政治を斬る!

新聞記者やめます。あと79日!【文春砲の炸裂と特別報道部の終幕】

日本ジャーナリズム界は今や「文春砲」の独り勝ちだが、7年前までは私の新聞社にも十分に対抗できるチームがあった。「埋もれた事実」「隠された事実」を掘り起こす調査報道に専従してきた特別報道部である。

その特別報道部が今春、廃止されることになった。政治部、経済部、社会部などから腕利きの記者30人ほどが集結し、原発事故の爪痕をルポした長期連載「プロメテウスの罠」や、除染で取り除いた廃棄物を山中に投棄する現場を激写した「手抜き除染」で2012年度、13年度の新聞協会賞を相次いで受賞したかつての「花形部署」が、15年の歴史に幕を閉じる。特別報道部に立ち上げから深くかかわってきた一人として誠に残念だ。

一方で、特別報道部が2014年、政府が非公開にしてきた福島原発事故をめぐる「吉田調書」を入手して報じたスクープ記事を、新聞社が安倍政権や東電の支持勢力などの反撃を受けて「間違った印象を与える表現だった」という理由で取り消し、さらには捏造などの不正があったわけではないのに一線の取材記者ふたりを処分し、その歴史が新聞社内で正当化されるに至るなかで、特別報道部の廃止はいわば既定路線であった。

あのあとも特別報道部は存続してきたものの、リスクを冒しても「隠された事実」に迫るという看板はすっかり鳴りを潜め、事実上その生命は潰えていた。

ネット上では、「吉田調書」報道を手がけた取材記者ふたりとデスクであった私に対し、「捏造記者」「売国奴」といったバッシングが吹き荒れた。これら誹謗中傷の数々を、新聞社は黙殺した。会社員である記者たちを守らず、バッシングにさらされるままに放置したのである。そしてそれら誹謗中傷はいまも続いている。これらに対して私たちは自力で立ち向かうしかない。

取材記者のふたりはほどなく新聞社を去った。彼らを守ることができなかったデスクとしての責任を私は痛感している。ずいぶん遅れをとってしまったが、私もこの春、新聞社を去る。

あの「記事取り消し」と「取材記者の処分」、そしてそれが引き起こした「バッシングの嵐」はその後、新聞ジャーナリズム界全体を大いに萎縮させ、安倍政権の暴走を許すことになった。

特別報道部の組織作りを主導し、「吉田調書」報道のデスクを務めた私が退社する2021年春に、特別報道部が解体されるのも何かの因縁であろう。力をあわせて地道な調査報道に取り組んできた仲間たちには申し訳ないが、私はどこかでせいせいした思いもある。ひとつの時代が終わったのだ。

特別報道部の15年間の栄光と挫折の歴史は、新聞ジャーナリズムの再建のため、日本ジャーナリズム史に記録する必要がある。おそらく、その歴史を最もよく知る当事者は私である。これは精緻なジャーナリズム論として、いずれしっかり書き残したい。きょうは特別報道部が目指した調査報道について、さわりだけ伝えておこう。

特別報道部の前身である特別報道チームが誕生したのは、2006年春だった。その前年、私の新聞社は長野総局の若手記者が田中康夫・長野県知事を取材していないのに虚偽の取材メモを作成し、政治部がそれをもとに記事をつくった「虚偽メモ事件」で編集局長や政治部長らが一斉処分される激震に見舞われていた。

政治部出身の経営幹部らが信頼回復策の柱として打ち出したのが「調査報道」であり、そのための新組織として結成されたのが「特別報道チーム」だった。これに対し、調査報道の担い手を自負していた社会部は、当初から強い警戒感を示していた。

とはいえ、政治部出身の経営幹部らが「調査報道」の具体的なイメージを持っているわけではなかった。当初は政治部や経済部などから記者10人ほどが集められたが、その混成部隊に何のビジョンもなかった。私はその一人として政治部から参加したのである。政局取材に明け暮れていた私も何のビジョンも持ち合わせていなかった。

唯一ビジョンを持っていたのは、週刊文春から私の新聞社へ移籍するという異色の経歴を持つ松田史朗記者だった。彼も私と同様、政治部から参加した一人だった。

彼が主張した調査報道とは、おおむね以下のとおりである。ここには週刊文春のジャーナリズム精神が色濃くにじんでいる。

どんなに立派な記事を書いても、多くの人に読まれなければ。意味はない。調査報道は、記者が書きたいテーマを追うのではなく、多くの読者が知りたいテーマを追うのだ。新聞社の社会部が伝統的に手がけてきた調査報道の大半は、警察や検察、国税庁など当局から端緒を得て、それを独自取材で肉付けして記事にする。それはそれで立派だが、所詮は当局が設定した土俵に乗せられているにすぎない。当局に知らず知らずに利用されることもあるし、それ以上に、そのテーマは当局が関心を持っているだけであって、読者が知りたいテーマとは限らない。何を取材するのか、そのテーマ設定こそ、最も大事なのだ。何のネタ元も端緒もないところから記者が主体的にテーマを設定し、一から掘り起こしていく。そういう調査報道をやろう。

私が開眼した思いになった。記者が徹底した「読者目線」に立って主体的に取材テーマを決める。そうした「テーマ設定型調査報道」こそ、警察や検察など当局の力を借りる従来の調査報道とは明らかに異なる新基軸であると思った。

松田記者が最初に提案したテーマは「フィギュアスケート」だった。

2006年はトリノ五輪があった年だ。人気競技のフィギュアスケートでは、代表選考時点で14歳だった浅田真央選手が年齢制限で出場できず、世論は賛否両論で沸騰した。そうした経緯で開催された五輪本番では荒川静香選手が金メダルに輝くという劇的な展開をたどった。フィギュアスケートは当時の日本社会で最も関心の高いテーマだったのである。

その裏側で、急成長するフィギュアスケート界を食い物にする利権は急拡大していた。

松田記者はじめわれわれ即席チームに、スケート界に知り合いがいる記者は一人もいなかった。具体的な不正の端緒も皆無だった。何もないところから、一からこの世界を掘り下げるというのである。

松田記者は手始めにフィギュアスケートの写真集を買ってきた。われわれはそれを読み漁り、選手の名前を覚えることから始めたのだった。そして選手やコーチらを一人一人訪ね歩いていったのだった。

二ヶ月後、われわれはスケート連盟の不明朗な資金の流れをつかみ、一面トップで特報した。テレビや週刊誌はこの記事に飛びついた。それから半年後、警視庁は世論に圧されてスケート連盟会長を逮捕するに至るのである。

それは、われわれが掘り起こさなければ決して世に出ることはなかった不正であった。そして、われわれは警察の捜査には一切協力しなかった。

特別報道部の原点はスケート連盟をめぐるこの調査報道にある。以来、私は松田記者ら仲間とともに、新しい「テーマ設定型調査報道」のあり方を探ってきた。2012年度、13年度の新聞協会賞の連続受賞はその延長線上にある。松田記者が週刊文春で習得したジャーナリズムのDNAが私の新聞社に持ち込まれ、別のかたちで花開いたといえるかもしれない。まさに組織の垣根を越えてジャーナリズムが発展するモデルが芽生えつつあったのだ。

文春砲が炸裂して時の政権を揺るがす2021年春、特別報道部はひっそり幕を閉じる。彼我の差に茫然と立ちつくすほかない。新聞社のひとつの時代が終わった。

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