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新聞記者やめます。あと71日!【南彰記者の活躍、そして労働組合について思うこと】

新聞労連委員長として有名になった南彰記者は政治部の後輩である。新聞労連時代に政治取材をはじめ新聞報道のあり方について大胆に提言した勇気は見事だった。任期を終え、今は政治部の取材記者に戻っている。組織のなかでさまざまな軋轢もあると思うが、それに負けずに頑張ってほしい。期待しています。

自民党が野党に転落した2009年、私は野党クラブのサブキャップだった。その時、クラブ員として参院自民党のドン・青木幹雄氏を担当したのが南記者だった。

世の中は民主党政権の行方に釘付けだった。野党・自民党への関心は極めて低かった。私は、政治記者が「番記者」として政治家に張り付く政党取材のあり方を抜本的に変えるチャンスだと考えた。

そこで南記者と相談し、永田町で政治家を追いかける取材はそこそこにして、青木氏の地元・島根県出雲市に足しげく通い、保守王国・出雲の風土を徹底的に描く長期企画を試みることにしたのである。

永田町で発生するニュースは落としてもいい。他社に抜かれてもいい。どうせ野党・自民党への関心は低い。ならば政治記者を日常の「番記者」取材から解放し、テーマを絞って徹底取材する「目玉企画」に特化しよう。その責任はキャップとサブキャップが取る。政治取材のあり方を抜本的に変える実験であった。

南記者は見事に出雲に溶け込んだ。彼の原稿は野党クラブ全員で輪読し、徹底的に議論して練り上げ、最後はサブキャップである私がまとめた。そうして生まれた長期企画が「探訪保守である。これは知る人ぞ知る、異例の政治連載となった。

初回「保守王国、神迎える出雲へ」だけここにリンクをはろう。この企画はその後、南記者自身や私たち野党クラブ員が思いもしなかった方向へ発展していく。新しい政治報道を探る当時のメンバーたちのエネルギーがうねりをあげて予期せぬドラマを生み出し、企画が一人歩きしたかのようであった。読者からの大きな反響をよそに、それは政治部内に大きな波紋を呼び起こし、わずか半年で野党クラブのキャップとサブキャップを政治部から追い出す「粛清人事」が断行され、連載は途中で打ち切られたのである。その話はまた後日に。

前置きが長くなってしまった。きょうのテーマは労働組合である。南記者には申し訳ないが、私は「非組」(労働組合に加入していない社員)なのだ。

1994年に新聞社に入社した後、ただちに労働組合に入った。労組の集会にはできるだけ参加し、アンケートなどにも積極的に答えた。労組は労働者を守る大切な組織であると思っていた。

転機は1999年に政治部に異動してほどなく訪れる。各職場の代表が出席する労組の集会に、私は政治部を代表して参加したのだった。細かい経緯は忘れてしまったが、政治部は当時、政局か何かで大忙しで、駆け出し政治記者の私くらいしか手の空いている部員がいなかったのだろう。20代の新米記者であった私は政治部全員の委任状を手に、東京本社の地下にある会議室で開かれた労組の集会に臨んだのだった。

予定調和の議事進行が続き、司会者がその日の議案採決の前にそのほか意見がある人がいればと呼びかけた。私はこれ幸いと挙手し、日頃の疑問を率直に切り出したのである。

「政治部の鮫島ともうします。労組はベースアップを強調していますが、私たち現場の若手記者はベースアップよりもお休みがほしいんです。労組の活動内容の幅をもっと広げていただけませんか」

およそ20年前のことである。今となってはさほど突飛な提案でもないだろうが、当時はまったく違っていた。集会が開かれていた地下室の空気が一瞬にして凍りついたのだ。しばらくして繰り広げられた光景に、私は戦慄した。「異議あり!」「異議あり!」の声があちこちから沸き上がり、「ただいまの発言に異議を申し上げます。ベースアップこそ労働運動の本旨であり…」との発言が相次いだのである。

新聞社の労組の構成員は記者ばかりではない。印刷工場の方や販売の最前線に立つ方などさまざまだ。彼らは記者よりも熱心に労組活動をしていた。そこへ20代そこそこの政治部記者がひょっこり現れ、「ベースアップよりも…」などと言い放ったのである。怒りが込み上げたのも無理はない。

しかもその当時、新聞社の社長は政治部と経済部の出身者が入れ替わりに就任していた(ちなみに2014年の「吉田調書」問題で政治部出身の社長が退任して以降いまに至る6年半は、社会部出身者が社長以下多くの要職を占めてきた)。労組活動に熱心な組合員たちは、政治部を代表して出席した私の発言の背後に経営陣の影をみたのかもしれない。

もちろん、そんなことはなかった。単に私が思いつきで発言しただけであった。しかし、今思えば、私はやはり軽率であった。

当時20代の私には、その場の異様な空気を受け止める余裕はなかった。まさに「査問集会」の様相となった、私は頭に血が上り、反論する言葉はぐっと堪えたものの、その直後の議案への投票で、政治部の全員から預かった数十票をすべて「否決」に投じたのである。通常、この手の集会ではほぼ100%の信任を持って議案は可決されるが、この年だけは信任率がいくぶん下がったはずだ。

何とも大人気ない対応であった。若かった。私は引っ込みがつかず、そのまま労組を脱退したのだった。

あれから歳月が流れた。労組のあり方もずいぶんと変わったことだろう。親しい先輩や後輩が労組の要職につくたびに「復帰してよ」と頼まれたのだが、何となく乗り気がせず、もうしわけないが放置してきたのだった。

そこで発生したのが2014年、福島原発事故をめぐる「吉田調書」報道取り消し事件である。私は担当デスクとしての責任を問われ、更迭されて「編集局長付」となった。社内には「社長が激怒していて、鮫島をクビにしようとしている」との噂が駆け巡った。私は連日のように人事部などから事情聴取を受け、まさに「被疑者」扱いであった。親しかった同僚たちは次々に私から距離を置くようになり、孤独のどん底に落ちたのだった(あのときそっと励ましていただいた方々のご恩は決して忘れません!)。

こういうときに、労組に加入していたら!! 

後悔先に立たず。私は自力で会社の巨大組織と対峙し、自らの身を守るしかなかった。

私とともに「被疑者」扱いされた取材記者二人は労組に加入していた。ところが、である。彼らは労組に駆け込んだものの、自分たちの側に立ってくれないと嘆いていた。むしろ会社の上層部と同様、自分たちを「悪者」扱いする気配さえ感じている様子だった。

彼ら取材記者もデスクであった私も、会社から連日のように事情聴取を受ける「上からの圧力」に加え、ネット上で「捏造記者」「売国奴」とバッシングされる「外からの圧力」を浴び、心身ともに疲弊していた。一部で「自殺説」まで報じられた。その誹謗中傷の数々を、会社も労組も黙殺した。「吉田調書」報道それ自体の評価はさておき、少なくとも「捏造」したという事実はないのだから、会社や労組は誹謗中傷から社員を守る具体的な行動に出る責任があったのではないか。

私は「非組」であることを自ら選択したので労組に対して文句の言いようがないが、彼ら取材記者は長年高い組合費を払ってきたのに、クビを切られるかもしれない会社員人生の重大な危機局面において、労組を心強い味方と感じることができなかったのである。

あれほどの大ピンチに組合員の側に立たない労組とは、何のために存在しているのだろう。ベースアップよりも休日取得よりも、会社が社員個人に上から襲いかかりクビに追い込もうとしているような危機的状況において、職務として書いた記事に対してネット上で誹謗中傷を浴びせられている過酷な状況において、組員員を守り抜くことこそ、労組のいちばんの役割ではないのか。

若くして労組委員長を務めた社員の多くは出世していく。将来を嘱望されるエリート社員が労使交渉を通じて新聞経営の実情を学びキャリアアップする「通過ポスト」になっている。そんな彼らが会社に睨まれた社員の側に立ち、自らも経営陣に睨まれる覚悟で闘ってくれる可能性は極めて低い。会社全体を揺るがす重大事態になるほど、御用労組は何の役にも立たない。

いや、まてよ。そう決めつけるのはよくない。もしあのとき、南記者が労組委員長だったら、どうだったろうか。彼なら体を張って、取材記者ふたりを守ってくれただろうか。

歴史に「もし」はない。今となっては確かめようがない。しかし、いまの南記者の活躍をみると、もしかしたら、の思いはよぎる。

私は「非組」のまま、新聞社を去る。自分の選択は正しかったのか、よくわからない。こんど南記者に会ったら、尋ねてみよう。もしあのとき、労組委員長だったら、どうしてくれた?

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