南東欧の古都ベオグラードに暮らすセルビア人女性の知人から届いた話によると、かの国では欧米のファイザーやアストラゼネカのコロナワクチンに加え、中国製やロシア製のワクチンが流通し、市民は自分の好きなワクチンを自由に選べるのだという。欧米のワクチンはアレルギーなどの副作用を懸念する人が多く、一番人気は中国製ということだった。彼女も中国製を接種し、彼女の周囲の友達もほとんどが中国製の接種を終えたという。彼女の夫はロシア製を希望したが、数が少なく、結局は中国製を接種したそうだ。
一方、若者の多くはワクチン接種を拒絶しており、深刻な世代間対立に発展しているという。そもそも若者の間には外出自粛などの規制について不満が強く、そうした鬱積した思いがいま、ワクチン接種への強い抵抗感として表面化している。若者たちは頻繁に集会を開いて「反ワクチン」を呼びかけ、警察など当局との衝突も珍しくないそうだ。
「自分たちは感染しても重症化しないのに、なぜ副作用リスクを背負ってワクチンを接種しなければならないのか」という若者たちの主張に対し、彼女は「私は自分自身を守るためという以上に、感染拡大を防いで社会全体を守るため、ひとりの市民としての責務を果たすために接種した」と語る。彼女の立場からは「自分は重症化するリスクが少ない」として接種を拒む若者たちの姿は「クレイジー」で「身勝手」に映る。彼女は学生である自らの息子がついにワクチン接種を受けてくれたと喜んでいた。家族のなかでワクチンをめぐるさまざまな議論があったのだろう。
私はここでそれぞれのワクチンの優劣を論じたいわけではない。ワクチン接種の是非を論じたいわけでもない。ただ、バルカン半島の小国セルビアからみた「ワクチンの世界」と、日本からみたそれとはあまりに違うことに驚いたのである。
日本ではワクチン接種をめぐる海外の状況を伝える報道が少ない。報道されるのはせいぜい米国や英国、フランスなどG7主要国や中韓などアジアの近隣国程度である。旧東側諸国で人口700万人のセルビアのような小国の実情が報じられることは極めて稀だ。セルビアで暮らす彼女から現地の実情を聞くと、日本で報道される「コロナ危機下の世界」はじつに一面でしかないと思い知らされる。世界は多様なのだ。
セルビアは旧ユーゴスラビア連邦の中心で、冷戦崩壊による連邦解体過程で勃発した1990年代の内戦の印象が強い。なかでも欧米と対立したコソボ紛争によって「民主政治」とは真反対のイメージを私は抱いていた。その国で生まれ育った彼女が明言した「私は自分自身を守るためという以上に、ひとりの市民としての責務を果たすために接種した」という言葉を聞いて、私は自分が抱いてきたイメージを修正しなければならないと思った。政治家や専門家が「あなた自身を守るため、あなたの家族を守るため」とワクチン接種を呼びかけている日本よりも、個人と社会のあり方についての社会的認識がよほど先をいっていると思ったのである。
冷戦時代は社会主義国でありながらソ連と一定の距離を保ち、東西両陣営の双方に目をくばりながら渡り歩いてきた国家らしく、欧米、ロシア、中国のそれぞれからワクチンを一足早く入手し、どれを接種するかは個人の意思に任せているという話にも驚いた。米国の顔色ばかりうかがいながら、ワクチン開発競争に敗れ、ワクチン獲得競争にも大きく出遅れた日本とは大違いである。日本より早くワクチン接種を始めたからこそ、日本より先に「重症化リスクの低い若者たちはワクチンを接種すべきか」という世代間対立が表面化しているといえるかもしれない。
米国が圧倒的な一大強国であった時代は、対米一辺倒の日本外交のひずみはさほど目立たなかった。しかし、中国やインドなどの新興国が台頭し、世界の多極化が急速に進むなかで、もはや対米一辺倒では太刀打ちできない。米国に梯子を外されたらおしまいだ。デジタル化やコロナ危機は、世界の多極化を加速させた。そうした新しい世界に、日本の外交も、日本の国際報道も、とても追いついていない。
世界は多様である。これからますます多様になるだろう。私たちはまず、その多様性をまっすぐに見つめなければならない。この小さな島国の常識が世界の常識とは限らない。それは「大きな非常識」であるかもしれないのだ。
日米首脳会談の記事で埋まり始めた日本の新聞報道をみて、そんな思いを強くするのだった。