政治を斬る!

党首討論はなぜ壊れたのか 二大政党政治が終焉した日本政治の末路

総理に相応しいのはどちらかーー。党首討論は、その一点を国民が見極めるための舞台だった。

ところが、半年ぶりに開かれた今回の党首討論を見て、そう感じた人はどれほどいただろうか。

国民民主党の玉木雄一郎代表の持ち時間は12分。チームみらいの安野貴博党首は、わずか3分。

野党6党に持ち時間を細かく配分した結果、討論というより“ショートスピーチ大会”になってしまった。

しかも、野党党首たちの発言は妙に低姿勢だった。

「韓国訪問お疲れ様でした」
「破壊力のある笑顔ですね」
「必要なら家庭教師やります」

高市早苗総理を追及するより、むしろ“すり寄り”を印象づける場面が続いた。かつて火花を散らした党首討論の面影は、ほとんどなかった。

この光景は単なる演出の失敗ではない。日本政治そのものが変質した結果である。

党首討論は1999年に始まった。モデルになったのはイギリス議会の「クエスチョンタイム」。与党党首と野党第一党党首が正面からぶつかり合い、有権者が「次の首相」を見極める舞台だ。

当時、私は朝日新聞政治部で官邸記者クラブに所属し、小渕恵三総理の番記者を務めていた。初めての党首討論はいまでも鮮明に覚えている。

小渕総理は討論が得意ではなかった。ニューヨーク・タイムズ紙から「冷めたピザ」と揶揄されたこともあり、党首討論に相当神経を使っていた。

そこへ民主党の鳩山由紀夫代表が仕掛けた。

「私は今朝、温かい非常に熱いピザを食べてきました」

“冷めたピザ”と呼ばれる小渕総理への痛烈な挑発だった。

すると小渕総理はこう切り返した。

「オルブライト国務長官からは、冷たいピザもおいしいと言われたことがあります」

国会に緊張感が走った。与党と野党のトップが真正面からぶつかり合う。国会審議が変わるかもしれない――。そう感じたことを覚えている。

実際、その後の日本政治は「二大政党制」へ向かった。

1990年代に導入された小選挙区制は、自民党と民主党が政権を争う構図を生み出した。総選挙は「どちらを総理に選ぶか」を決める戦いになり、2009年にはついに民主党への政権交代が実現する。

党首討論は、その流れの象徴だったのである。

しかし、その構図は長続きしなかった。

2012年に自民党が政権復帰すると、民主党は分裂を繰り返した。立憲、国民、維新、れいわ、参政、共産、保守……。野党は細分化され、自民党に対抗する「政権の受け皿」を失っていった。

その結果、総選挙の意味も変わった。

かつては「誰を総理にするか」を決める選挙だった。いまは「自民党政権を支持するか、しないか」を示す選挙に近い。

つまり、政権交代のリアリズムが消えてしまったのである。

今回の党首討論は、その現実を残酷なほど映し出していた。

トップバッターを務めたのは国民民主党の玉木代表だった。持ち時間は最長の12分。衆参合計議席で中道勢力を上回り、「いまの野党第一党は国民民主だ」という政治的メッセージを発した形だ。

だが、その内容は「政権交代」を競うものではなかった。

玉木氏は高市総理に対し、「外交成果」を評価したうえで、補正予算編成を求めた。ガソリン補助金の出口戦略、新規国債発行への慎重姿勢、減税より給付前倒し――。提案自体は現実的だが、対決色は薄い。

むしろ見えてきたのは、「将来の連立入り」を意識した距離感だった。

自民党内では、国民民主党を連立に加える構想が再燃している。そう考えれば、玉木氏が高市総理を激しく追い込まなかったのも理解できる。

本来なら党首討論は「高市か、玉木か」を有権者が比較する舞台のはずだ。しかし現実には、将来の連立入りを視野に入れた「対話」になっていたのである。

続く中道の小川代表も苦しかった。

冒頭で高市総理の「破壊力のある笑顔」を持ち上げ、「心を鬼にして厳しい質問をする」と前置きしてから経済対策の遅れを追及した。しかし高市総理は「私は遅れたとは思っていません」と一蹴。時間切れで議論は終わった。

立憲民主党の水岡代表、公明党の竹谷代表に至っては、国民の多くが「総理候補」として見ていない。参政党の神谷宗幣代表は東大講演中止問題を訴え、チームみらいの安野党首はAI教育をアピールした。

それぞれ独自性はあった。だが、持ち時間が短すぎる。深い議論には到底ならない。

結局、いまの党首討論は、「政権を争う舞台」ではなく、「各党が短時間で存在感を示す場」に変わってしまったのである。

視聴率が伸びないのも当然だろう。

原因はシンプルだ。野党がバラバラで、「この人が次の総理になるかもしれない」という緊張感がないからだ。

党首討論が壊れたのではない。先に壊れたのは、日本の二大政党制だったのである。