財務省で「10年に1人」と評されてきたエリート官僚が、突然、霞が関を去ることになった。
一松旬・財務省主計局次長。開成高校から東京大学法学部を経て旧大蔵省に入省。奈良県副知事、主計官、岸田首相秘書官などを歴任し、昨年10月には主計局次長に就いた。将来の主計局長、そして財務事務次官まで視野に入る「王道コース」のど真ん中を歩んでいた人物だった。
ところが、その一松氏が今回、東京税関長に転じる。
東京税関の本関があるのは、霞が関ではない。東京湾岸の江東区青海(あおみ)。東京港湾合同庁舎という、東京湾の埋立地にある官庁だ。
もちろん東京税関長は重要なポストであり、単純な「左遷」と断定することはできない。だが、主計局次長からわずか10カ月で税関長に移るという人事は、一松氏のこれまでのキャリアを考えれば、明らかに異例である。
なぜ、このタイミングなのか。
最大のポイントは、高市政権と財務省の消費税減税をめぐる激突である。
高市首相は消費税減税を掲げ、財務省は一貫して慎重論を唱えてきた。その最前線にいたのが、強烈な財政再建論者として知られる一松氏だった。
官邸周辺からは「政権にあまり協力的でなかった」という趣旨の見方も出ている。さらに「なぜこんなに抵抗するのかと思うぐらい言うことを聞かない」「優秀さを発揮する方向を間違えている」といった厳しい評価も伝わっている。
もしこれが事実なら、今回の人事は単なる定期異動ではない。
高市首相による「報復人事」なのか。
それとも、財務省側が一松氏を差し出すことで、政権との全面衝突を避けた「生け贄人事」なのか。
あるいは、もっと現実的に考えれば、財務省が一松氏をいったん本省から退避させ、高市政権との摩擦を抑える「避難人事」だった可能性もある。
ここが今回の人事の最大の謎である。
実は、もっと重要なのは「なぜ一松氏だけなのか」という点だ。
今回の財務省人事では、組織のトップ層が順当に「出世」した。一松氏の上司だった主計局長の宇波弘貴氏は今回の人事で官僚トップの事務次官へ昇格した。その中で、一松氏だけが本省の中枢から外れたのだ。
これは偶然なのか。
私は、ここに高市政権と財務省の「手打ち」の構図が透けて見えると思う。
高市政権は消費税減税をめぐって財務省を押し切った。一方、財務省は組織の最高幹部を守る。その代わり、政権に強く抵抗してきた次世代エースを一人、差し出す。
もしそうだとすれば、これはまさに政権と官僚組織の「バーター」である。
そして、この人事にはもう一つの政局的な意味がある。
一松氏は岸田文雄前首相の秘書官だった。
総理秘書官というのは、官僚にとって単なる肩書ではない。首相官邸と省庁をつなぐ極めて重要なポストであり、そこで仕えた官僚の処遇には、当然ながら政治的な意味が生じる。
岸田氏にとってみれば、自分の秘書官を務めた人物が、首相交代後わずか数年で、財務省の王道コースから外れたことになる。
岸田のメンツは丸潰れだ。
ここで思い出したいのが、自民党内の「麻生・茂木・岸田」の三頭政治である。
過去の総裁選では、岸田と麻生の立ち位置が必ずしも一致してきたわけではない。高市首相と麻生太郎氏の関係も緊張をはらんでいる。
高市政権が長期化するなら、麻生氏に対抗するためには岸田氏をどう取り込むのかが重要になる。
ところが、その岸田氏の元秘書官を、本省中枢から外す。これは高市総理が麻生氏と対抗するための政局的視点からは「悪手」のようにも見える。
政局としては非常に興味深い。
ただし、もう一つ忘れてはいけないのが、財務省そのものの変化である。
かつての大蔵省には、政治家との距離を巧みに測りながら政策を実現する「政治官僚」の色彩が強かった。しかし現在は、東大法学部中心だった人材構成が変わり、経済学部出身者が増え、海外留学経験者も多い。
財政論としては優秀でも、政治家との距離感をどう取るかという問題が生じている。
そして、官邸による人事権が強まった。
官僚にとって「正しい政策」を主張するだけでは足りない。政権が何を実現しようとしているのか、その政治的な力学まで読み切らなければ、自分自身の人事にも跳ね返ってくる。
一松氏の人事は、その象徴なのかもしれない。
むしろ注目すべきは、その先だ。一松氏が将来、再び財務省本省に戻るのか。官房長、主計局長へと復帰する道が残されているのか。
それとも、高市政権が長期化することで、本来なら間に合ったはずの「次の事務次官」のレースから脱落するのか。
そして秋の内閣改造で最大の焦点になるのが、財務大臣だ。
片山さつき氏が留任すれば、高市と財務省の引き分け。
鈴木俊一氏が復帰すれば、麻生側の勝利。
そして西村康稔氏が抜擢されれば、高市側の勝利。
一松氏の東京税関長人事は、その前哨戦なのかもしれない。
高市首相は財務省を本当に屈服させたのか。
それとも、財務省は一人のエースを差し出して、組織を守っただけなのか。
東京湾岸の青海に赴く一松氏の背中の向こう側には、高市政権と財務省、そして麻生・岸田を巻き込んだ、巨大な権力闘争が見えている。