政治を斬る!

新聞記者やめます。あと24日!【法律やルール自体の公正さを問わないマスコミ報道の危うさ〜緊急事態宣言下に思う】

緊急事態宣言が延長される。政府の無為無策の結果、「私たちの自由」はさらに制約される。「自由と人権」が危機に直面する今、あらためて「報道のあり方」を考えたい。

新聞社で調査報道に取り組むのは社会部の記者が多い。私は政治報道(政治部)から調査報道(特別報道部)に専門領域を広げたという意味で稀有な新聞記者である。

社会部の伝統的な調査報道は、警察や検察、国税庁など「当局」への取材過程で「端緒」をつかみ、それを独自取材で掘り下げていくスタイルだ。朝日新聞史に残る大スクープであるリクルート報道もそのひとつだった。

この調査報道スタイルのメリットは「端緒」の情報の確度が高いこと。一方、デメリットは当局が何かしらかの思惑でリークした情報に乗せられ、当局の世論操作に知らず知らずに利用される恐れがあることである。当局と情報を共有することで当局と一体化するキャンペーンに発展する危険もはらんでいる。

私はこうした調査報道を全否定するつもりはない。当局に利用されず、逆に利用するくらいの「主体性」を新聞社が維持できれば、極めて効果を発揮することもあるだろう。

だが現実の問題として、数多くの情報を独占している当局の立場は強い。当局から端緒を得るとどうしても当局に依存して頭が上がらなくなることが増え、報道の「主体性」を失われ、当局の意図に乗せられ、あるいは当局への追及が鈍るという実情を私は数多くみてきた。

私がデスクを務めた特別報道部は、記者クラブに属さず、当局と一線を画し、当局から端緒をもらう調査報道ではなく、自ら主体的に取材テーマを設定することを最重視し、端緒もネタ元もないところから「埋もれた事実」を掘り起こす「テーマ設定型調査報道」を目指した。このことは「新聞記者やめます。あと79日!【文春砲の炸裂と特別報道部の終幕】」などで詳しくお伝えしてきた。

きょうはもうひとつ、社会部の伝統的な調査報道に対して私が抱いてきた違和感をお伝したい。それは報道すべきニュースの価値を判断する際に「法律や規則に反しているかどうか」を最重視する姿勢である。

社会部の調査報道は「違法性」をとくに重視する。記者が「これはおかしい。不公正です」と主張してもデスクに「どこが違法なんだ」と反論されるケースが極めて多い。彼らは記事に求められる「公共性」を「違法性」と考えているようだ。

たしかに記事で追及する相手(当局や企業であることが多い)から抗議された場合に「違法性がある」という反論は最も強力だ。それに備えて「違法性の根拠を固める」ことが調査報道の記事に課される大きなハードルとなる。そこで記事を出稿する前に法律を所管する役所の見解を聞く取材が必要になる。ところが、役所に「違法とは言い切れない」と言われると、ニュースバリューが落ちてしまうのだ。

私が特別報道部で最初に手がけた「スケート連盟の金銭スキャンダル」報道の経緯を上記の「新聞記者やめます。あと79日!【文春砲の炸裂と特別報道部の終幕】」で紹介したが、これは警察や文部科学省といった当局の取材を一切行わず、スケート連盟の内部資料と関係者証言の積み重ねだけで報じたスクープであった。

私たち取材班は記事出稿前、社会部デスクから「君たち、(スケート連盟を所管する)文科省のウラはとったのか」と言われ、「取ってません」と答えた。「なぜ文科省のウラを取らないのか」と言われ、「文科省は知らないからです」と答えた。「ならば誰が知っているのか」と言われ、「私たちです」と答えた。文科省から得た情報を深掘りする調査報道ではなく、自分たちが主体的に「スケート連盟を取材しよう」と思い立って深掘りした調査報道なのだから、当たり前である。この社会部デスクは驚愕の表情を浮かべていたが、かように「当局のウラをとらないと記事は出せない」と思い込んでいるデスクは決して少なくない。

私はかねてから「違法性」を重視する調査報道スタイルに疑問を抱いていた。「違法か否か」は所管官庁や裁判所など国家権力が判断することである。報道機関がそれをひとつの判断材料にしてもよいが、そこに価値を置きすぎると、報道が「国家権力の価値基準を社会に押し付ける装置」と化す恐れがある。「違法性」を詰めるために当局の見解を頼りにすると当局の意向に沿った記事に変質する恐れもある。

報道機関が最重視すべきは「違法か否か」ではない。人類が長年の歴史で築き上げてきた普遍的価値である「基本的人権の尊重」「自由・平等・博愛」「平和」「民主主義」などに照らして「公正か否か」を主体的に判断し、報道すべき事柄を決めるべきなのだ。「違法」ではなくても「不公正」なことは厳しく追及すべきであるし、「違法」であっても「公正」なことは断固として擁護すべき時もある。中国政府が民主化を求めて立ち上がったリーダーを「違法」と断罪するような場合だ。同じような「弾圧」は日本でも十分に起こり得る。だからこそ報道機関は「違法か否か」を最上位の判断基準にすべきではない。国家権力と同じ土俵に立ってはならないのだ。

社会部は伝統的に「国会議員」には厳しい。ところが「国会議員」たちがつくった「法律」には極めて従順なのである。もちろん自らの意見と異なる「法律」でも民主的手続きを経て成立すれば従うのは市民としての責任だろう。しかしそのことと「報道」が「法律」を至上の価値を置いてニュース価値を判断することとはまったく別の問題だ。

私がなぜいま「報道」と「違法性」の問題をとりあげたかというと、コロナ禍の緊急事態宣言で「自由と人権」が重大な危機に瀕しているからである。政府や自治体はいま、根拠があいまいな「自粛」を次々に国民に強いている。マスコミは当局と一緒になって「パチンコ」「夜の街」「路上飲み」などを「ルールに反している」として「悪者」に仕立てている。ところがその「ルール」自体の公正さは問わない。権力が定めた「ルール」(しかも根拠薄弱なルール)に従ってニュース価値を判断しているのだ。

ニュース価値を決めるのは「違法性があるか」「ルールに反しているか」ではない。人類の普遍的価値に照らして「公正かどうか」だ。コロナ禍のいま、それを再確認したい。

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