安倍政権や菅政権の沖縄に対する冷淡さを見るたびに思い起こすのは小渕恵三首相のことである。
私が沖縄に強い関心をもつようになったのは、1999年に政治部に着任し、小渕内閣で首相番記者になったのがきっかけだった。小渕首相は翌年に日本で開催される主要国首脳会議(サミット)の開催地として政府内で有力視されていた福岡などを覆し、立候補した8地域で警備面の不安などから最も不利とみられていた沖縄を選んだのだった。官僚機構の決定を退けた首相の「英断」として平成史に残る場面に、私は官邸記者として居合わせたのである。
小渕首相は竹下登元首相から最大派閥「経世会」(平成研究会)を継承した派閥政治家だった。かなりの口下手で、パフォーマンスも苦手だった。竹下派七奉行のライバルであった小沢一郎氏や梶山静六氏のような剛腕さも、橋本龍太郎氏のような存在感も、政界のプリンスとして常に首相候補の筆頭にあげられてきた加藤紘一氏のような切れ味もなかった。だからこそ竹下氏は安心して派閥を譲り渡し、小渕政権下で隠然たる影響力を残したのだった。
小渕首相は紛れもなく「古いタイプの政治家」であった。就任当初は「冷めたピザ」と酷評され、支持率は低迷した。
だが、首相番記者としては日々接するうちに引き込まれる魅力を感じた。
当時の首相番は今と違って、首相が国会内や官邸内を歩いて移動する際、歩きながら質問することが許されていた。すべてオンレコである。首相番のうちの一人が首相に寄り添って歩き、何を聞いてもいいのである。毎日、質問の機会は数回あった。記者団を代表して質問した番記者は首相の返答を各社に伝え、それがテレビ新聞で大きく報道されることもしばしばあった。小渕首相は国会内や官邸内を歩くたびに、首相番記者の質問に身構え、いくぶん緊張しているように見えた。
私も何度も小渕首相に質問したが、その受け答えはお世辞にも流暢とは言えなかった。その姿は今の菅義偉首相と重なる。しかし、小渕首相は必死で言葉を探していた。ときに立ち止まって口をモゴモゴしながら少しでも首相番記者たちへ、その背後にいる国民へ届く言葉を探していた。今の菅首相とまったく違うところである。言葉はつたなくても、小渕首相の葛藤は伝わってきた。当時27歳の新人政治記者だった私は、言葉を振り絞る政治指導者の姿に心を打たれた。各社の首相番記者の多くも小渕首相に惹かれていた。
低空飛行で始まった小渕内閣の支持率はじわじわ上昇していった。小渕首相の実直さが首相番記者を通じて徐々に国民に浸透していくという、日本の政治史では珍しいパターンをたどったのである。小渕首相には常に「日の当たらない者」たちへの温かい眼差しがあった。要領を得ない質問をする記者にも優しかった。
その小渕首相が急転直下で沖縄をサミット開催地に選んだ理由は、首相番記者としてわかる気がした。彼は言葉を飾ること以上に具体的な行動で権力を表現する政治家であった。さらに沖縄サミットにあわせて2000円札の発行を指示した。紙幣のデザインには那覇市にある首里城の守礼門が採用されたのだった。
小渕首相が当時、ある会合で沖縄への思いを語ったことを覚えている。テレビカメラが回る前で彼が語ったのはおおむね次のような内容だった。「沖縄がアメリカから返還される前、まだ学生であったころ、沖縄によく行きました。すこしお酒を飲んで、それで車を運転し、羽目を外したこともありました。そのときから沖縄のことはずっと好きでした」ーー。新人政治記者の私は過去の「飲酒運転」を告白する首相発言をどう扱ったらよいのか戸惑いつつ、決して流暢とは言えないその語り口から沖縄への思いを強く感じたのであった。当時の自民党のリーダー、とくに最大派閥の経世会には、沖縄への思いがにじんでいた。小渕首相はその代表的存在であった。
小渕首相は沖縄サミット目前の2000年春、急な病に倒れ、帰らぬ人となる。自民党の重鎮たちが密室の話し合いで後継首相に選んだのは、自民党幹事長を務めていた森喜朗氏だった。その後の小泉純一郎政権や安倍晋三政権に続く「清和会支配」のはじまりである。
私は小渕首相が倒れた後、首相官邸から外務省へ配置換えとなり、2000年夏の沖縄サミットを担当した。開催前から沖縄に通って取材を重ねた。名護市の万国津梁館で開催されたサミットの当日、クリントン米大統領やブレア英首相、シラク仏大統領、プーチン露大統領ら首脳たちの真ん中で満面の笑顔をみせる森首相の姿に、私は最後まで違和感を覚えずにはいられなかった。
森内閣の次の小泉内閣あたりから政府内で「沖縄への思い」は徐々に影を潜めていく。
私は小泉政権下の2003年に抵抗勢力のドンで日本遺族会会長でもあった古賀誠元幹事長と番記者となり、沖縄の「慰霊の日」である6月23日、沖縄全戦没者追悼式が開かれる平和祈念公園まで炎天下を歩く「大行進」に古賀氏とともに加わった。福田康夫内閣で町村信孝官房長官の番記者を務めていた2008年には休暇をとって沖縄へ飛び、辺野古沖に潜った。光り輝く静寂の世界に感動し、辺野古埋め立てに強い抵抗感を抱いたのだった。
だが、そうした思いとは裏腹に、政府と沖縄の距離はどんどん離れていった。2000円札もいつからかほとんど見かけなくなった。
「安倍一強」時代になり、東京の政治指導者たちの「沖縄への思い」は薄れるばかりか「敵意」に姿を変えていった。今の菅首相は経世会で小渕首相のライバルであった梶山静六氏を師と仰いでいるが、辺野古埋め立てを強引を進めるその姿勢は、橋本内閣の官房長官時代に「深夜、沖縄のことをあれこれと考えてなかなか眠りにつけず」と書き残した梶山氏とは正反対である。政治のとても重要な何かが、ごっそり失われてしまった。
新聞社で最後の職場となった言論サイト「論座」の編集者として、琉球朝日放送の島袋夏子さん、元NHKの阿部藹さんのおふたりに沖縄から寄稿いただいたのは、心に残る仕事だった。沖縄復帰49年を迎える5月15日の前日、米軍基地から漏れ出す化学物質の問題を追い続けている島袋さんから「見えない侵入者~米軍基地から漏れ出す永遠の化学物質~」の番組案内が届いた。昨年2月に「論座」に執筆いただいた『沖縄の米軍基地から漏れ出す「永遠の化学物質」」の継続テーマである。
以下、番組案内である。テレビ朝日(東京・関東)は5月23日(日)朝4時30分から、ABC朝日放送テレビ(関西)は5月23日(日)朝4時55分から。約1週間後にYouTubeで配信される。
2016年、沖縄県は45万人の取水源となっている川や地下水が有機フッ素化合物PFOS/PFOA(ピーフォス/ピーフォア)で汚染されていることを公表した。それは環境中で分解されにくく、人体に取り込まれると蓄積されるため国際条約で規制されている。しかも汚染源は米軍基地内にあるとみられていた。番組では米国防総省の文書などからフェンスの中で何が起きているのかに迫る。また独自に入手した嘉手納基地地下の帯水層の資料から米軍の水支配について考える。
日本政府の姿勢が変わっても、沖縄の戦いは続いている。その声に耳を傾ける政治に立ち返ることを願ってやまない。