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新聞記者やめます。あと37日!【東京五輪のために国民からGWを取り上げた緊急事態宣言。「個人より国家」へ逆戻り!】

日本政府が三度目の緊急事態宣言を発した。「東京五輪を今夏に開催して国家の体面と利権を守るため、国民からゴールデンウィークを取り上げるための緊急事態宣言」というのが私の見解である。国家の都合で何の理念も論理もないまま国民の自由と権利を奪うこの国の場当たり的な政治のあり方に、私は怒りを禁じ得ない。日本は「個人のために国家がある」社会から「国家のために個人がある」社会へ逆戻りしてしまったのだ。

ここで緊急事態宣言に対する私見を整理しておきたい。三度目の緊急事態宣言にあたり、いまいちど根本からその意味を問い直す必要があるからと考えるからだ。

コロナが「ただの風邪」と違うところは、治療法が確立していないために「医療崩壊」を招いて「救える命が救えなくなる」恐れがあることだ。だからこそ多くの人々が怖がり、ここまで大きな社会不安に発展したのである。政府のコロナ対策の最優先課題は「医療崩壊を防ぎ、社会不安を取り除くこと」にあるといっていい。

医療崩壊を防ぐには、(1)「感染者数・患者数=需要」を減らし(2)「病床や医療機器・医療スタッフ=供給」を増やすことの両方が必要である。

「感染者数・患者数=需要」を減らすのにもっとも効果的な方法はロックダウンだ。人々の外出を禁止して人と人の接触を極力断つのである。

ここで重要なのは「いくらロックダウンしたところでコロナウイルスはこの世の中から消えてなくならない」という事実だ。ロックダウンによって感染拡大が一時的に沈静化しても、ロックダウンを解除すれば再び感染拡大は始まるのである。

では、何のためにロックダウンするのか。それは、感染爆発が起きて死者・重症者が急増する「緊急事態」を一時的に回避するための「緊急措置」、いわば「急場しのぎ」に過ぎない。ものすごい勢いで増大する「感染者数・患者数=需要」をとりあえず抑え込み、その間に「病床や医療機器・医療スタッフ=供給」を確保するための「時間を稼ぐ」緊急措置なのだ。

そういう意味では、中国・武漢で「新型肺炎」が蔓延しているという衝撃のニュースが世界に広がった昨年はじめ、諸外国が真っ先に「ロックダウン」を断行したのは極めて合理的な危機対応であった(日本の水際対策や緊急事態宣言は遅かった)。

新型コロナウイルスは当初、得体が知れなかった。どのように感染するのか、どう治療したらよいのか、人類に未知の難題が突きつけられたのである。その時、感染拡大防止を最優先課題として、ロックダウンを断行して人々に自宅に引きこもるように求めることは、緊急事態を回避する応急措置として適切であっただろう(中国のような強権国家と違って、民主国家は国民の自由と権利を最大限に尊重すべきだ。「国家による個人の自由と権利の制約」は必要最小限にとどめなければならないし、やむなくそうした措置をとる場合は極めて丁寧な説明責任が不可欠だ。コロナを撲滅しても個人の自由と権利が消滅したら意味がない)。

中国政府は当初、武漢に巨大病院を突貫工事で建設し、医療スタッフをかき集めた。私は「ずいぶん大胆なことをするな」と思ったが、振り返ればその対応こそ、緊急事態に対する的確な「危機管理」であった。日本政府が一年前に、東京五輪の中止を決め、五輪会場に巨大病院を建設し、大量の医療スタッフを破格の好待遇でかき集めていたら(東京五輪やGOTOトラベルの巨額予算をすべてそれに投入していたら)その後のコロナ禍の惨状はずいぶん違っていたことだろう(救える命はたくさんあったであろう)。

あれから一年以上の月日が流れた。コロナの正体はかなり判明してきた。治療法の研究も進んだ。諸外国の政府はロックダウンを繰り返しながらコロナ対策を進化させてきた。台湾や韓国のITを駆使したコロナ対応は世界の賞賛を浴びた。欧米や中ロはワクチンを開発した。

そのなかで日本政府は国民にひたすら我慢を求めるばかりであった。PCR検査も一向に広がらない。「コロナ病床」は依然不足している。医療スタッフはまったく足りない。ワクチンは独自開発できず、輸入による確保もままならず、世界からみて大幅に接種が遅れている。「感染者数・患者数=需要」を抑えるために国民に自粛を迫るばかりで、「病床や医療機器・医療スタッフ=供給」を増やす根本的な対策を怠ってきた。一年以上も無為無策だった。国民が我慢を重ねて生み出した「時間」を無駄に浪費したのだ。

その結果、コロナ感染者数は欧米より桁違いに少なく、「病床数」は世界トップレベルのはずなのに、コロナ患者を治療・入院させることができない「医療崩壊」が発生し、「救えるはずの命が救えない」という事態を招いたのである。

すべての世帯にマスク2枚を届けるのに四苦八苦し、感染者数情報をFAXで集計して手間取るこの国の行政をみるにつけ、私はもはや二流国に転落したと実感するほかなかった。コロナ危機が発生した一年前ならともかく、一年以上たった今もなお、そうした状況が続いているのだ。これこそ「政治の怠慢」「失政」そのものではないか。いったい、何をしてきたのか。

決定的なのは「ワクチン敗戦」だ。ロックダウンや外出・営業などの自粛は、極論すれば「ワクチンを開発し、多くの人々に接種して、集団免疫を獲得するまで、医療体制を維持する(医療崩壊を防ぐ)ための時間稼ぎ」といっていい。ところが、日本政府は、国民に自粛を求めるばかりで、医療体制を強化することも、ワクチンをいちはやく確保して接種することもできなかった(しなかった)のだった。

しかも、政治の怠慢を追及し、政治に緊張感を取り戻す役割を担っているはずのマスコミは、政府と一緒になって「感染者数・患者数=需要」を抑えるために国民に自粛を迫るプロパガンダを流すばかりで、「病床や医療機器・医療スタッフ=供給」の増加を怠り「ワクチンの確保・接種」に出遅れる「政治の怠慢」を厳しく追及してこなかったのである。権力監視の責務を放棄してきたのだ。

この期に及んで、国民に向かって「病床が急に増え、ワクチン接種が劇的に進むわけでもない現状では、私たちが宣言を機に改めて行動を見直し、感染拡大を防ぐしかない」と訴える言説を目の当たりにすると、マスコミ不信が広がるのも無理はないと思う。いったい、誰の味方なのか。私は国家権力に同調する「私たち」に入りたくはない。

もう一年以上の月日が流れた。国民はずっと我慢してきた。それは「病床を増やしてワクチン接種を進める」時間を稼ぐためだった。それなのに政府は無為無策で、ただひたすら国民に我慢を迫るばかりだった。まずは「政治の怠慢」を追及するのがマスコミの責務である。「政治の怠慢」を厳しく批判して政治の緊張感を取り戻すことなく、政府と一緒になって国民に向かって上から目線で「行動の見直し」を「啓蒙」するマスコミに、誰が耳を傾けるだろうか。

ここで目をつぶるわけにはいかないのは、「東京五輪」という国策のスポンサーに大手マスコミが名を連ねているという事実である。東京五輪を開催するために、国民に我慢を迫る政府のプロパガンダに加担しているという疑念が生じるのは至極当然だ。だからこそ、権力監視を旨とするマスコミは、国策のスポンサーになってはいけないのだ。一線を画さなければならないのだ。新聞が「戦争」という国策に加担した反省を忘れたのか。マスコミ各社はこの疑念に対し、どう説明するのだろうか。沈黙を続けるつもりだろうか。

日本国民はこんな政府やマスコミになぜもっと怒らないのか、私はずっと疑問だった。もっと怒った方が良いと今も思っている。

他方、この国の人々はそうした抗議の意思を「怒り」では表現しないのではないかと最近思うようになった。そう、この国の人々は抗議を「怒り」ではなく「無視」で表現するのだ。「相手にしない」のである。首相が記者会見で緊急事態宣言を表明した翌日の土曜日、爽やかな春の陽気の都心に溢れかえる人々をみて、そうした認識を強くしたのだった。

こうした政治風土は平時には政権与党に有利に働く。しかし国家危機時には政権与党の足を引っ張る。「まん延防止等重点措置」だろうが「緊急事態宣言」だろうか、誰も真正面から受け止めない。多くの人は政治を信頼していないし、期待もしていない。政府の要請に黙って従うのは、政府から仕事を受注していたり、補償をもらえたりする利害関係者か、過度の同調圧力にさらされた人くらいだろう。

その他大勢は他人事である。面従腹背である。睨まれないように気をつけながら、我は通す。そんな人々に本気で「自粛」してもらいたいのなら、緊急事態宣言のたびに現金を一律給付して「当事者」の意識を共有してもらうしかなかろう。

これほど危機管理に弱い社会はない。ひとりひとりに「社会的責務を果たす」という意識が乏しく、自分の「損得」でしか動かない社会になってしまった責任は、むろん庶民にはない。いや、自分たちの自由や権利が奪われる以上、まずは対価を要求するのは民主社会の基本である。これに対し、大衆を納得させる「言葉」も「カネ」も持ち合わせていない為政者たちが悪いのだ。国家権力を私物化し、身内を優遇する利益誘導を重ね、不正や疑惑を隠蔽し、政治への信頼を根本から喪失させ、この国の未来をあきらめさせた政治家や官僚にすべての責任はある。

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