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新聞記者やめます。あと12日!【野党や新聞が「批判ばかり」と批判されることに怯える理由とは?】

野党も新聞も「批判ばかり」と批判されることに怯えている。近年は「提案型野党」や「提案型報道」という言葉が頻繁に語られるようになった。それと引き換えに国会審議や新聞紙面での追及が手ぬるくなったと私は思っている。

提案自体が悪いわけではない。それを口実に追及を手控えるのが問題なのである。それで得をしたのはだれか。政府・与党である。

野党政治家や新聞記者たちは一様に「批判ばかりしていたら支持者(読者)から見放される」という。だから「提案型」なのだという。

本当だろうか。

大ヒットした劇場版「鬼滅の刃」で「俺は俺の責務を全うする」と宣言する煉獄杏寿郎に幅広い共感が集まった。世の中の人々は、それぞれがプロとしての「責務」を全うすることを期待しているはずだ。

野党や新聞の第一の責務は「提案」なのか。政権交代のリアリズムを高め、政治に緊張感をつくるために、野党が「もうひとつの選択肢」を掲げることは極めて重要である。今年は総選挙の年。とくに「提案」が重要な年だ。

それでも「提案」が第一の責務だと私は思わない。提案は学者やシンクタンクにもできる。一般の人々がどうしても及び腰になること。野党や新聞にしかできないこと。「権力が隠している不正」をあぶり出し、それに基づいて権力を追及する「権力監視」こそ、野党や新聞が第一に全うすべき責務ではないか。

コロナ対策で相次ぐ政府の失態、モリカケサクラなど数々の疑惑と不正の隠蔽、そして虚偽答弁…。

みんな政府・与党に怒っている。誰かにしっかり批判してもらいたいと思っている。野党や新聞に対し、実現するかしないかわからない「不確かな提案」よりも、権力の不正を追及する「確かな批判」を望んでいるはずだ。

ところが、野党や新聞が批判を声を上げると、たしかに「批判ばかり」と批判が噴出してくる。まっとうな批判をしていても耳を傾けてもらえないことはよくある。政府・与党が追及をかわすために世論誘導している側面もあろう。しかし、原因はどうもそればかりではない。

与党支持者でなくても多くの人々が野党や新聞が「批判」すること自体を冷ややかに見ているのはなぜなのだろう。

私はTwitterで政権を批判し、私への反論を逐一読むうちに、ナゾが解けた。返信欄に並ぶ私への批判で圧倒的に多いのは「新聞社の高給をもらいながら何を言っているんだ!」「安全地帯から批判しても説得力がない!」というものだった(実際はもっと激烈な言葉の数々です)。

これら反論は文章表現こそ過激でムカっとくることもあるが、その言わんとすることは実はもっともなのだ。要は「批判した内容」に反発しているのではなく「お前に批判をする資格はないよ」と言っているのである。

政治家、官僚、学者、大企業のサラリーマン…。大卒・高給のエスタブリッシュメントとは一線を隠し、現状に不満を抱く民衆の側に立つのが新聞の本来の姿である。野党もそうであるはずだ。ところが、野党も新聞も大卒・高給のエスタブリッシュメント(既得権益層)の仲間入りをしてしまった。民衆からすれば、与党も野党も新聞もみんな「あっち側の人」、つまりエスタブリッシュメントなのである。

コロナ禍で貧富の格差はますます広がり「持てる者」への不満はどんどん膨らんでいくだろう。民衆からすればイデオロギーの「左右」の差より、貧富の「上下」の差のほうがはるかに重要だ。同じ「下」の立場に身を置き、「下」の声を代弁する姿勢を野党政治家や新聞記者から感じ取れず、憤り、呆れ、諦めている。

野党や新聞の「批判」が世の中の人々に幅広い共感を持って受け入れられるには、野党議員や新聞記者が「エスタブリッシュメント」から「在野の人」に立ち戻るしかない。安定した境遇を投げ捨て、民衆と同じ地平に立つしかない。「国会議員」や「新聞社の会社員」という恵まれた立場それ自体が言論の説得力を大きく損なっている。「お前が批判をしても説得力がない」のである。

野党政治家も新聞記者もそれに薄々気づいている。「批判ばかり」と逆襲されるのを怯えている。だから「批判」を弱め、「提案」で誤魔化す。その結果、エスタブリッシュメントの様相をますます強め、権力監視の責務をまっとうできない悪循環に陥り、民衆との距離が広がる。

私は多くの野党政治家を政治記者として20年以上みてきた。彼らは初当選した当初は政治改革に燃えていた。純粋だった。しかし当選を重ねるにつれ、豊かになった。「先生、先生」と呼ばれ、居心地がよくなった。知らず知らずのうちに当選を重ねること自体が目的となった者は少なくない。世の中の人々はそれを見透かしている。

野党は緊急事態宣言を主張するのなら、宣言中は歳費を全額返上し、コロナ禍で苦しむ庶民と同じ地平に立つくらいの気概をみせてほしかった。それでこそ、与党との違いが際立ってくる。

新聞記者も同じだ。入社当初はみんなジャーナリズムに燃えていた。いつからか多くの仲間はサラリーマン記者になった。私もそうだった。それも世の中の人々に見透かされている。

新聞業界の凋落は、新聞復活のチャンスである。新聞記者の給料がますます下がり、地位や高給を目当てに新聞記者になった者が新聞社に魅力を感じなくなってはじめて、新聞ジャーナリズムは甦ってくるのではないか。

私は7年前の吉田調書報道でデスクを更迭され、新聞編集の中枢から離れ、Twitterで発信を始め、多くの方から直接批判を受けるようになってはじめて、以上ことに気づいた。ずいぶん遠回りしてしまったが、言論の説得力を磨くには「エスタブリッシュメント」と化した新聞社を去るしかないと思うに至った。まずは自ら「野に下る」ことにしたのである。

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