朝日新聞が一面トップで「LINE個人情報保護 不備/中国委託先で閲覧可に」と報じたのは3月17日だった。日本国内の月間利用者が8600万人に上る無料通信アプリ「LINE」の個人情報に中国からアクセスできる状態になっていたという「スクープ」である。
何やら物騒な話だと思って読み進めたが、どうもしっくりこない。「これは問題だ」と訴える気持ちは伝わってくるのだが、実際にどこがどういう理由で問題なのか、それが論理的に示されていないのだ。
個人情報保護法は「外国への個人情報の移転や外国からのアクセスに制限をつけ、必要な場合は利用者の同意を得るよう定めている」という。さらに個人情報保護委員会は「原則として移転先の国名などを明記するよう求めている」という。こうしたルールに対し、LINEは利用者への説明が不十分だったと認めているのだという。
LINEが利用規約の片隅に「中国からもアクセスできます」と書いていれば事足りた問題なのか?
アクセスできるのが米国なら問題ないのか?
それとも個人情報を守る法制度自体に欠陥があるのか?
そもそも海外からのアクセスを遮断して国内に限定すれば個人情報は守れるのか?
疑問は膨らむばかりである。それにまして、これを報じた新聞社自身が、何を問題視し、何を世の中に問題提起しようとしているのか。その意思が伝わってこないことが、私はいちばん気になった。
私の懸念をよそに、この「スクープ」は大きな反響を読んだ。ネット上に溢れかえる反応は「中国からアクセスできるなんて!」というものだった。さらにLINEが韓国にサーバーを置いていたことも発覚し、ネット世論は過熱した。「中国脅威論」や「嫌中・嫌韓感情」がこの「スクープ」を拡散させる推進力になったのは間違いない。 LINEの社長はそうした世論に圧されるかたちで3月23日夜、記者会見で陳謝することになった。
この一連の経緯を伝える報道の数々でも「どこが問題なのか」を論理的に説明する解説記事とは出会えなかった。新聞社自身が何を問題視しているのかを明確に伝える解説記事を見つけることもできなかった。この記事はよもや「反中感情の後押しを受けて反響が大きくなる」と期待して第一報に踏み切ったのではないかと勘ぐりたくもなった。
そこで私は自らの疑問をツイートした。
このツイートに対して、さまざまな反応をいただいた。比較的多かったのは「個人情報が保護されない中国固有の問題」という見解だ。「中国企業に情報が渡れば中国政府に渡る」「第三国にサーバーを置くのは問題ない。中国企業は国内法で中国政府に情報を渡さなければならないから問題」というものである。「中韓が絡むとなぜ庇うんだ?」「中韓は×、米国は○」といった嫌中・嫌韓感情剥き出しのものもあった。
一方で、「秘密規約を結んだ者ならば国籍は関係ない。利用規約に記載がなかったことが問題」という見解も少なくなかった。「LINEを社会的インフラみたいに認識してる風潮には違和感しかない」と断りつつ、「ふわっとした中韓ヘイトの空気感と、それを煽っている奴らに、良い餌を与えているだけ」と指摘する声もあった。
やはり一連の報道に対する世論の受け止め方はバラバラで、論点が拡散しているように感じたのである。
第一報のスクープを報じた時点で「何を世の中に問う記事なのか」という新聞社の主体的な問いかけが曖昧だった結果、各人がそれぞれの感性でこのスクープを受け止め、世論は「なんとなく問題だ」ということで過熱し、LINE自身は「世論が過熱しているからまずは謝っておこう」と記者会見でとりあえず謝罪し、自治体には「世論が過熱しているからしばらくLINE の利用は控えよう」という対応が広がっている。そこにあるのはムードだけだ。論理はまるでない。
「スクープを放って他社に勝った」と喜んでいる状況ではなかろう。このスクープが問いかけるもの、議論を整理するための論理的な問題提起が早急に必要だ。
私は中国の権威的で閉鎖的な政治体制に極めて否定的な立場である。基本的人権や民主主義が脅かされている現状をとても憂いている。だから「LINEの個人情報に中国からアクセスできた」という事実を発掘した「スクープ」に意義はあると思うし、それに多くの人々が反応したのは当然であると思っている。
だが、報道のプロである新聞社は、そうした世間のムードにあわせるだけではいけない。真正面から「個人情報保護の仕組みが整っていない中国に個人情報が流れる危険」を問いたいのであれば、はっきりそう書かなければならない。その場合、問題視すべきは「外国からのアクセス」ではなく、あくまでも「中国からのアクセス」だ。だとしたら、LINEが利用規約に「中国からもアクセスできます」という記述を追加したところで、何の解決にもならない。政府やLINEは「中国」から個人情報を守る対策を講じなければならないのである。
もちろん「中国を狙い撃ちした対応」は外交・安全保障上の新たな課題を浮上させるであろう。そこではじめて「個人情報の保護」と「日中関係の安定・経済の発展」をどうバランスさせていくのかという建設的な議論が繰り広げられ、妥当な落とし所が見つかってくるのだ。さらに「米国なら大丈夫なのか」「国内なら大丈夫なのか」という別の議論に発展していく可能性もある。
新聞には「事実」を伝えるだけでなく、そうした議論の土俵を整備し、論点を整理する役割もあるのではないか。自ら「スクープ」で口火を切る場合はなおさらである。
私は「中国からのアクセス」を規制する是非をここで論じたいのではない。第一報を報じた新聞社の問題提起に仕方によって議論が感情的に拡散してしまうのか、建設的に練り上げられ収斂していくのか、大きく道が分かれてしまうということを言いたいのである。せっかくの「スクープ」なのだ。その目的は建設的な議論を呼び起こすことにあるはずだ。
日本の新聞の大きな欠陥は「何が問題なのか」を論理的に提起せず、ムードで報道を展開することだと私は常日頃から思っている。その悪弊は重大な局面になるほど頭をもたげてくる。
私の新聞社を揺るがした昨年の「賭け麻雀」問題も、7年前の「吉田調書」報道取り消し問題もそうだった。いったいどこがどういう理由で問題なのか。自らそれを論理的に精査せず、あいまいにしたまま、過熱する批判をかわすためにとりあえず謝罪し、記者(社員)を処分したように見えたのだった。これはジャーナリズムのとるべき姿勢ではない。
明日はこの問題に踏み込みたい。