処理水」「トリチウム水」など、まちまちなのだ。これでは世論の議論を収斂させていくのは難しい。
日本政府は「処理水」派だ。菅義偉首相は4月13日、「処理水の処分は、福島の復興を成し遂げるためには避けては通れない」と記者団に強調し、「処理水」という言葉を使った。「海洋放出は安全だ」と世論にアピールしたい政府の立場からすれば、なんとしても「処理水」という言葉を定着させたいのだろう。海洋放出の是非をめぐる意見対立は、「処理水」と呼ぶか「汚染水」と呼ぶかという「言葉遣い」をめぐる対立に主戦場を移しているのが現状である。
これは「科学」と「報道」の関係を考える格好の題材である。ワクチン報道をめぐる「副反応」と「副作用」という言葉の問題(英語ではどちらも「side effect」)を考察したきのうの記事につづいて、きょうは「処理水」や「汚染水」について考えたい。政府が使う言葉をそのまま垂れ流すのではなく、政府がその言葉に込めた意図を客観的に分析し、人々の判断材料を公正に提供するのがメディアの役割だと信じるからだ。
はじめに、海外ディアはこれをどう報じているのか。マスコミ各社の報道よりも、国際ジャーナリストの高橋浩祐氏が「Yahoo!ニュース個人」に執筆した記事「処理水か汚染水か、世界のメディアは福島第1原発から出る廃水をどう報じたか」がわかりやすい。本来はマスコミ各社が真っ先に報じるべき内容だろう。
それによると、英国メディアのBBCニュースやロイター通信は「contaminated water(汚染水)」という言葉を使っている。英紙ガーディアンも「contaminated water(汚染水)」を使っており、その理由について、地球環境保護団体のグリーンピース・イースト・アジアの原子力専門家の以下の発言を引用している。
「もしその水が汚染されていなかったり、放射能を帯びていなかったりするならば、日本は同国の原子力規制委員会から水放出の許可を得る必要はなかったはず。タンクに貯蔵されている水は処理されているが、それはまた放射能で汚染されてもいる。日本政府は内外で、意図的にこの問題で欺こうとしている」
中国国営メディアの新華社通信も「contaminated Fukushima water(汚染された福島の水)」や「contaminated radioactive wastewater(汚染された放射能廃水」「tritium-contaminated wastewater(トリチウム汚染廃水)」との言葉を使っている。韓国通信社の聯合ニュースも「contaminated water(汚染水)」だ。
一方、米国メディアのCNNは「treated radioactive water(処理された放射能汚染水)」や「treated water(処理水)」と表現し、ニューヨークタイムズ紙も「treated water(処理水)」。ワシントンポスト紙は「contaminated water(汚染水)」や「treated water(処理水)」といった賛否のある表現を避け、記事の見出しで「Fukushima nuclear plant water (福島原発水)」としたという。
では、NHKはどう報じたか。海外向けニュースサイト「NHK WORLD-JAPAN」は11日、「radioactive water(放射能汚染水)」と9日に報じたことは水が処理されずそのまま放出されるような誤解を与えかねなかったとして、「今後は海洋に放出する水については処理されることを明確にするため『treated water』(処理水)とします」とのコメントを発表したというのだ。NHK内部でどのような経緯でコメント発表に至ったのか、興味のわくところである。
ちなみに、朝日新聞の4月14日一面を読むと、ひとつの記事のなかに「処理水」と「処理済み汚染水」が出てくる。それについて「処理済み汚染水を、再びALPSで処理した上で海水で薄めた処理水にする」と説明しているのだが、「処理済み汚染水」をさらに処理して薄めて「処理水」にするというのは、なんとも難解な文章だ。
こうした「言葉の対立」を収斂させ、世論の合意形成を進めるにはどうすればよいのか。私がこれまで接した記事のなかで、いま進行している議論をもっとも公正に的確に伝えていると感じたのは、小山良太・福島大学教授が「論座」に寄稿した『海洋放出の是非を考えるのに欠かせない「トリチウム水」への理解』である。この記事では冒頭に「汚染水」「ALPS処理水」「トリチウム水」を明確に定義している。要約すると以下の通りだ。
原子炉の冷却で汚染された水は、ALPSという装置でセシウムやストロンチウムなどの核種を除去する処理をしたうえでタンクに貯蔵されている。この処理の過程では、水と構造が似ているトリチウムという核種は除去できない。経産省資源エネルギー庁「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会」では、処理前のものを「汚染水」、処理後のものを「ALPS処理水」または「トリチウム水」と定義している。
小山教授はそのうえで、海洋放出が抱える問題点を以下の3つに整理している。
①海洋放出という処分方法そのものへの反発。これまで行われてきたタンクによる保管について、敷地を増設あるいは新たに確保して継続すべきという意見。
②海洋放出した際の具体的な補償や風評対策の内容が明らかでなく、実効性のある対策が行われるのかという不安。
③海洋放出という方針を決定する過程における合意形成の進め方に対する疑問。
私が特に重視すべきであると考えるのは、③の視点だ。海洋放出の是非は極めて専門的な議論であるが、一方で多くの人々の生命や健康、毎日の暮らしに直結する重大な問題である。それだけに多くの人々が納得するかたちで合意形成が進められなければならない。それが民主政治というものである。そのためには政府や東電が情報をすべて開示し、さまざまな疑念を取り払う努力を積み重ねる必要がある。
原発事故以降の10年間、政府や東電の隠蔽体質はほんとうに改善されたのか。私にはとてもそうは思えない。ここ数年に相次いだ国会での虚偽答弁や公文書の改竄・廃棄を目の当たりにすると、なおさらだ。そうした政治の閉鎖性を棚上げして、政府がいくら「安全」と言ったところで、幅広い合意形成が得られるだろうか。それに不可欠な「政治への信頼」が大きく欠損しているのではないか。
この点、小山教授は以下のような見解を示している。
今回の処分の問題は、世界中で注目された福島第一原発の廃炉の過程で排出された汚染水をALPSで処理し、トリチウム以外の核種を取り除いたうえで放出するという2重3重に説明を要する「水」である。そのため、核燃料に触れた汚染水自体を放出するのではないか、ALPS処理で本当に他の核種を取り除けているのか、発表されたデータ自体に誤りがあるではないか等、様々な疑念が生じやすい「水」なのである。トリチウム自体の科学的性質や国際基準の説明、処理方法自体の解説を丁寧に行い、国民的な理解が醸成されることが処分方法(あるいは貯蔵)を考える上での前提となるといえる。だが、これが出来ていないのである。
小山教授の論座への寄稿『海洋放出の是非を考えるのに欠かせない「トリチウム水」への理解』には、このほかの論点もわかりやすく整理されている。
言葉を明確に定義し、政府の狙いを的確に解説し、論点を公正に整理し、自らの見解を鮮明に提示する。専門的なテーマを一般の人々のわかりやすく伝えて問題提起し、建設的に合意形成をはかろうとするお手本のような記事である。「批判」を恐れ「客観中立」を口実に「両論併記」でお茶を濁す無難な記事を量産し、その結果として国家権力を監視する責務を放棄している多くのマスコミ報道とは大違いである。ぜひ参考にしてほしい。
医療や科学をめぐる政策を議論するにあたり、専門知識はたしかに不可欠だ。しかしそれ以上に必要なのは、政策を訴える政治への信頼であり、情報を独占して圧倒的に優位な立場にある国家権力を厳しく監視するジャーナリズムへの信頼なのだ。