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新聞記者やめます。あと64日!【検察と司法記者の癒着にフタをした「賭け麻雀」のおわび】

安倍政権による異例の定年延長で批判の渦中にいた検察ナンバー2の黒川弘務検事長が、緊急事態宣言下に新聞記者らと賭け麻雀をしていたという「文春砲」が炸裂したのは、昨年の5月20日である。朝日新聞はただちに「朝日新聞社員も参加、おわびします」というコメントを掲載した。以下の内容である。

東京本社に勤務する50歳代の男性社員が、黒川氏とのマージャンに参加していたことがわかりました。金銭を賭けていたかどうかについては、事実関係を調査して適切に対処します。社員はかつて編集局に所属していた元記者で、取材を通じて黒川氏と知り合い、編集局を離れてからも休日や勤務時間外に飲食などをしていたと話しています。勤務時間外の社員の個人的行動ではありますが、不要不急の外出を控えるよう呼びかけられている状況下でもあり、極めて不適切な行為でおわびします。

この「おわび」を読んだ時、私は強い違和感を覚えた。最初に驚いたのは、賭け麻雀をしていた人物を「元記者」や「社員」と表記したことだった。

私はこの「社員」をよく知っている。かつて特別報道部デスクを務めた時、彼は同じ部のデスクとして背中合わせの席に座っていた。社会部の司法記者クラブに長く在籍し、検察取材に強い記者として知られていた。法律や訴訟の知識も豊富で、リスクを伴う調査報道記事を手堅くさばく有能なデスクであった。

ところが、朝日新聞の「おわび」には「かつて編集局に所属していた元記者」としか書かれていない。「取材を通じて黒川氏と知り合い」との記述はあるものの、「編集局から離れてからも休日や勤務時間外に飲食などをしていた」として「勤務時間外の社員の個人的行動」と結論づけている。彼が社会部記者として長く司法記者クラブに在籍し、黒川氏はじめ検察官に食い込み、数々の検察報道に深くかかわってきたことについては、まったく記述がなかった。

私はこの「おわび」をみて、会社は彼を「記者」ではなく「社員」であると強調することで、「賭け麻雀」は朝日新聞の検察報道には一切関係ないという予防線を張ったのだと感じた。

政治家や官僚を相手とする日常取材は、「職務活動」なのか、休日や勤務時間外の「職務外活動」なのか、区別が極めてつきにくい。深夜に政治家に呼び出され飲みに行ったり、休日に官僚とゴルフに行ったりすることは、新聞記者の世界では日常茶飯事だ。そうした「取材活動」の良し悪しはさておき、それが実態である。そこから「スクープ」を得ることも少なくない。それを「個人的行動」と呼べるのか。

さらに政治家や官僚との取材関係はその時々の職場と関係なく、長い歳月をかけて築き上げられていく。そうでないと「スクープ」など取れない。私も記者職を外れ「社員」であった時も政治家と会っていた。そこで得た情報を政治部の記者に伝えたこともある。

彼が黒川検事長と賭け麻雀をしたことを「社員の個人的行動」と片付けるのは、取材現場の実態とかけ離れている。彼は司法記者クラブに所属していたからこそ、黒川氏と出会えた。そして彼が司法記者として黒川氏から得た数々の情報は、朝日新聞の検察報道に大きく反映されてきたのは間違いない。編集局を離れた後に黒川氏から得た情報も司法記者クラブの記者に伝わり、検察報道に反映された可能性もある。何より黒川氏が検察の有力幹部でなければ、彼が黒川氏と頻繁に賭け麻雀をすることもなかったであろう。

賭け麻雀問題の核心は「検察と司法記者の癒着」である。なのに、朝日新聞社はその核心を覆い隠し、「黒川検事長と彼」に加え「検察と司法記者クラブ」の関係全般を掘り下げて調査することなく、「賭け麻雀と検察報道は一切関係ありません」という結論ありきの「おわび」をあわてて掲げたとしか見えなかったのである。

黒川検事長と賭け麻雀をした司法記者は他にいないのか? 他の検察官と賭け麻雀をした司法記者はいないのか? そもそも検察と司法記者クラブはどういう関係なのか? それらにフタをしたまま、過熱する世論を前に、とにかく謝ったのだった。

安倍政権の「お友達」は立件しないのに日産のカルロス・ゴーン氏らは強引に立件する検察の恣意的捜査と、検察の筋書き通りに報道するマスコミ報道に対し、「検察と司法記者は一体化している」との批判はずっとくすぶってきた。そこへ渦中の人物である黒川検事長と新聞記者らの「賭け麻雀」が発覚。「検察と司法記者の癒着」と「検察に追従する報道」を関連づける批判が噴出することを恐れ、彼の身分を「社員」と強調して検察取材の現場と切り離したーーそんな構図が浮かんでくる。

朝日新聞社は7年前の「吉田調書」問題で政治部出身の社長が退任して以降、社会部出身者が社長以下の要職を占め、経営や編集の主導権を握ってきた。なかでも社会部のエリートコースである司法記者クラブ出身者は人事や広報など危機管理にあたる主要ポストを担ってきた。そうした人々にとって「検察と司法記者クラブの癒着」がクローズアップされることは避けたかったに違いない。

実際、会社が5月29日に彼を懲戒処分にしたことを伝える記事でも「(彼が編集部門を離れた後の)過去3年間に同じメンバーで月に複数回麻雀をしてきた」ことは明らかにしたものの、彼が社会部の司法記者クラブに在籍した当時から賭け麻雀をしていたのか、それが検察報道にどう影響したのかといった核心には触れずじまいであった。彼以外の司法記者と黒川氏ら検察官との関係については調査した痕跡さえなかった。

賭け麻雀と検察報道は一切無関係という「結論ありき」の社内調査では、読者の疑念は解消されず、失われた信頼は回復されないだろう。「検察と司法記者との癒着」について、なぜ社外の第三者を含めた透明性の高い調査を実施しなかったのか。7年前の「吉田調書」報道取り消し後に第三者を入れ数ヶ月にわたって特別報道部の過去の報道を洗いざらい検証した対応との落差に驚きを禁じ得ない。

彼を懲戒処分にする理由が極めて曖昧になったのは当然の帰結である。朝日新聞の記事によると、その理由は以下のとおりである。

社員は、緊急事態宣言下に黒川氏、産経新聞記者2人と賭けマージャンをしており、本社は極めて不適切な行為と判断した。定年延長や検察庁法改正案が国会などで問題となっており、渦中の人物と賭けマージャンをする行為は、報道の独立性と公正性に疑念を抱かせるものだった。

懲戒処分を受けるに値するほどの「不適切な行為」とは何なのか。何が「報道の独立性と公正性に疑念を抱かせる」行為なのか。「緊急事態宣言下」だったことなのか。「賭け麻雀」をしたことなのか。相手が「渦中の人物」だったことなのか。極めて曖昧なのだ。

ひとつずつ読み解いてみよう。

まずは「緊急事態宣言下」は問題なのか。新聞記者なら緊急事態宣言下でも重要人物を取材するのは当たり前だ。編集局を離れていても、重要人物と接触できるなら接触し、そこで得た情報を同僚の記者に伝え紙面にいかすのは、新聞社の「社員」として大きな貢献である。いや、ジャーナリズムにかかわる者の「使命」であるといえるだろう。むしろ政府の緊急事態宣言に従順になり、取材を自己抑制し、権力監視の手を緩めるほうが読者への背信行為である。

次に「賭け麻雀」をどう考えるか。確かに良いことではない。しかし重要人物が賭け麻雀を好む場合、その懐に入って秘密情報を聞き出す取材行為は「隠し撮り」や「潜入取材」等と同様、権力監視の目的に照らして一概に否定されるべきではない。報道倫理上の注意をすべき点は多々あるものの、プロの取材者として十分に配慮しつつ、公益目的に照らして認められる場合はあるはずだ。法を司る検察官が賭け麻雀をすることと、権力監視を旨とする新聞記者が取材目的で賭け麻雀をすることは同列には論じられない。そうしたことを十分に検討したうえで「賭け麻雀」自体が今の社会通念上一切許されないと判断したのなら、その倫理基準を明確に打ち出した上、他の記者についても徹底的に調査しないとおかしい。

最後に「渦中の人物と賭けマージャンをする行為」は「報道の独立性と公正性に疑念を抱かせる」のか。賭け麻雀が単に遊びであったらそうだろう。しかし「渦中の人物」に迫る手段として「賭け麻雀」しかない場合、一概にそうともいえない。むしろリスクを背負ってでも「渦中の人物」にぎりぎりの手段を用いて接触を探ることこそ、あるべきジャーナリズムの姿ではないのか。むしろここで問われているのは、これまでの検察報道が検察権力に対する監視機能を十分に果たしてきたか、否かである。もし十分に果たしてきたのなら、賭け麻雀が発覚したところで、「報道の独立性と公正性に疑念を抱かせる」事態に発展しなかったのではないか。多くの読者がこれまでの検察報道について「独立性と公正性に欠ける」と感じていたからこそ、賭け麻雀は読者の疑念を増幅させることになったのではないか。

以上のように考えると、いったい彼の行為の何が不適切だったのか、疑問は膨らむばかりだ。

朝日新聞社に欠けていたのは、権力監視の責務を果たすため様々な手法を用いて権力に肉薄することへの理解を読者から得る努力であった。そして、そうした理解を得られるか否かは、日々の紙面の内容で決するのである。権力監視を徹底する紙面を毎日展開していたら、賭け麻雀にあれほどの批判が殺到することはなかったであろう。朝日新聞社にいちばん求められているのは、権力監視報道を取り戻すことである。

ところが、朝日新聞社がとった対応は、緊急事態宣言・賭け麻雀・渦中の人物の「合わせ技一本」でとにかく「社員」を処分し、世論の批判をしのぐことだった。そこで優先されたのは「組織防衛」だった。ひとりの「社員」が「賭け麻雀」をしたこと以上に、検察取材の実態を覆い隠そうとする新聞社の上層部の姿勢が読者の信頼を失わせたのではないか。

私の結論を示したい。朝日新聞社の最大の失敗は、彼の賭け麻雀を「取材行為ではない」と認定したことである。彼を「社員」だと位置づけ、「検察取材とは関係ない」と整理し、組織防衛に走ったことである。編集局から離れていたとしても、彼が黒川氏と長らく続けてきた賭け麻雀は、取材相手との関係を維持・発展させるという意味で、どうみても「取材行為」であった。そこを認めず、覆い隠そうとするから、議論が実態とかけ離れ、すべてがウソくさくなり、読者の信頼を失ったのだ。

そして、賭け麻雀をした彼に、特別報道部デスクとして席を並べた仲間として伝えたいことがある。ジャーナリズムに携わる者の責務は、会社を守るため、自分自身を守るため、過去を隠すことではない。黒川氏は賭け麻雀をしながら、またはその前後に、様々なことを語ったはずだ。彼の責務は、それを包み隠さずに自分で書くこと、世の中に伝えることだ。

黒川氏は定年延長問題の最中に何を考えていたのか、安倍官邸とはどういうやりとりがあったのか。それらの歴史を記録するのは、ジャーナリズムに携わった者の使命である。そして、自らが歩んできた検察取材の実態、検察と司法記者の関係を洗いざらい告白することは、密室の検察報道を可視化し、癒着構造を改め、読者の信頼を回復する最良の方法ではないか。

ジャーナリズム史に残る歴史的場面の渦中に身を置いたことは、ジャーナリストにとって幸運である。彼にはそれを書き残してもらいたい。自らの傷と向き合うことは、とても辛い。7年前の「吉田調書」報道取り消しの渦中に身を置き、彼と同じように会社から懲戒処分され、世間からバッシングされた経験のある私には、よくわかる。それでも、書き残してもらいたい。私もこれから書き残していくつもりだ。それがジャーナリズムの再建につながると信じて。

「賭け麻雀」にみられた「論理なき謝罪と処分」は「吉田調書」と極めて似ている。論理が曖昧になるのは、不都合な事実を覆い隠しているからである。次回は「吉田調書」を振り返ることにしよう。

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